第33話-1「風を喰らう牙」
闇市のさらに奥。誰も寄りつかない廃屋の一室に、四人は身を潜めていた。
カースが目を覚ましてから、まだ半日も経っていなかった。細い体には粗末な包帯が幾重にも巻かれ、白かったはずの布には赤黒い染みがいくつも浮いている。傷はまだ塞がっていない。少し身じろぎするだけで、包帯の内側がじくじくと疼き、新しい血が滲んでくるのがわかった。
「無理すんな。まだ動くな」
ウォルターが水に浸した布を絞り、カースの額に当てた。熱を持った肌に、冷たさが心地よかった。
「......ありがとう」
声はまだ掠れていた。息を吸うたびに、肋のあたりが鈍く痛む。
「アズラエル。もう一度、診てくれ」
シークが、苦いものを噛んだような顔で言った。あいつに頼るのは気に食わない。だが、カースのこの様子を見れば、選り好みしている場合ではなかった。
「うん、いいよ」
アズラエルはあっさり頷き、カースの右腕に手をかざした。紫色の淡い光が、傷口をゆっくりと包んでいく。
治療のあいだ、アズラエルの目はずっと、カースの右腕に絡む黒い紋様に注がれていた。
「前より、脈が強くなってるね」
「どういう意味?」
カースが低く訊いた。
「この紋様。前に見たときより、確かに育ってる。次に進む支度をしてるみたい」
アズラエルは楽しそうにそれだけ言うと、口を閉じた。
カースには、思い当たる節があった。処刑台での、あの泥の暴走。あれからときどき、体の奥で何かが寝返りを打つような感覚が消えずにいた。
「で、これからどうする」
治療が一段落したところで、ウォルターが切り出した。苛立ちを隠そうともしていなかった。
「街は封鎖されてる。ガルトがどこにいるかもわからねえ。このまま闇市に籠もってても、じり貧だ」
「ウォルターはどうしたい」
カースが訊いた。
「決まってる。さっさとこの街を出る。エオリアに残る理由は、もうねえ」
「待て」
シークが鋭く口を挟んだ。
「ガルトを置いていくのか」
「置いていくわけじゃねえ。だが、先に守るべきはカースの命だろうが」
シークの目が細くなった。
「ウォルターは、まだガルトを許してないのか」
「当たり前だろうが」
ウォルターの声が沈んだ。
「あいつは俺たちを売った。カースは首を落とされかけた。それをあっさり水に流せるわけがねえだろ」
「でも」
シークは引かなかった。
「あいつにも、何かあったはずだ。牢の前で、あいつの拳から血が垂れてた。好きで裏切った奴の手じゃない」
「同情なんざ、するだけ無駄だ」
二人の間の空気が、目に見えて尖った。意見が割れているだけではなかった。仲間だと思っていた男に売られた。その傷が、それぞれの中でまだ生のまま残っていた。
「喧嘩なら、よそでやってくれる?」
アズラエルが、間延びした声で割り込んだ。
「今大事なのは、ここから無事に出ることでしょ。続きはそのあとで、いくらでもどうぞ」
「お前は黙ってろ」
ウォルターが睨みつけた。
「そもそも、お前を信用したわけじゃねえ。フロストの件は助かった。だが、それだけだ」
「別に、信用してなんて頼んでないよ」
アズラエルは肩をすくめた。
「ボクは呪術師くんの呪いの行く末を見届けたいだけ。ほかのことには興味ない。それでいいでしょ」
あまりにもあけすけな答えに、ウォルターは返す言葉を見つけられなかった。
「行こう」
カースが、壁に手をついて立ち上がった。脇腹を庇いながら。
「言い争ってる時間はない。ガルトを探しながら、この街を出る」
誰も、すっかり納得したわけではなかった。それでも、今やるべきことだけは全員わかっていた。
その夜、四人は闇に紛れて廃屋を出た。
街のあちこちに、エアハルト家の追っ手が散っていた。松明の灯りが通りを行き交い、遠くで犬が吠えている。
「止まれ」
路地の角で、シークが手を上げた。
「風が変わった。向こうから、鉄の匂いが流れてくる」
四人が壁に身を寄せた直後、大通りの向こうを重装の兵士たちが隊列を組んで通り過ぎていった。
「あと少し遅れてたら、鉢合わせだったね」
アズラエルが囁いた。
建物の陰から陰へ。運河沿いの暗がりを縫うように、四人は街の外れを目指した。
南の門へ続く最後の通りで、足が止まった。
門の前に検問が張られていた。松明が四本。槍を持った兵士が六人。荷車の積み荷を一つずつ槍で突いて改めている。脇の運河には、鎖を渡して舟の出入りを塞いであった。
「正面は無理だな」
ウォルターが低く言った。
「運河の鎖の下なら、潜れる」
シークが水面を顎で示した。
「カースの傷に、この水は」
「平気だ」
カースは即答した。平気なはずがないことは、自分が一番よくわかっていた。
「なら、ボクが灯りを借りるよ」
アズラエルが指先を小さく弾いた。門の脇に吊られた松明の一本が、ぱちりと爆ぜて落ちた。積んであった藁に火が移り、兵士たちが怒鳴りながらそちらへ駆け寄っていく。
「今」
四人は運河の縁から、音を立てずに水へ滑り込んだ。
夜の水は、刺すように冷たかった。包帯に水が染み込み、塞がりかけた傷が一斉に悲鳴を上げる。カースは唇を噛んで声を殺した。前を行くシークが何度も振り返り、カースの腕を掴んで引いた。
鎖の下をくぐる。頭のすぐ上で、兵士の足音が行き来していた。
水から上がったのは、門から百歩ほど離れた葦の茂みだった。四人とも全身から水を滴らせ、歯の根が合わないほど震えていた。
振り返ると、エオリアの灯りが遠くに滲んでいた。
「......出られた、か」
ウォルターが荒い息を吐いた。
「まだ気は抜けない」
カースは濡れた包帯の上から脇腹を押さえた。指の間に、また血が滲んでいた。
「ガルトの手がかりは何も掴めてない。それに、あいつらがこれで諦めるとは思えない」
「カース、血が」
シークがカースの手元を覗き込んだ。
「大丈夫だ」
「大丈夫な顔じゃない」
シークは自分の外套を脱いで、ぎゅっと絞ると、カースの肩にかけた。濡れていて、少しも温かくはなかった。それでもカースは、黙ってその裾を握った。
(第33話-2「風を喰らう牙」へ続く)




