第31話-1「罠と絶望」
闇市の裏手、崩れかけた聖堂の地下。競りの壇が据えられたあの薄暗い部屋の壁際に、ウォルターは「業者」の顔をして立っていた。
湿った空気に、黴の臭いと、大勢が押し込められた場所の汗と恐怖の臭いが混じって、鼻の奥を刺す。壁の煤けたランタンが揺れるたびに、壇上の子どもたちの痩せた影が伸びたり縮んだりしていた。
並んだ椅子には、フードを目深に被った買い手たちが腰かけている。壇の脇では痩せた男が抑揚のない声で口上を述べ、子どもが一人ずつ値を付けられていく。
「こちらの少女は体も丈夫。いくらか気弱ではございますが、それも扱い次第で」
引き出された少女は、自分の体を抱きしめるように両腕を回して震えていた。その目はもう、壇の下の誰のことも見ていなかった。
口上が一つ進むたびに、ウォルターの腹の底に鈍いものが溜まっていく。気づけば、組んだ腕の中で拳を握りしめていた。彼はわずかに顎を引き、フードの陰に目元を沈めた。
(――笑え。愛想笑いの一つも浮かべてみせろ)
ここで顔に出せば、全部が水の泡になる。あの壇の上の子どもたちを連れ出すためにも、今は耐えるしかなかった。
(汚い仕事なら、それなりに見てきたつもりだったんだがな)
戦場の死とも、酒場の喧嘩とも違った。ここにいる誰も、憎しみで子どもを売っているわけではない。帳面をつけるように、当たり前の顔で値を付けている。その当たり前さが、ウォルターには一番こたえた。
「あんたも、なかなかいい趣味をしてるじゃねえか」
競りが一区切りついたところで、すぐ前の椅子にいた恰幅のいい商人が振り返った。丸っこい指で顎の肉を撫でながら、ウォルターを頭から爪先まで眺める。
「ここに顔を出せるってことは、随分な上客なんだろう」
「まあな」
ウォルターは柱に肩を預けたまま、軽く首を傾けてみせた。
「もう少し質のいい品が欲しくてな。買い手のほうの伝手も込みで」
「質のいい品、ねえ」
商人は目を細め、手の中の金貨をかちかちと鳴らした。
「それにしても、この街も変わったもんだ。エアハルト家って言やあ、表向きはこの国でも指折りの名家だろう。港を整えて、商いを盛んにして、王家の覚えもめでたい。それが裏じゃ、こうして人を売り買いしてる。二枚舌にも程があるってもんだ」
「随分と詳しいな」
「この街に長くいりゃ、嫌でも耳に入るさ。表と裏の差が、とにかく激しい街だからな」
商人は声を落とした。
「伝手が欲しいなら、繋ぎ役を通したほうが早い。この街の裏の裏まで知ってる男がいる。今度の取引にも噛んでるらしいぜ。誰が、何を、どこで欲しがってるか。全部そいつの耳に入る」
「会えるのか、その男に」
「運が良けりゃな。俺も声しか聞いたことがねえ」
金貨を転がしていた指が止まった。
「妙に芝居がかった喋り方をする奴でな。それと、いつも煙草の匂いがする」
商人は鼻をひくつかせた。
「癖のある刻み煙草だ。この辺りじゃまず出回らない。もっと北の、骨の街あたりで好まれてる代物だったか」
ウォルターの息が、一瞬止まった。
(――骨の街)
ガルトが根城にしている、あの裏社会の街。そこで好まれる、癖のある刻み煙草。その匂いは、いつもガルトの外套に染みついていた。
「その男の名前は」
「さあな。本名なんざ誰も知らねえよ」
「......そうか」
ウォルターは首を小さく振った。
(考えすぎだ。骨の街の出の奴なんざ、いくらでもいる)
骨の街の裏路地で、初めてガルトと安酒を酌み交わした夜のことを思い出す。カースの正体を知ったときも、あの男は顔色一つ変えなかった。そういう男が、自分たちを売るはずがない。
そう言い聞かせるほど、腹の底に沈んだ小さな石は重くなっていった。
その夜、ウォルターは宿を抜け出した。眠れそうになかった。昼間の商人の声が、頭の中で何度も繰り返されていた。
あてもなく闇市の外れを歩いていると、前方に見覚えのある細い影が見えた。
(アズラエル?)
こんな時間に、一人でどこへ行くのか。ウォルターは足音を殺し、距離を置いて後を追った。
路地をいくつか曲がった先で、アズラエルが足を止めた。
「何か用?」
振り返りもせずに、声だけが飛んでくる。ウォルターは踏み出しかけた足を止めた。石畳の上で、靴底がかすかに擦れた。
「気づいてたのか」
「そりゃあね」
アズラエルは腰をひねり、ようやくこちらを向いた。首を傾げた顔は、いつも通り何を考えているのかわからない。
「お前、こんな時間に何をしてる」
ウォルターは腰のナイフに手を近づけたまま訊いた。
「報告しなきゃいけないこと?」
「なんだと」
「悪いことはしてないよ。夜風に当たってただけ」
アズラエルは両手を広げて肩をすくめた。
「エアハルト領の人身売買のことは、知ってたのか」
アズラエルの目がわずかに細くなった。袖口を指で整えながら、軽い調子で答える。
「エアハルトならやりそうだね。あの一族、二枚舌で有名だから。君も気をつけなよ。うっかりすると売られちゃうかも」
「茶化すな」
「それより、呪術師くんは?」
「潜り込んでる。あの地下にな」
「へえ」
アズラエルの口元が緩んだ。顎に指を当て、面白がるように目を泳がせる。
「随分と楽しそうなことしてるねえ」
「楽しいわけあるか」
「でもさ。エアハルトのお膝元でそんなことしたら」
アズラエルは半歩踏み出し、ウォルターの顔を下から覗き込んだ。
「獲物のほうから、口の中に飛び込んでいくようなものじゃない?」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
アズラエルは爪先で小石を小突き、くるりと半身を翻した。
「ま、君たちならうまくやるんじゃないの」
「お前は何をするつもりだ」
ウォルターは拳を握って苛立ちを押し込めた。
「壊すのを手伝うんだろう。この仕組みを」
「さあ、どうかな」
「......時々、わからなくなる」
ウォルターは低く言った。
「お前が何を考えてるのか。何のために俺たちと一緒にいるのか」
「呪術師くんの呪いが完成するのを見届けるため。前にも言ったよね」
「それだけか」
「それだけだよ」
答えは早かった。だが声が、少しだけ乾いていた。
「なんでそこまで、他人の呪いの行く末にこだわる」
アズラエルは一瞬、黙った。それから、独り言のように言った。
「呪術師くんは優しすぎるから。いつか死ぬよ」
「どういう意味だ」
「他人の痛みのために、自分の痛みを後回しにする奴はさ。だいたい早死にする。ボクはそういうのを、何度も見てきた」
いつもの軽い調子ではなかった。
「お前にも、何かあったのか」
「さあね」
アズラエルは背を向けかけて、ふと思い出したように振り返った。人差し指を一本立てる。
「君たちってさ、仲間を信じすぎだよね」
「なんだと?」
「だから、こんなことになってるんじゃない?」
「何の話だ」
ウォルターの声が尖った。アズラエルは小さく鼻で笑っただけだった。
「ちゃんと答えろ」
「......ただね」
アズラエルは遠くの夜空に目をやった。指先を遊ばせるのをやめると、声からからかう色が消えた。
「仲間ってのは、近くにいるほど見えなくなるものだから。裏切られてからじゃ、手遅れなのにね」
「おい」
呼び止める前に、アズラエルは背を向け、足音も立てずに暗がりの奥へ消えていった。
(――あいつ、何を知ってる)
ウォルターはしばらく、その場から動けなかった。冗談なのか忠告なのか、判断がつかない。
(近くにいるほど見えなくなる。......誰のことを言ってた)
ガルトの顔が、また浮かんだ。振り払っても振り払っても、消えなかった。
宿への帰り道、港の倉庫街に、いくつもの松明が行き交っているのが見えた。いつもなら、この時間は静まり返っている一角だ。
(何の騒ぎだ)
物陰から覗くと、荷馬車の列に大きな木箱が次々と積み込まれていた。箱の側面には、エアハルト家の紋章が焼き付けてある。蓋の隙間から、槍の穂先と鎧の肩当てが覗いていた。
(武具の運び出し、か)
夜のうちに、これだけの量を動かす。意味することは一つしかなかった。
建物の陰から、ひそひそ声が聞こえてきた。ウォルターは壁に背をつけ、息を殺して耳を寄せた。
「例の品の件だがな。今度のタラッサとの戦で、いよいよ使うらしいぜ」
「使う?」
もう一人が聞き返す。木箱を引きずる音が重なった。
「ああ。若様が直々に指揮を執るって話だ。潮風の道の一件で、戦の口実はもう揃ってる。あとはいつ動くかだけだ」
「いつ頃だ」
「早けりゃ、数日のうちだろうよ」
ウォルターの指先が、壁の石を引っかいた。
(例の品――あの石を埋められた子どもたちか)
金のための人身売買でも、道楽の研究でもない。すぐそこまで来ている戦のための、兵器づくりだった。しかも、残された時間は思っていたよりずっと少ない。
(カースに知らせなきゃならねえ。戦のことも――ガルトのことも)
ガルトは今夜も、聖堂の周りを張っているはずだった。あの男と顔を合わせる前に、カースに話す。
ウォルターは走り出したい足を押しとどめ、目立たない早足で聖堂のほうへ向かった。
(第31話-2「罠と絶望」へ続く)




