第30話「掌の上の獲物」
崩れかけた聖堂の地下。その最奥へ続く湿った階段を、ゼフィロスは急ぐでもなく下りていった。
風エアハルト家の跡取りであり、当主シルヴァンの実子。そんな男にとって、饐えた臭いの漂うこの地下は、目を背けるような汚れた場所ではなかった。自分の手腕を試すための、手入れの行き届いた庭だった。
「今日の入荷は」
巡回していた見張りの男が、慌てて背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「十二名です。歳は五つから十二まで。体の具合はおおむね良好かと」
「見せろ」
錆びた鉄格子の前を、ゼフィロスはゆっくりと歩いていく。狭い区画の中で身を寄せ合う子どもたちを、一人ずつ、端から順に眺めていった。
「そこの痩せた男。あれは精霊石には向かんな」
細い指先で、顎をしゃくる。
「体が持たん。埋める前に死なれては、材料の無駄だ。働き手として別の売り先に回せ」
「かしこまりました」
「隣の大人しそうな女は悪くない。目が死んでいるのが、むしろ都合がいい。ああいうのは術式がよく定着する」
市場で野菜の傷み具合を見るのと、変わらない口ぶりだった。
「ときに」
ゼフィロスは、ふと思い出したように見張りへ尋ねた。
「南の商会に積ませた荷は、無事に届いたか」
「はい。先日、旦那様が口利きをなさった、あの商会でございますね。船底に隠して、滞りなく」
「そうか」
ゼフィロスの口の端が、わずかに上がった。
「あの商会の主は、さぞ感謝していることだろうな。エアハルト家に目をかけてもらえたと信じ込んで」
「はい。よく働いております」
「それでいい」
喉の奥で、くつくつと笑う。
「ああいう手合いは使いやすい。恩を売ってやれば、疑うことすら忘れる。父上のやり方は、いつも見事なものだ」
地下のさらに奥、処置室と呼ばれる一室に、ゼフィロスは足を踏み入れた。
血の臭いがこもっていた。白い上衣の術師たちが、台に縛りつけた少年の胸を切り開き、精霊石を押し込んでいる。掠れた悲鳴が、石造りの狭い部屋に途切れなく響いていた。
ゼフィロスはその光景を、腕を組んで上から覗き込んだ。
「拒絶反応は、どの程度抑えられている」
「術式を改めてから、成功率は三割ほど上がっております」
「三割、か」
ゼフィロスは頷いた。
「まだ伸びしろがあるということだな。この調子で続けろ」
少年の悲鳴が途切れた。ぐったりと力の抜けた体を一瞥すると、ゼフィロスはすぐに目を逸らした。
「終わったら、ほかの区画に移しておけ。次の入荷の支度もある」
「坊っちゃま」
術師の一人が、おずおずと口を開いた。
「そろそろ、次の入荷の日取りを決めておきたいのですが」
「三日後にしろ。船の手配はいつも通りだ」
「かしこまりました」
「それと、地上の見張りは抜かるなよ。あいつはまだこちらの手の内にある。だが油断は命取りだ」
「はい」
子どもの命の話も、船の日取りも、ゼフィロスは同じ調子で片づけていく。
「そういえば、坊っちゃま」
別の術師が口を挟んだ。
「今日の昼、王家からタラッサ家との一件で問い合わせがあったとか」
「ああ、あれか」
ゼフィロスは面倒くさそうに答えた。
「父上がうまくあしらったそうだ。被害者の顔をして、放っておけば涙まで見せかねない。あの人らしいやり口だ」
「さすがは旦那様でございます」
「まったくだ」
ゼフィロスは鼻で笑った。
「私は父上のような回りくどい真似は性に合わん。だが、息をするように嘘をつくあの才覚だけは認めるしかない。あの人は味方にも本当のことを言わない。私にもな」
「坊っちゃまにも、ですか」
「当然だ」
ゼフィロスは事もなげに頷いた。
「まだ私に明かしていない計画がある。そう言うときのあの人は、いつも楽しそうな目をしている。実の息子も、駒の一つなのだろうよ」
少し間を置いて、付け加える。
「もっとも、私も似たようなものだがな」
処置室を出たゼフィロスは、地下の見回りを続けながら、風の感覚を周囲へ薄く広げていた。
エアハルトの血を引く者に生まれつき備わった力だった。空気のわずかな揺らぎ、遠くの物音、人の呼吸。そのすべてが、手のひらに載せたように伝わってくる。
地上へ続く階段の近くで、部下の一人が小走りに寄ってきた。
「坊っちゃま。例の南の商会の主が、屋敷のほうにまた目通りを願い出ているそうですが」
「またか」
ゼフィロスは溜め息をついた。
「よほど我が家の後ろ盾がありがたいと見える。何の用だ」
「タラッサ家との交易許可の件で、もう一つ便宜をお願いしたいと」
「断っておけ」
ゼフィロスはあっさりと言った。
「あの男から引き出せるものは、もう引き出した。これ以上恩を着せてやる必要はない。適当な理由をつけて追い返せ」
「かしこまりました」
去っていく部下の背中に、ゼフィロスは独り言のように呟いた。
「使えるだけ使ったら、あとは放っておけばいい」
地下の隅々まで感覚を伸ばしていたゼフィロスは、ふと足を止めた。
(――ん?)
東の区画。数日前に紛れ込んだ、あの二人の少年がいるあたりから、昨日までとは違う気配が漂ってくる。
(呼吸の間が変わった。それに、目の使い方が違う)
怯えた子どもの気配ではない。周りを観察している者の気配だった。
ゼフィロスの薄い唇に、笑みが浮かんだ。
(なるほど。ただの囮ではない、と)
あの二人が哀れな子どもでないことは、初めから承知していた。父から、呪術師の一行がこの街に入り込んだと聞かされたときから、ずっと。
(だが、まだだ)
今すぐ動く理由はどこにもない。泳がせておいたほうが、よほど面白い。
(もう少し深く潜らせてやろう。そうすれば連中の手の内が見えてくる。すべてを暴いたと思い込んだ瞬間に足元が崩れる――あの顔を見るのが、一番楽しい)
ゼフィロスは、傍らに控えていた部下に命じた。
「東の区画の見張りを、今夜から減らしておけ。それと、集積場の記録を少し目につきやすい場所へ移しておくといい」
「かしこまりました。ですが、証拠を見つけられては」
「構わん」
ゼフィロスは即答した。
「むしろ見つけさせろ。獲物は、餌に食いつくまでが一番楽しい。手応えを感じさせてやったほうが、深く罠に沈んでくれる」
部下が頭を下げて去っていく。
尻尾を掴ませるのは、まだ先でいい。誘い込み、油断させ、一番残酷な形で仕留める。エアハルト家は代々、そうやって勝ってきた。
(存分に踊るがいい)
ゼフィロスは足音も立てずに、その場を離れた。
同じころ、東の区画の片隅で、カースは首の後ろがざわつくのを感じていた。
(何だ、これ)
はっきりした理由はない。何かを見たわけでも、聞いたわけでもない。ただ、肌が粟立っている。
(誰かに、見られてる)
振り返っても、格子の向こうにはいつもの見張りたちが、壁にもたれて無駄話をしているだけだった。だがその向こうの、もっと遠いところから、じっとこちらを覗き込まれているような感覚が消えない。
「どうした」
隣に座っていたシークが、口元を手で隠して囁いた。
「いや......」
カースは言葉に詰まった。この感じを、どう言えばいいのかわからない。
「何でもない。ちょっと、妙な気がしただけだ」
「妙な気?」
「誰かに見られてる気がする。でも、理由はない。気のせいかもしれない」
シークは黙ったまま、格子の隙間から周りを見渡した。一人ひとりの見張りを、順に目で追っていく。
「......俺は、何も感じない」
「だよね。考えすぎかもしれない」
そう答えながらも、カースの首の後ろのざわつきは収まらなかった。
その夜。区画の子どもたちが疲れ果てて寝入ったあと、カースとシークは膝を突き合わせ、声を殺してこれまでに掴んだことを確かめ合った。
「集積場の場所も、船の出る日も、モリスの言った通りだった」
カースが囁いた。
「精霊石を埋めるところも、この目で見た。あとは、元締めが誰かだね」
「まだ一度も顔を出してないな」
シークが応じる。
「競りの口上を読んでた男も、白い上衣の連中も、誰かの言いつけで動いてるだけだ。指図してる頭が、どこかにいる」
「エアハルト家の当主本人か、それとも」
「わからない。でも、これだけの規模だ。当主が何も知らないってことはないだろ」
カースはそこで言葉を切った。
「ガルトからの合図は」
「まだない。外で見張ってるはずだけどな」
二人はしばらく黙って、低い天井の染みを見上げていた。
「シーク」
「なんだ」
「もし本当に、あの一族の当主が頭だったら......僕らは相当な相手を敵に回すことになるね」
「今さら怖気づいたのか」
シークの声に、からかうような響きがわずかに混じった。
「まさか」
カースは首を横に振った。
「慎重にやらなきゃいけないと思っただけだ。ここでしくじったら、僕らだけじゃない。ここにいる子たち全員が危なくなる」
「わかってる」
シークは短く答えると、また暗がりに目を戻した。
寝息と、遠くで水の滴る音だけが聞こえていた。首の後ろのざわつきは、まだ消えていなかった。
(第31話「罠と絶望」へ続く)




