第32話-1「血塗られた処刑台」
処刑を翌日に控えた夜。
雲が低く垂れ込め、エオリアの空には星ひとつ見えなかった。冷えた夜風が細い音を立てて、湿った石畳の路地を吹き抜けていく。
港に面した広場では、明日のための処刑台の組み上げが続いていた。松明に照らされた木組みの影が、闇の中にのっそりと立ち上がっている。かん、かん、と木槌の音が夜通し響いていた。一打ちごとに、夜明けが近づいてくる。
ガルトは、その音を背中で聞いていた。振り返らなかった。振り返れば足が止まる。一度止まったら、もう二度と動けなくなる気がした。
闇市の外れ、打ち捨てられた倉庫の地下。これまで何度も、あの男と会ってきた部屋だ。湿気と黴と古い油の臭いがこもった地下道を進むあいだ、心臓がずっと胸の内側を叩いていた。
足元で木の床が軋む。その音がやけに大きく聞こえた。外套の下で、ガルトはナイフの柄を握りしめていた。掌が汗で滑る。
カースは牢の中だ。ウォルターとシークは、どこかへ逃げ延びた。自分が売った。その事実は、何度考え直しても変わらなかった。
(それでも、今夜で終わる。あいつを取り戻せたら、俺は......)
昔、自分が束ねていた小さな組織のことを思い出す。行き場のない連中を拾い集めて、貧しいなりに肩を寄せ合っていた。その中に、実の子のように目をかけていた少年がいた。
あの夜、拠点は炎に包まれた。あいつを逃がしてやれなかった。その悔いが、何年ものあいだ、一日たりとも胸を離れたことはなかった。
最後の扉に手をかける。鉄の冷たさが指に染みた。ガルトは一度、深く息を吸った。
扉を押し開ける。
油ランプの灯りに照らされた卓の向こうで、シルヴァンが椅子に深く腰かけていた。仕立てのいい深緑の上着。端正な顔に、いつもの薄い笑みが貼りついている。灯火が揺れるたびに、その笑みの影が壁の上で伸び縮みした。
「随分と急いだ様子だな」
「約束があったはずだ」
低く抑えた声だった。抑えていなければ、何が溢れ出すかわからなかった。
「呪術師は捕まえた。明日には首が落ちる。俺の役目はもう果たした。だったら――」
「ああ、あれのことか」
シルヴァンは首を軽く傾けた。道端の石ころでも思い出したような顔だった。
「お前の可愛い息子同然の、あの若造だな。あの夜からずっと、我が家で預かってきた。お前を動かすには、生かしておくのが一番だったからな。会わせてやるとも。約束通りに」
「今すぐだ」
「そう急くな」
シルヴァンは灯りに透かした杯を傾け、一口含んだ。琥珀色の酒が、炎を映して赤く光った。
「その前に、少し昔話に付き合え」
「昔話、だと」
喉の奥がひくりと震えた。この男が時間を引き延ばすとき、ろくなことはない。
「お前の仲間たちが全滅した、あの夜の話だ」
ガルトの肌が粟立った。
「お前はこう思っているのだろう。貴族同士の利権争いに巻き込まれ、両方から邪魔者扱いされて潰された、と」
「......それがどうした」
「半分は正しい」
シルヴァンの薄い唇が、弧を描いた。
「両方から狙われたのは事実だ。だが、その両方を裏で焚きつけていた者がいたとしたら、どうする」
ガルトの目が、シルヴァンを射抜いた。喉の奥から、獣じみた唸りが漏れた。
「......何?」
「お前たちの組織は、確かにどちらの家にとっても目障りだった。だが放っておけば勝手に潰れる程度のものだ。それを、互いが相手の手先だと思い込むように仕向けたのは、我が家だ」
「お前、が」
「片方には、もう片方がお前たちを匿って金の出どころにしていると吹き込んだ。もう片方には、その逆を。あとは勝手に疑い合い、潰し合ってくれた。おかげで、こちらは指一本汚さずに済んだ」
シルヴァンは喉の奥で、くつくつと笑った。
「あの夜、拠点に内側から火をつけたのも、我が家の間者だ」
ガルトの指先から、感覚が遠のいていった。
(――風向きが悪かったな)
焼け跡に残されていた、一枚の紙切れ。そこに書かれていた、その一文。何年も意味を探し続けてきた。なぜあの夜に限って、四方から敵が押し寄せたのか。なぜ逃げ道の一本すら残されていなかったのか。
その答えが、目の前で酒を舐めながら笑っていた。
「あの紙切れは」
「ああ、あれか」
シルヴァンは懐かしそうに目を細めた。
「我が一族の悪い癖でな。誰にも気づかれずに駒を動かしたあとは、つい洒落を一つ残したくなる。風の一族らしい皮肉のつもりだったが......気づくまでに、随分とかかったようだな」
「......っ!」
ガルトの中で、何かが切れた。
「ぬあああああっ!」
ナイフを抜き放ち、卓を蹴り倒す勢いで飛びかかる。刃がランプの灯りを弾いて、白く光った。
「動くな」
シルヴァンは目も向けずに言った。
ガルトの体が、宙で止まった。
「私に傷ひとつでもつければ、隣の部屋に控えている者が、お前の大事な息子の首を落とす。それでもやるか?」
「く......あ......!」
突き出したナイフの切っ先が、シルヴァンの喉元、指一本分手前で震えていた。そのわずかな隙間が、どうしても越えられなかった。
「くそ悪魔が......! 人の人生を、なんだと思っていやがる......!」
「駒だよ」
シルヴァンは指先で刃を横へ押しのけた。ガルトの腕は、逆らうこともできずに流された。
「だが、おかげでお前は私の駒として、実によく働いてくれた。息子を握られているというだけで、お前は何も考えられなくなる。悪くない買い物だった」
ガルトは壁に手をつき、崩れそうな膝を支えた。食いしばった口の端から、血が一筋伝った。仇が目の前にいるのに、刃ひとつ届かせられない。
「さて」
シルヴァンは満足げに息をつき、立ち上がった。
「気は済んだか。なら、約束を果たそう。役目を終えた駒は、盤から下ろしてやるのが礼儀というものだ。私は明日の支度で忙しい。あとは好きにするといい」
それだけ言うと、シルヴァンは振り返りもせずに部屋を出ていった。重い扉の閉まる音が、地下に長く残った。
静まり返った部屋で、ガルトは床に膝をついていた。自分の荒い息と、心臓の音だけが聞こえる。
(俺は、何のために......カースたちを売って......)
ずっと、あの男の手のひらの上だった。仲間を失ったあの夜から、今この瞬間まで。
扉が、また軋んだ。
ガルトの肩が跳ねた。
細く開いた隙間から、灯りが差し込む。その中に、若い男が一人立っていた。確かめるように、ゆっくりと足を踏み出してくる。
「ガルトさん」
その声で、ガルトの息が止まった。
「お前......本当に......」
声が掠れた。記憶の中のあの少年より、いくらか背が伸び、顔つきも大人びている。それでも、間違いなかった。
「生きてたのか。本当に......」
目の奥が熱くなった。あの夜、せめてこいつだけでも逃がせていたら。何度そう思ったかわからない。その答えが、目の前に立っていた。
「はい。生きてます。ずっと、ずっと会いたかった」
青年は、震える声で笑った。笑うと目尻に皺が寄るところまで、昔のままだった。
「おお......おおおっ......!」
ガルトはよろめくように踏み出し、青年を抱きしめた。両腕で、骨が軋むほど強く。腕の中に、確かに体温があった。
抱き寄せた胸元の布越しに、ごつごつとした縫い目が触れた。まだ新しい傷の感触だった。
「すまなかった......すまなかったな......! 俺が不甲斐ないばかりに......! よく、生きててくれた......!」
その腕の中で、青年の胸の奥が、淡く光った。
青白い光が、皮膚の下で脈打っている。光は血の管をたどるように、見る間に全身へ広がっていった。抱き寄せた胸から、心臓の鼓動とは違う、細かい震えが伝わってくる。
「ガルトさん」
抱きしめられたまま、青年が囁いた。
「ずっと、そばにいてくれて、ありがとう」
「お前、それ――」
言い終わる前に、青年が両手でガルトの胸を突き飛ばした。
よろめいたガルトの左手が、とっさに青年へ伸びた。
白い閃光。
轟音が、狭い地下を揺らした。土埃と瓦礫が舞い上がり、衝撃が地下道を一瞬で駆け抜けていく。
「があああああああっ!!」
ガルトの左腕が、肩の付け根から消し飛んでいた。崩れた床に、血が赤く散った。
今、抱きしめていたはずの青年は、どこにもいなかった。焦げた布の切れ端と、肉の欠片。それから、砕けた青い石のかけらが、床に散らばっているだけだった。
「な......なんだ、これは......」
ガルトは瓦礫の上に崩れ落ちた。耳鳴りが、いつまでも止まなかった。
(――あいつ......知ってたのか)
胸元の、新しい縫い目。すべてが繋がった。何年も生かしておいて、用が済む間際に精霊石を埋め込んだのだ。離れたところから火をつけられる、道具にするために。
あいつはそれを知っていた。知っていて、笑って、最後に俺を突き飛ばした。
シルヴァンは約束を守った。会わせてやると言い、その通りにした。役目を終えた駒を、盤から下ろした。あいつも、俺も。
(俺は、また......あいつを......)
ガルトは片腕で床を掻き、青い石のかけらを一つ拾い上げた。握りしめた指の間から、血が滴った。
声は出なかった。暗い地下室の隅で、ガルトはただ泣き続けた。
明日には、カースの処刑が待っている。だが今のガルトには、立ち上がる力さえ残っていなかった。
(第32話-2「血塗られた処刑台」へ続く)




