第33話-2「風を喰らう牙」
エオリアを出て、三日が過ぎた。
四人は街道を避け、南へ向かっていた。目指すのは、タラッサとの境に近い湾岸だ。追っ手の目を逃れるには、戦支度でごった返しているあの辺りのほうが、かえって紛れやすい。そう言い出したのはアズラエルだった。
二日目の夜、小さな宿場町の安宿に転がり込んだ。
「片腕の男を見なかったかな。四十がらみで、左の肩から先がない」
カースは宿の主人に、それとなく訊いた。
「片腕? さあねえ。この辺じゃ見かけねえな」
「そうですか」
主人は帳場の奥へ引っ込んでいった。
階段を上がった狭い部屋で、ウォルターが壁に拳をつけた。
「どこに消えやがった、あいつは」
壁を殴りはしなかった。ただ、額を拳に押し当てていた。
「あの傷で、まともに動けるはずがねえ。なのに、足跡の一つも残ってねえ」
「もしかしたら」
シークが、窓の外を見たまま言った。
「あいつ、俺たちを追ってきてるんじゃないか」
「どういう意味だ」
「牢の前のあいつの目。許してもらいたい奴の目じゃなかった。何か、まだやり残してることがある目だった」
カースは黙っていた。
(ガルト。何をしようとしてるの?)
答えは出なかった。
手がかりが見つかったのは、湾岸まであと半日というところだった。
港に近い、うらぶれた酒場の隅。煤けた卓で安酒を舐めていた年寄りの密売人が、カースの問いに顔を上げた。
「片腕の男なら、見たぜ」
四人の視線が、一斉に集まった。
「ひでえ有様だったな。包帯は真っ黒で、足もふらついてた。それでも妙に必死な目をしてよ、南へ南へ歩いてった。何かに急かされてるみてえだった」
「南というと」
「湾岸だろうよ。あっちは今、戦支度で兵隊だらけだ。あんな死に損ないが、なんでわざわざあんな物騒なとこへ行くのかね」
四人は顔を見合わせた。
「やっぱりだ」
シークが呟いた。
「あいつ、逃げてるんじゃない。何かを抱えたまま、あっちへ向かってる」
「......わからねえ」
ウォルターは首を振った。だが、その声からは、エオリアで見せた刺々しさが抜けていた。
「少なくとも、裏切り者の逃げ足じゃねえな」
湾岸に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
海沿いに、土嚢と木の柵で固めた陣地が幾筋も築かれていた。あちこちにエアハルト家の旗がはためき、兵士たちが荷を担いで行き交っている。潮の匂いに、焚き火の煙と馬の糞の臭いが混じっていた。
陣地の外れの、人目につかない一角に、粗末な天幕が一つ張られていた。見張りは二人。どちらも退屈そうに、槍にもたれてあくびをしている。
四人は岩陰を伝って天幕の裏へ回り込み、布の裂け目から中を覗いた。
カースは息を呑んだ。
藁を敷いた地面に、子どもたちが並べて寝かされていた。十人はいる。どの子も腕や胸に包帯を巻かれていたが、巻き方がひどく雑だった。
一番手前の子の包帯がずれて、胸の傷口が覗いていた。埋め込まれて間もない精霊石の周りで、皮膚が赤黒く爛れている。小さな水ぶくれが、いくつも浮いていた。
「......お母さん......いたいよ......」
その子は、熱に浮かされたようにうわ言を繰り返していた。焦点の合わない目が、天幕の天井をさまよっている。隣の子は、もう声を上げる力もないのか、口を半開きにしたまま動かなかった。
入口の布が跳ね上がり、兵士が一人入ってきた。手に帳面を持っている。
「もうじき出番だ。ちゃんと役目を果たせよ」
兵士は子どもたちの顔を一つずつ見て回り、帳面に印をつけていった。うわ言にも、水ぶくれにも、目を留めなかった。積み荷の数を確かめるのと、何も変わらない手つきだった。
(――もう、始まってる)
カースの胸の奥が、冷たく固まっていった。あの地下で見たものが、今度は本物の戦の道具として、目の前に並べられている。
「胸糞悪ぃ」
ウォルターが吐き捨てた。それから、隣のカースの顔を見た。
「おい、カース。大丈夫か」
カースは答えなかった。
右腕の黒い紋様が、さっきからずっと脈打っていた。どくん、どくん、と。これまでにない速さで。
その夜、陣地から離れた岩場の窪みで、四人は火を焚かずに身を寄せ合った。
カースは浅い眠りの中で、夢を見た。
ゴミ捨て場の片隅。雨に濡れて震えていた、小さな黒い犬。差し出したパンの耳に、ちぎれそうなほど尻尾を振っていた。
夢の中のネロは、なぜか悲しそうな目をしていた。何かを伝えたそうに、じっとこちらを見上げている。
『――ノアにいちゃん』
カースは跳ね起きた。
全身が冷たい汗で濡れていた。右腕の紋様が、心臓のようにどくどくと脈打っているのがはっきりわかった。
(この感じ)
これまでのどの技とも違った。自分の中で、もう一つ別の命が目を覚まそうとしている。
「カース」
すぐ隣で、シークが体を起こしていた。
「うなされてたぞ。ずっと」
「......ただの夢だ」
「嘘つけ。汗びっしょりだ」
シークはカースの額に手を当て、眉を寄せた。
「熱はない。でも、顔色が悪い。水、飲め」
差し出された水筒を受け取りながら、カースは自分の右腕に目を落とした。
(何かが来る。もうすぐだ)
(第33話-3「風を喰らう牙」へ続く)




