第31話-2「罠と絶望」
同じ夜。地下の奥で、カースとシークは、これまで足を踏み入れたことのない深い区画へ向かっていた。
昨日までより、明らかに見張りが少ない。
通路の途中、床石の一枚がわずかに浮いていた。踏めば沈む仕掛けだ。シークが気づき、軽く跳んで越える。曲がり角の先の天井には、細い糸を張った鳴子が仕込まれていた。カースは屍傀儡の糸を伸ばし、鳴子の糸を根元から絡め取って黙らせた。
「こんなものか」
シークが小さく息を吐いた。
「随分あっさり抜けられたな。俺たちの腕が上がったってことか?」
カースはすぐには答えなかった。
「......いや。誘われてるのかもしれない」
「誘われてる?」
「わからない。ただの勘だ。でも、ここ何日か、何もかもがうまく進みすぎてる」
カースは壁のくぼみに身を寄せ、通路の先を窺った。
「この区画、前はもっと見張りがいた。それに、あの扉」
通路の突き当たりに、重い鉄の扉があった。記録をしまっておく部屋のはずだ。本来なら厳重に閉ざされているその扉が、指一本分ほど開いていた。
「簡単すぎる」
だがシークは、構わず扉の隙間に指をかけた。
「好都合だろ。中を確かめる」
「待って、シーク」
「証拠があれば、全部ひっくり返せる。迷ってる暇はない」
シークは扉を押し開けた。カースは一瞬迷ったが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。背後に目を走らせてから、後に続いた。
部屋の中には、書類の束が無造作に積まれていた。シークが棚を漁り、カースは机の上の束を手に取った。
一枚目に目を通したところで、カースの喉が鳴った。
帳簿ではなかった。精霊石の適合率。五割に届かない数字が並んでいる。埋め込んだあとの生存日数。平均で十数日。その横に、事務的な筆跡で「廃棄率」と書き添えられていた。
(廃棄……)
人の命が、数字と記号で片づけられている。こめかみの奥が、鈍く痛んだ。
痛みの奥から、忘れかけていた顔が浮かんでくる。ミミの笑顔。トウマの不器用な手つき。それから、最後に見たミトの涙。
(また、こんなものを見過ごすのか、僕は)
心臓が早鐘を打ち、視界の端が赤く滲んだ。
書類の束の一番下に、赤い封蝋の押された書状があった。カースは封蝋を指でなぞった。羽を広げた鳥の意匠。エアハルト家の当主だけが使う紋章だ。
「間違いない」
声がかすかに震えた。
「この商売の元締めは、エアハルト家の当主。シルヴァン本人だ」
「なら、もう迷うことはないな」
シークが書類を握りしめた。
「今すぐここを叩き壊す。一人でも多く、子どもたちを連れ出す」
「待って、シーク」
カースはシークの手首を掴んだ。
「気持ちはわかる。でも今、僕らだけで正面から暴れたら、ここにいる子たち全員を危険に晒す。まずは証拠を持って、一度引くべきだ」
「悠長なこと言ってる場合か!」
シークの声が、初めて上ずった。
「今この瞬間にも、誰かがあの処置室で切り開かれてるかもしれないんだぞ! それを見捨てて逃げろって言うのか!」
「見捨てるんじゃない。今ここで僕らが無茶をして捕まったら、結局誰も助けられなくなる。それだけは避けなきゃいけない」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。シークはカースの顔を睨んだまま、奥歯を噛みしめていた。
「......ちっ」
舌打ちして、シークは書類を懐に押し込んだ。
「わかったよ。今は、カースの言う通りにする」
それから、散らかった書類の山を見下ろして顎に手をやった。
「にしても、随分簡単に見つかったな。こういうのは、もっと奥に隠してあるもんだと思ってた」
「......確かに」
カースも同じことを考えていた。だが、手の中の紙の重さが、その引っかかりをすぐに押し流した。
そのときだった。
「火事だ! 火事だぞ!」
上の階から怒鳴り声と、駆け回る足音が響いた。焦げ臭い煙が、階段を伝って地下まで流れてくる。
「行くぞ」
二人は通路を駆け出した。
だが地上へ続く石段を上りきったところで、カースは足を止めた。
「......静かすぎる」
「何?」
シークも背後で止まった。
「火事なら、もっと悲鳴や怒号が聞こえるはずだ。水を運ぶ人間もいない。なのに、誰もいない」
薄く煙が漂っているだけで、人影は一つもなかった。カースの背筋を冷たいものが走った。
(火事が目的じゃない)
そう気づいたのと同時に、通路の奥で何かが軋んだ。
崩れかけた木の棚の下で、幼い少女が足を挟まれていた。声も出せずに震えている。棚が、もう一度大きく傾いた。
「危ない!」
カースが叫ぶより早く、シークの体が動いていた。風をまとって床を蹴り、一瞬で少女のもとへ滑り込む。倒れかかる棚を片腕で押し返し、もう片方の腕で少女を抱き寄せた。腕の筋が軋む音が、カースのところまで聞こえた。
同時に、壁と天井のあちこちで、何かが光った。
石組みの隙間に埋め込まれた、小指の先ほどの石。精霊石の欠片だった。それが一斉に赤黒く脈打ち、シークの放った風の力に呼応するように明滅を繰り返している。
「なんだ、あの光は」
カースが周りを見回したとき、通路の奥から足音が近づいてきた。急ぐでもない、落ち着いた足取りだった。
「随分と熱心に調べていたな」
白い上衣の術師たちを従えて現れたのは、ゼフィロスだった。腕を組み、ゆっくりと歩み寄ってくる。細い顎と冷えた目元に、シルヴァンの面影が色濃く出ていた。
「誰だ」
カースは腰を落とし、じりじりと下がった。
「名乗るほどの者ではない」
ゼフィロスはシークと、その腕の中の少女に目をやった。
「その小僧、精霊石か、それに近い細工をされた体だな」
ゼフィロスは、壁のあちこちで明滅する石の欠片を見上げた。
「力を使わせてみなければ、確かめようがなかった。火を放った甲斐はあったな。デュベルの残党の仕事か。なるほど、道理で」
カースの顔から血の気が引いた。
「お前たちがここへ来ることは、初めからわかっていた」
ゼフィロスは平然と言った。
「初めから?」
カースの頭の中で、ここ数日の出来事がひとつずつ繋がっていった。
不自然に少なかった見張り。妙だと思ったのに、運が良かったと自分に言い聞かせた。
開いていた扉。簡単に見つかった記録。子どもを助けようとした、たった今の一瞬まで。
都合が良すぎることには、気づいていた。気づいていて、見ないふりをしていた。
(全部、仕組まれてたのか)
喉の奥が、からからに乾いた。潜り込んだつもりでいた。実際には、開けてもらった檻の扉を、自分の足でくぐっただけだった。
「お前たちがここへ来たのではない」
ゼフィロスは一言ずつ区切るように言った。
「私が、来させたのだ」
指先が、軽く振られた。
「取り押さえろ。二人まとめてな」
左右の暗がりから、兵士と術師たちが一斉に湧き出した。カースとシークはたちまち囲まれ、突きつけられた槍の穂先の輪の中へ追い込まれていく。シークの腕から少女が引き剥がされ、兵士の一人に担がれて連れて行かれた。
「呪術師の処刑は、見せしめとして人前でやろう。ちょうどいい余興になる」
ゼフィロスは外套を翻して背を向けた。
その背中を睨みながら、カースは奥歯が軋むほど歯を食いしばっていた。
施設の奥の牢に放り込まれてから、どれほど経ったのか。
鎖で繋がれたまま、カースとシークは冷たい石の床に転がされていた。湿った冷気が、服の上から骨まで染みてくる。
鉄格子の向こうから、荒い足音が近づいてきた。
「カース! シーク!」
カースは顔を上げた。
「ウォルター」
一人で来たらしい。服はあちこち裂け、腕や頬に擦り傷と痣が刻まれていた。見張りを何人も叩き伏せてきたのだろう。拳には、自分のものではない血がこびりついている。
「今、出してやる。出たらすぐ話す。ガルトのことで――」
ウォルターは腰の短剣を鍵穴にねじ込み、力任せにこじ開けにかかった。
(――助かった)
カースの肩から、わずかに力が抜けた。そのときだった。
「待て」
通路の暗がりから、聞き慣れた声がした。
「そこから先は、行かせねえ」
ウォルターの手が止まった。
しゃがれた声の主が、松明の明かりの中に姿を現した。カースの胸に灯りかけたものが、音を立てて崩れた。
「......ガルト」
呼んだ声が震えた。
ガルトは何も答えなかった。その手が、懐の煙草入れへ伸びかける。指先が震えていた。取り出すことも、しまうこともできないまま、手は宙で止まった。
目は、カースにもウォルターにも向けられなかった。床の一点だけを見ていた。
誰も口を開かなかった。
(違う。何かの間違いだ)
ガルトがそんなことをするはずがない。事情があるはずだ。カースは必死に理由を探していた。探している時点で、もうわかってしまっていることに気づきながら。
「どういうことだよ、ガルト」
ウォルターが振り返り、低く唸った。
「お前、まさか」
「......悪いな」
ガルトは目を逸らしたまま呟いた。いつもの飄々とした調子は、どこにもなかった。
「なんでだ」
カースは鎖を鳴らして鉄格子に這い寄った。
「なんでだよ、ガルト」
「......いつか話す。今は、それしか言えねえ」
「ふざけるな! それで済むと思ってんのか!」
ウォルターが鉄格子越しに胸ぐらを掴もうと腕を伸ばした。ガルトはその手を乱暴に払いのけた。
「もう、俺に期待するな」
突き放すような声だった。だがカースには、その声の底で何かが軋んでいるように聞こえた。
「俺を信じたのが間違いだったんだよ」
ウォルターの顔に、みるみる血が上った。
「本気で言ってるのか、それを」
「本気も何もねえ」
ガルトはそれきり、口を閉ざした。脇に下ろした拳が固く握りしめられている。その指の隙間から、赤いものが一筋、滴った。爪が掌に食い込んでいる。
気づいたのは、床に這いつくばっていたカースだけだった。
(――ガルト、本当は)
だが、それを確かめている暇はなかった。
ガルトが背を向けた。ウォルターが床を蹴って飛びかかる。それより早く、壁際の暗がりに潜んでいた兵士たちが一斉に飛び出した。
「ウォルター!」
太い腕がウォルターの首に巻きつき、別の兵士が足を払う。ウォルターの巨体が石の床に叩きつけられ、三人がかりで押さえ込まれた。
(嘘だろ)
信じていた仲間に売られた。助けに来てくれた仲間まで、目の前で押し潰されようとしている。
(また、なのか)
ミミ。トウマ。リタ。チビ。ネロ。ミト。
失ってきた名前が、次々に浮かんでは消えた。もう二度とあんな思いはしない。そう誓ったはずだった。
その底で、カースの内側の、古い呪具に積もり重なった記憶の澱が揺れた。一つの記憶が、これまでとは違う強さで流れ込んでくる。
遠い昔。
一人の女呪術師がいた。貧しいながら、幼い息子と二人で慎ましく暮らしていた。
息子には、生まれつき精霊の加護が強く宿っていた。その才が貴族の目に留まり、召し抱えるという話が持ち上がったとき、女は我が子の行く末を心から喜んだ。
それが罠だった。
貴族は、母親が呪術師であることを息子の口から聞き出していた。呪術師はすでに狩られる側だった。息子は自分の出世と引き換えに、母を貴族へ差し出したのだ。
女が連れて行かれたのは、地の底に掘られた穴だった。かつて罪人を処刑するのに使われていたという、蟲の巣食う穴。冷たい土の匂いと、無数の蟲が蠢く音。女はそこへ突き落とされ、光の届かない闇に一人残された。
実の子に売られた。その痛みに、女は幾晩も叫び続けた。誰も来なかった。
そして、ある夜。女は自分の指を噛み、爪を剥いだ。
溢れた血の匂いに、闇の中の蟲たちが寄ってきた。女はその血を蟲たちに与えた。そして、蟲たちが自分の思うままに動くことを知った。
穴を這い上がった女を待っていたのは、貴族の側に立ち、精霊使いとして取り立てられた息子の姿だった。
女は息子の顔を見た。愛していたはずの顔だった。もう、昔の面影はどこにもなかった。
蟲の羽音。血の匂い。
女は、蟲の群れで息子を殺した。
息子の断末魔と、母の慟哭が、カースの頭の中で混ざり合った。女の痛みが、自分の神経を通るように流れ込んでくる。骨の髄が焼けるような激痛。息子を手にかけた瞬間の、断ち切れない未練。止められなかった憎しみと、それと同じだけ深い哀しみ。
(――これか)
カースは頭を抱えた。
(この痛みを、差し出せってことか)
怖くないわけではなかった。爪を剥ぐ。考えただけで、指先が勝手に縮こまる。
だが、シークとウォルターを目の前で失うことのほうが、ずっと怖かった。
(痛みくらい、どうってことない)
カースは右手を口元へ持ち上げ、人差し指の爪に歯を立てた。そのまま、根元から一息に引き剥がした。
湿った、嫌な音がした。
「――ぐっ......!」
視界が白く飛んだ。これまで負ったどんな傷とも違った。骨の内側を直接抉られるような、逃げ場のない痛みだった。喉までせり上がった叫びを、歯を食いしばって押し殺す。
体を折り曲げたカースの指先から、血がぼたぼたと床に落ちた。
その一滴ごとに、石床の割れ目から、黒いものが這い出してきた。
蟲だった。小さな黒い甲虫が、割れ目という割れ目から湧き出し、床を黒く塗り潰していく。
「蠢動する黒蟲」
口が、勝手にその名を紡いでいた。
「な、なんだ、これは......!」
ウォルターを押さえつけていた兵士たちが悲鳴を上げて飛び退いた。蟲の群れは兵士たちの足を這い上がり、鎧の隙間へ潜り込んでいく。別の一群は鉄格子の鍵穴へ殺到し、ぎちぎちと音を立て始めた。無数の小さな顎が、鉄を内側から噛み砕いていく音だった。
鉄格子が軋み、次の瞬間、錠前ごと崩れ落ちた。
カースは膝をついたまま、自分の掌を見下ろした。黒い蟲が、指の間を這い回っている。初めて使う力だった。どこまでのことができるのか、自分でもまだわからない。だが、確かに応えてくれた。
「逃げるよ!」
カースは血の滴る手を振った。蟲の群れがシークの手枷と、自分の足の鎖に群がり、金具を噛み砕いていく。ウォルターが床から跳ね起き、蟲にたかられてもがく兵士を一人、肩で弾き飛ばした。
ガルトの姿は、いつの間にか通路から消えていた。
だが通路の奥からは、異変に気づいた増援の足音がもう押し寄せてきていた。
「くそ、囲まれてる」
ウォルターが舌打ちした。
カースは一度、強く目を閉じた。
(このままじゃ、三人とも捕まる)
答えは、もう出ていた。
「シーク。ウォルター」
自分でも驚くほど、平らな声が出た。
「二人で逃げて」
「は?」
シークが目を見開いた。
「何言ってる」
「僕が引きつける。今のこの力なら、少しは時間を稼げる」
「ふざけるな!」
ウォルターがカースの肩を掴もうと腕を伸ばした。
「カース一人を置いていけるわけが」
「もう、誰も失いたくないんだ」
カースはその手を振り払った。声が少し震えた。血と涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも笑ってみせた。
「ミミも、トウマも、リタも、チビも、ネロも......ミトも。もう目の前で誰かが死ぬのは見たくない。だから、お願い。二人だけでも逃げて」
シークもウォルターも、伸ばしかけた手を止めた。
「......カース」
「行け! 早く!」
カースが腕を振るうと、蟲の群れが黒い波になって膨れ上がり、二人の背中を通路の奥へ押し流した。
「絶対に迎えに来るからな!」
ウォルターの叫びを背中で聞きながら、カースは押し寄せる兵士たちの前へ一歩踏み出した。
「まだだ」
血に濡れた右手を掲げる。蟲の群れが盾になり、槍になって兵士たちに襲いかかった。蟲にたかられた槍の穂先が、見る間に赤黒く錆び、ぼろぼろと崩れていく。
だが、数が違いすぎた。一人を蟲で絡め取れば、その隙に別の槍が脇腹を掠める。熱い痛みが走り、新しい血が滲んだ。
「ぐ......!」
カースは倒れなかった。歯を食いしばり、もう一度蟲の群れを奮い立たせる。一歩でも遠くへ、二人を。それだけを考えていた。
槍の柄が肩を打ち据えた。視界が白く明滅する。それでも、膝はつかなかった。
(まだだ。まだ逃げ切れてない)
何度も崩れかける体を、意地だけで支え続けた。
長くは持たなかった。傷口から流れる血と一緒に、呪力も底をついていく。蟲の群れが一匹、また一匹と床に落ちて動かなくなり、最後の一匹が消えたとき、カースは兵士たちに薙ぎ倒され、床に押さえつけられていた。
(――これで、いい)
ぐらぐらと揺れる視界の中で、カースは思った。
シークとウォルターは逃がせた。それだけで十分だった。
そのはずなのに、胸の奥で、小さな火が消えずに燻っていた。ガルトに問いたいこと。ゼフィロスへの怒り。この一族を、必ず終わらせるという意志。
霞んでいく視界の端に、磨かれた靴の先が映った。見上げると、ゼフィロスが愉しげに口の端を上げて、こちらを見下ろしていた。
「なかなかの余興だったぞ」
その声を最後に、カースの意識は闇に沈んだ。
(第32話「血塗られた処刑台」へ続く)




