第29話「二枚舌の宮廷」
朝靄の残る運河を見下ろす露台で、シルヴァンは自分の分の紅茶が冷めていくのを眺めていた。
向かいの椅子は、まだ空いている。
「お父様」
澄んだ声がして、シルヴァンの眉間から力が抜けた。
露台に現れたのは娘のロザリアだった。淡い緑のドレスの裾を朝風に揺らしながら、父の向かいの椅子に腰を下ろす。
「遅くなりました」
「構わん。お前の紅茶は、いつでも私が淹れる」
シルヴァンは自ら銀のポットを傾け、娘の器に琥珀色の茶を注いだ。ポットの注ぎ口がわずかに揺れ、受け皿に一滴こぼれる。七大貴族の当主がこんな手つきをするのを、屋敷の者は誰も見たことがないだろう。
ロザリアの横顔を見るたび、シルヴァンの脳裏には同じ女の顔が重なる。亡き妻だ。伏せた目元が、驚くほどあれに似ていた。
(私に残された、唯一の本物だ)
ほかの誰もが駒であり、道具であり、盤上の一手でしかない。この娘だけが、そうではなかった。
「エリオット殿下とは、うまくいっているか」
何気ない口調を装ったつもりだった。だが語尾がわずかに硬くなったのを、シルヴァン自身が一番よくわかっていた。
「ええ。お忙しい方ですけれど......手紙は必ず返してくださいます」
ロザリアは頬を染めて笑った。
「この前のお手紙には、貧民街の井戸のことが書いてありました。民の暮らしをあんなに細かく見ている王族なんて、ほかにいませんわ」
「ほう。井戸、か」
シルヴァンは紅茶の器を持ち上げたまま、口はつけずに相槌を打った。
「殿下は、随分と地に足のついたことをなさる」
「はい。だから、貴族の方々の中には、あの方を扱いにくいと思う方もいるそうです」
「扱いにくい、とは」
「利害だけでは動いてくださらないから、ですって」
ロザリアは少し誇らしげに笑った。父の顔に差した翳りには気づいていない。
シルヴァンの指が、器の縁で止まった。
(王子、か)
王家との縁組。七大貴族としては、これ以上ない名誉のはずだった。だが腹の底には、泥のような澱が溜まったままだ。
娘を、あの政争の渦巻く王宮へ差し出す。その先にあるのは幸福か。それとも妻と同じように、少しずつ心をすり減らされていく日々か。
「殿下は私に良くしてくださいます。それに......」
ロザリアははにかんで続けた。
「あの方の、民を思う真っ直ぐなところが、私は好きです」
シルヴァンの薄い唇の端が動いた。笑ったのか、顔をしかめたのか、自分でもわからなかった。
「真っ直ぐさ、か。いずれお前を苦しめるかもしれんぞ」
「お父様?」
「なんでもない」
シルヴァンは冷めかけた紅茶を口に運んだ。
(あの真っ直ぐさは、この娘の盾になるのか。それとも、一緒に沈む錘になるのか)
朝の時間が終わると、執務室の前にはもう面会を待つ者が列を作っていた。
最初に通されたのは、南方の小さな商家の主だった。痩せた、実直そうな中年の男だ。
「シルヴァン様。お忙しいところ、恐れ入ります」
「構わん。用件を」
「はい。実は先日、水のタラッサ家との交易許可の件で、うちの商会だけが締め出されまして」
男は深々と頭を下げた。
「エアハルト家の後ろ盾さえいただければ、必ずこの街のお役に立ってみせます。どうか、お力添えを」
シルヴァンはしばらく男の顔を眺めていた。
「良かろう。お前の商会には、私から便宜を図ってやる」
「あ、ありがとうございます! このご恩は決して」
「その代わりだ」
声がわずかに低くなった。
「お前の商船に、ときどき荷を乗せさせてもらう。行き先も中身も、詮索は無用だ」
男の顔が一瞬強張った。だがすぐに、愛想笑いを貼り付け直す。
「もちろんです。仰せの通りに」
男が退出すると、入れ替わりに別の商人が通された。北の街道を拠点にする大商会の代表だ。恰幅がよく、押しの強そうな男だった。
「シルヴァン様。先ほどの南の小商会の件は、いかがなりましたか」
「ああ、あれか」
シルヴァンは書類から目も上げずに答えた。
「断っておいた。あんな小さな商会に肩入れしては、お前のところとの釣り合いが崩れる」
「それは、それは。ご配慮、痛み入ります」
大商会の男は満足げに頷いた。つい先ほどこの部屋で何が約束されたのか、彼には知りようがない。
この館では、毎日こうした取引が重ねられていく。誰もが自分だけが特別に目をかけられていると信じ、実際には誰もが同じように使い分けられていた。
午後になって、王家からの使者が到着した。
「通せ」
シルヴァンの声からは、朝の柔らかさが跡形もなく消えていた。
使者は恭しく礼をし、封蝋の押された書状を差し出した。潮風の道での襲撃について、王家からの正式な問い合わせだった。
シルヴァンは書状に一度目を通すと、深く溜め息をついた。
「嘆かわしいことです」
眉尻を下げ、困り果てたように首を振る。
「我々は正当な交易をしていたに過ぎません。それをタラッサ家は、根拠のない言いがかりで我が家の商船を何度も脅かしている」
「タラッサ家は、逆のことを申しておりますが」
「でしょうな」
シルヴァンは悲しげに目を伏せた。
「彼らは我が家の足の速さと情報網を妬んでいる。この機に乗じて、我が家の名を貶めたいのでしょう。私は王家の裁定を待つばかりです」
「念のため伺いますが。事件の当日、エアハルト家の船があの付近を航行していたという記録がございます」
使者の口調は丁寧だったが、疑いを隠してはいなかった。
「ああ、それは」
シルヴァンは間を置かずに答えた。
「定期便が通っていただけのことです。あの日たまたまあの海域にいた船が、我が家のものだった。むしろその船こそ、タラッサ側の襲撃を目撃した証人と言えましょう」
使者の眉がかすかに動いた。だが、それ以上食い下がるだけの材料はないらしい。
「かしこまりました。確かに王家へお伝えいたします」
シルヴァンは最後まで、濡れ衣を着せられた者の顔を崩さなかった。
使者の足音が廊下の先に消える。それを聞き届けてから、シルヴァンは脇に控えていた老執事のグレゴールを振り返った。
「手筈は」
眉尻はもう下がっていなかった。
「タラッサ領の南、漁村に潜ませた者たちは、いつでも動けます」
グレゴールが抑揚のない声で答えた。
「ただ、刺客を送るのはもう少し待つべきかと。王家の裁定が出る前に派手に動いては、こちらの非を認めるようなものです」
「お前の言う通りだ」
シルヴァンは頷いた。
「潮が満ちるのを待つように、じっくり追い詰めてやろう」
「一つ、よろしいでしょうか」
グレゴールが口を挟むのは珍しかった。
「なんだ」
「タラッサ家と正面からぶつかれば、水運の一部は確実に止まります。我が家の交易にも、少なからず響くかと」
「わかっている」
シルヴァンは窓の外の運河に目をやった。
「それでも構わん。今のうちにあの家に傷を負わせておくことは、後で大きな意味を持つ」
「後で、と仰いますと」
「今はまだ話せん」
それだけ言って、シルヴァンは話を打ち切った。
「かしこまりました」
グレゴールは頭を下げ、それ以上は訊かなかった。
(――お前にも、まだ見せられんよ)
グレゴールは有能な男だ。何十年もこの家に仕えてきた。だが地下で進めている精霊石の研究――子どもを材料にして使い潰す、あの禁忌のすべてを知っているのは、ほんの数人の側近だけだった。
外に漏れれば、七大貴族の中でさえシルヴァンは孤立する。だから真実は、幾重にも覆っておかなければならない。
王家には被害者の顔を。タラッサには、裏で糸を引く勝者の顔を。商人たちには、それぞれに都合のいい顔を。忠実な執事にさえ、計画のすべては見せない。
(この街の誰も、私の本当の顔を知らない。それでいい)
その夜。闇市の外れにある目立たない一室で、シルヴァンは一人の男と向き合っていた。
「随分と待たせたな」
労う響きはなかった。
フードを目深に被った男は答えず、懐から紙片を一枚取り出して机に置いた。
「呪術師どもの動きか」
「ああ」
低く掠れた声だった。
「連中は地下の収容場所まで辿り着いてる。近いうちに、集め場全体の証拠を掴みにかかるだろう」
「結構」
シルヴァンは紙片を指先で引き寄せた。
「奴らの動きなら、とうに把握している」
フードの男の肩が、わずかに強張った。
「知ってた、だと?」
「当然だ」
シルヴァンの口元が緩んだ。
「私の網を甘く見てもらっては困る。奴らがこの街に足を踏み入れたその日から、ずっと見ていた」
「なら、なぜすぐに始末しない」
「面白いからだ」
シルヴァンは即答した。
「呪術師の小僧が、私の庭で何を掘り起こすつもりなのか。それを見届けてから、然るべきときに料理してやりたい」
すぐには殺さない。もっと大きな罠の奥まで、自分の足で歩かせるつもりだった。
「お前にも、そろそろ次の段階に進んでもらう」
「次の段階?」
「奴らを確実に、私の手の内へ招き入れるための仕上げだ。詳しいことは追って伝える」
シルヴァンはそこで初めて、フードの奥をまともに見た。
「随分と素直に協力してくれるものだな」
「......好きでやってるわけじゃねえ」
男の声に苦いものが混じった。
「ほう。なら、なぜだ」
「あんたが一番よく知ってるだろう」
シルヴァンは喉の奥で、くつくつと笑った。
「ああ、知っているとも。だから私は、お前を信用している」
その「信用」は、相手の弱みを握っている者の言葉だった。
「もっとも、だ」
思い出したように、シルヴァンは付け加えた。
「お前のほうは、私を信用するなよ。私は味方にも二枚舌を使う。都合が良ければ、約束などいくらでも違える。それだけは覚えておけ」
男がわずかに顔を上げた。フードの奥の目に浮かんだのが警戒なのか諦めなのか、シルヴァンには見分けがつかなかった。
「早まった真似はするな。お前の大切なものが無事でいられるかどうかは、お前次第だ」
それだけ言うと、シルヴァンは席を立った。フードの男は俯いたまま、身じろぎ一つしなかった。
闇市を出たシルヴァンが次に向かったのは、街の中心に建つ精霊教会の支部だった。
礼拝堂の奥、人払いをした一室で待っていたのは、恰幅のいい初老の司教だった。柔和な笑みを浮かべているが、目つきは商人のそれに近い。
「シルヴァン様。いつものお届け物、確かに」
司教は卓上の重い革袋を、指先で撫でるように確かめた。
「これで王都への報告書にも、しばらく余計な文言は載らないでしょう」
「感謝する」
シルヴァンは短く答えた。
「ときに司教。ほかの家からも、随分と受け取っているのだろうな」
「これは、これは。シルヴァン様らしくもない、無粋なお尋ねですな」
司教はにこやかにはぐらかした。
「まあ、七大貴族のどのお家にも、それぞれ後ろ暗いところはおありですから。私どもは公平に、それぞれのご事情を伺っているだけです」
「公平、か。良い言葉だ」
シルヴァンは鼻で笑った。
「つまり私がここで払っている金は、ほかの家を黙らせるためにも使われているわけだ」
「さて、どうでしょうな」
司教の笑みは崩れなかった。
「近頃、教会の周りは落ち着いているのか」
「ええ、それはもう。あの一件以来、教会も随分と慎重になりましたので」
司教は世間話のような調子で続けた。
「儀式のほうも、今は手順を何重にも確かめております。あの双子のような不始末は、二度と起こしてはなりませんからな」
「双子?」
シルヴァンは気のない声で聞き返した。だが頭の隅で、古い記憶を手繰っていた。
(――そういえば、聞いたことがある。教会が昔、人柱に差し出した双子の話を)
「あれを揉み消すのには、随分と骨が折れました」
司教は、酒の席の思い出話でもするような口ぶりだった。
「今ごろ生きていれば、どこで何をしているのやら。まあ、生きているとも思えませんが」
「さて、な」
シルヴァンはそれ以上は訊かなかった。ただ、その一言だけが妙に耳に残った。
(人柱、か。どこも似たようなものだ)
教会は子どもを人柱に差し出させる。そして自分は、子どもの体に石を埋め込んでいる。
「それでは、シルヴァン様。また来月」
「ああ」
シルヴァンは振り返らずに教会を出た。
夜更け。シルヴァンは屋敷の私室で、窓の外に広がるエオリアの夜景を見下ろしていた。
運河を行き交う舟の灯りが、水面に揺れている。港に並ぶ風力船の帆が、月の光を白く跳ね返していた。
王家はタラッサとの揉め事に気を取られている。呪術師の一行は、自分が泳がされていることを知らない。商人たちは、それぞれ自分だけが特別だと信じている。娘は、父が裏で何をしているかを知らない。
(――すべて、思惑通りだ)
この街に、自分を心から信頼している者は一人もいない。信頼させてはならないのだ。誰か一人にでもすべてを見せれば、その者はいずれ、裏切る隙を見つけ出す。
だから相手の数だけ顔を使い分ける。エアハルト家は代々、そうやって生き延びてきた。
シルヴァンは窓硝子に映る自分の顔に、薄く笑いかけた。
彼はまだ知らなかった。泳がせているつもりの呪術師の一行が、すでに彼の見込みよりずっと深いところまで真実に近づいていることを。
(第30話「掌の上の獲物」へ続く)




