第27話「風の都へ」
風の都、その最奥にある重厚な石造りの一室。
細く開かれたカーテンの隙間から差し込む月光だけが、部屋の暗がりを照らしていた。
風エアハルト家当主シルヴァンは、高い背もたれの椅子に深く腰掛け、机を挟んで向かいに立つ人影を値踏みするように見ていた。漆黒の外套に、深く下ろしたフード。シルヴァンの指先が、木目の表面をゆっくりと叩く。
「で、お前の用件は」
「決まってるだろう。取引だ」
低く掠れた声だった。長年煙草を吸い続けた者のしゃがれた響きが、静まり返った室内に落ちる。
「呪術師の一行が近々、この領地に足を踏み入れる」
シルヴァンの目がわずかに細められた。月光の下で、薄い唇の端が歪む。
「ほう。それは貴重な情報だな」
「情報だけじゃない。連中の手の内も、弱点も知り尽くしてる」
男は懐から小さな革袋を取り出し、卓上へ放った。金貨の擦れ合う音が小さく鳴る。
「これで話は通じるはずだ」
「随分と安く仲間を売るものだな」
「仲間、ねえ」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
「俺にとっちゃ生き延びるための駒に過ぎねえよ」
窓の外を雲が流れ、月明かりの中で男の輪郭が一瞬揺らいだ。フードの影に沈んだ顔は、最後まで見えなかった。
「良かろう」
シルヴァンは唇の端を吊り上げた。
「その情報、頂戴しよう。もちろん相応の対価と共にな」
二つの手が、闇の中で結ばれた。窓の隙間から生ぬるい夜風が忍び込み、カーテンの裾を揺らした。
王都を発って数日が過ぎていた。
軋みながら揺れる荷馬車の中で、カースは出発前夜のことを思い返していた。薄暗い宿の一室だった。ガルトが油ランプの灯りの下に古びた地図を広げ、切り出した。
「エアハルト領で人が消えている」
「消えている?」
カースは眉をひそめた。
「若い娘や身寄りのない子どもが、次々と姿を消してるらしい。裏の筋から流れてきた話じゃ、あの領地の一部の貴族連中が、人を商品として他国や裏市場に売り飛ばしてるってな」
「人身売買、か」
壁にもたれて腕を組んでいたシークが、低く呟いた。
「エアハルト家は遊牧文化と機動力を武器にしてきた一族だ。その気になりゃ、外聞の悪い商売を目立たないように動かすのも容易いだろうよ」
ガルトが地図の西の端を指で叩いた。カースはしばらく黙っていた。唇を固く結び、その指先を見つめる。
「次に向かう場所は決まったな」
顔を上げたカースの目に、迷いはなかった。
「エアハルト領だ」
七大貴族を討つ道の、次の一歩というだけではない。名もない人間が売り買いされていると知って、見過ごすことなど、もう彼にはできなかった。
エアハルト領への道は、西へ向かってなだらかな丘陵地帯を越えていく。緑の稜線がうねりながらどこまでも続き、街道はその谷間を縫うように走っていた。風が吹き抜けるたびに丈の低い草が一斉になびき、銀色に光る。見晴らしは良いが、身を隠す場所は少ない。
その道中で、一行は足を止めることになった。
「なんだ、あれは」
御者台で腰を浮かせたウォルターが、街道の先を見据えて眉をひそめた。
丘の切れ目にある小さな集落。その入り口に、粗末な鎧をまとった一団が群がっていた。数十人はいる。隊列は乱れ、槍の穂先はてんでばらばらの方向を向いていた。統率はとうに崩れているらしい。それでも、数だけはこちらをはるかに上回っていた。彼らは通りかかる旅人や商人の荷馬車を止めては、積み荷を力ずくで奪っている。
「あの紋章」
シークが目を細めた。
古びた盾のいくつかに、色褪せた紋章がかろうじて残っていた。土を司る一族――壊滅したはずのグルントハルト家のものだ。
「残党か」
カースの口から低い声が漏れた。
「当主を失って、家そのものも取り潰された。あの軍勢は国境に置き去りにされてたはずだ」
「行き場をなくしたんだろうな」
ガルトが苦い顔で顎をこすった。
「主もいない。帰る家もない。食っていくには、ああやって奪うしかねえってわけだ」
集落の住人たちが悲鳴を上げて逃げ惑っていた。荷を奪われ、殴られ、抵抗した者は容赦なく斬り捨てられている。怒号と悲鳴が、風に乗ってここまで届いた。
「放ってはおけないね」
カースは腰を浮かせ、右腕の黒い呪鎖を構えた。
「待て」
ウォルターがその肩に手を置いた。
「一つ確認させろ」
「何を」
「あいつら、元はただの兵士だ。悪逆な貴族本人とは違う。皆殺しにする必要はない」
いつもの軽口はなかった。大剣の柄に添えた手にも、余計な力は入っていない。
「この前の鍛錬、無駄にするなよ。加減した力ってやつを、ここで試してみろ」
カースはすぐには答えなかった。
これまでは、迷わず敵を殲滅してきた。だが目の前にいるのは貴族ではない。主を失い、食うために暴れている名もない兵士たちだ。しかも数十人。四人で殺さずに抑えきれるのか、正直、分からなかった。呪詛の残響が、指先をちりちりと苛む。
「わかった」
カースは長く息を吐いた。
「殺さずに止める。それでいこう」
「俺は上から見させてもらう」
ガルトが丘の上の一本杉を顎で示した。
「数が数だ。誰かが逃げ道と背後を見てなきゃ、あっという間に囲まれるぞ」
最初に動いたのはシークだった。
風をまとった身体が地を蹴り、一直線に宙へ跳ね上がる。丘の斜面を足場に何度も跳び、敵兵の頭上を軽々と越えていった。着地したときには、もう次の跳躍のために膝を沈めている。
「そっちだ」
空中で身を捻りながら、両手の針を弾くように放つ。狙うのは急所ではない。得物を握る腕と、踏み込む足の腱だ。風に乗って加速した針が突き刺さり、悲鳴と一緒に兵士たちの武器が次々と地面に落ちた。
「速い......!」
兵士の一人が槍を振り上げて追う。だがそのときには、シークはもう背後にいた。低く沈んだ体勢から放たれた回し蹴りが脇腹を捉え、兵士の身体を鎧の継ぎ目ごと吹き飛ばす。地に足をつけたと思えば、次の瞬間にはまた宙にいる。動きは軽いのに、一撃一撃が骨まで響くほど重かった。
「化け物か、あいつは......」
誰かの呟きは、すぐ別の悲鳴にかき消された。
ウォルターは、その対極にいた。
「どけええッ!!」
銀の大剣が唸りを上げて横薙ぎに走る。剣の腹が三人の兵士をまとめて捉え、鎧ごと弾き飛ばした。地面が揺れるほどの一撃に、周りの兵士たちが思わず後ずさる。
「一人ずつ来い、雑魚どもが!」
振り下ろされた大剣を槍の柄で受けた兵士が、そのまま押し潰されて膝から崩れた。ウォルターは剣を引き戻しざま、柄頭で別の兵士の顎を打ち抜く。踏み込んだ勢いのまま、重い蹴りを鳩尾に叩き込んだ。剣だけではない。あの巨体そのものが武器だった。数で押し寄せる兵士たちも、彼の間合いに踏み込んだ途端にまとめて弾き返される。
「後ろだ、ウォルター!」
丘の上からガルトの声が飛んだ。ウォルターが振り返るより早く、背後に迫った兵士の足元に黒い影が這い広がる。
「屍傀儡の糸」
カースの声には抑揚がなかった。
黒い糸が、地面に散らばった瓦礫や折れた槍、朽ちかけた荷車の破片を絡め取りながら、兵士たちの足元へ這い寄っていく。足首に絡みついた糸は見る間に締まり、兵士たちをその場に縫い止めた。もがけばもがくほど、糸は深く食い込む。殺すための糸ではない。恐怖で足を止めるための糸だった。
「な、なんだこれは......っ。 化け物の術だ......!」
「近づくな......あいつには、近づくな......!」
一人の叫びが、瞬く間に周りへ伝わった。カースの右腕に絡む黒い呪印が、薄闇の中で脈打つように光る。糸に捕まった兵士たちの怯えた目が、カース一人に集まっていた。数で押していたはずの群れが、じりじりと後退り始める。
「まだだ」
カースは右手を軽く掲げた。
空気が冷えた。丘を渡っていた風がぴたりと止み、饐えた獣の匂いが辺りに立ち込める。
「犬神の怨牙」
地面に落ちたカースの影が、ずるりと盛り上がった。影は骨と毛皮の輪郭をまとい、幾重にも重なった犬の顎となって、兵士たちの足元から立ち上がっていく。一つや二つではない。数えようとするのが馬鹿らしくなるほどの牙が、闇の底からせり上がってきた。
顎の奥から漏れる唸り声は、獣のものにしては人間くさかった。裏切られ、見捨てられ、噛み殺されていった者たちの恨み言が、そのまま声になって滲み出ている。
「う、あ、あああああ......!」
牙の群れが音もなく開き、閉じる。そのたびに虚空で赤黒い光が瞬いた。無数の眼に見据えられている――兵士たちにはそう見えただろう。牙は誰にも噛みついていない。それなのに、突撃しかけていた足は地面に貼りついたように止まった。自分の身体に牙が食い込む幻でも見たのか、悲鳴を上げて地面を転げ回る者までいた。
「ひ......ひぃ......! 来るな、来るなあああ......!」
武器を取り落としてへたり込む者。隣の仲間にしがみつく者。失禁して立ち尽くす者。数に任せた勢いは、もうどこにもなかった。噛まず、ただ見せるだけで、数十人分の戦意を根こそぎ刈り取っていた。この技がどこまで大きくなるのか、カース自身もまだ底を測りかねている。
「今だ、畳み掛けろ!」
ガルトの合図に、シークが再び跳んだ。動きの止まった兵士たちの間を縫って駆け抜けながら、急所を外して投擲針を打ち込んでいく。ウォルターは戦意を失った一団の真ん中へ大剣を振り下ろした。狙ったのは人ではなく地面だ。割れた地面から走った衝撃が、数人をまとめて吹き飛ばした。
「思ったより、やれるもんだな」
気を失った兵士を地面に転がし、ウォルターが荒い息を吐いた。
「殺すより、よっぽど面倒だけどな」
「そのために鍛えたんだろ」
散らばった針を拾い集めながら、シークが素っ気なく返した。
残った兵士たちも、一人、また一人と武器を手放していく。
「も、もう、やめてくれ......!」
最後まで槍を握っていた兵士が、それを泥の中へ投げ捨てた。
「俺たちは、ただ......行く当てがなかっただけなんだ。腹が減って、他に生きる術がなかった......!」
カースは何も言い返せなかった。
崩れるように座り込んだ兵士を見下ろす。胸の奥が重かった。
「お前たちの主人が、どんな罪を犯したか知っているか」
「......知らない。知らされてなかったんだ。俺たちは、命じられるまま槍を振るってただけだ」
カースは、その言葉をしばらく噛み締めていた。
貴族を憎み、罪を暴き、裁いてきた。だがその先で、こうして行き場をなくした人間が生まれることまでは考えていなかった。
(――僕が、これを生み出したのか)
右手に目を落とす。呪鎖が食い込み、傷だらけになった手だった。
「......行け」
短く告げた。
「この集落には、もう手を出すな。どこへでも行って、生き直せ」
兵士たちは戸惑った顔を見合わせていた。一人、また一人と、力のない足取りで去っていく。どの背中も、ひどく小さく見えた。
「甘いな、カース」
丘から下りてきたガルトが、その背中を目で追いながら言った。
「あいつら、またどこかで同じことをやるかもしれねえぞ」
「わかってる」
カースは首を横に振った。
「でも、今ここで殺すのは違う気がするんだ」
ガルトは何か言いかけて、口を閉じた。
家々の陰から、集落の住人たちが恐る恐る顔を出し始めた。口々に礼を言われても、カースの表情は晴れなかった。
「行こう」
それだけ言って、カースは西へ続く街道を歩き出した。
さらに数日かけて、一行は風のエアハルト領の中枢、港湾都市エオリアに入った。
街道を抜けた先に、これまで見てきたどの街とも違う景色が広がっていた。
幾筋もの運河が、網の目のように街を縫っている。水面を色とりどりの平底舟が行き交い、荷を積んだ商人たちの掛け声があちこちから響いていた。運河には石造りの橋がいくつも架かり、その下を、帆に風を孕んだ小舟が滑り抜けていく。
海に面した港には、巨大な帆を何枚も張った風力船が並んでいた。精霊の風を受けた帆が、休みなく脈打つように揺れている。荷降ろしをする人夫たちの声が、潮風に混じって流れてきた。
「随分と賑やかな街だな」
ウォルターが感心したように言った。
運河沿いの通りには、色鮮やかな建物が隙間なく並んでいた。窓辺には洗濯物や花が飾られ、どこか垢抜けている。行き交う人々の身なりも、これまでの土地とはまるで違った。薄手の外套を風になびかせた遊牧の民らしい旅装の者。鮮やかな刺繍のベストに幅広の帯を巻いた商人風の男。髪に細い三つ編みを何本も垂らし、耳や指に金の飾りをいくつも下げた女たち。日に焼けた肌の色も瞳の形もさまざまで、通り一本ですれ違う人間を見ているだけで、この国の広さを思い知らされた。
屋台からは香辛料を効かせた串焼き肉の煙が立ちのぼり、炙った白身魚に柑橘を搾った皿や、蜂蜜と木の実を練り込んだ丸パンが威勢のいい声で売られていた。焼きたての生地と潮と炙り肉の匂いが混ざり合い、歩いているだけで腹が鳴りそうだった。
「うまそうだな、あれ」
串焼きの屋台に目を留めたウォルターを、シークが呆れた顔で横目に見た。
運河の縁を子どもたちが駆け回り、行商人が反物や陶器を売り込み、路上の楽師が弦を爪弾いて小銭を稼いでいる。誰の顔にも、警戒より先に活気があった。
「この街は、生きてるね」
カースの口から、素直な言葉がこぼれた。
だが大通りから一本裏に入ると、景色は一変した。
陽の光もろくに届かない路地に、湿った石畳が続いている。表の喧騒が遠のき、代わりに低く抑えた話し声と、金属のぶつかる乾いた音だけが聞こえた。布を被せた台がずらりと並び、出所の知れない武具や、変色した小瓶の薬が無造作に転がっている。仮面をつけた商人が物陰から声を潜めて客を呼び、通り過ぎる者の顔を値踏みするように眺めていた。
すれ違う人々の足取りも、どこかおかしかった。フードを目深に被り、誰とも目を合わせない者。片腕に不自然な包帯を巻いたまま、荷を担いで足早に去っていく者。子どもの姿は、ここには一人もなかった。
「闇市、か」
ガルトが周囲に目を配りながら呟いた。
「この街は、表と裏の落差がとにかく激しい。表じゃ洒落た商売をしてるが、裏じゃ盗品も密輸品も、なんでも扱ってる」
路地の奥に、ひときわ人が集まっている一角があった。束になった書類や封蝋された手紙が、台の上で売り買いされている。
「あれは?」
シークが怪訝そうに訊いた。
「情報だよ」
ガルトが答えた。
「どこの貴族が誰と密会した。どの商船が、いつ何を運ぶ。そういう生の話を、金で売り買いしてる。エアハルト家の情報網の端っこが、ここにも伸びてるってわけだ」
さらに奥へ進むと、洒落た店構えの一角に酒瓶がずらりと並んでいた。
「高級ワインだな、あれは」
ウォルターがラベルを横目で見た。
「随分いい値がついてる。この街の商人は遊牧の民の足を活かして、大陸中から珍しい品を掻き集めてくるって話だ」
運河を渡る風が、潮の香りとさまざまな品の匂いを混ぜ合わせて吹き抜けていく。開けた自由な空気の下に、情報と金と嘘の網が幾重にも張り巡らされていた。
「見た目は平和そうだけどな」
ガルトが言った。
「あの一族は、二枚舌と情報網でこの国を渡り歩いてきた連中だ。見た目に騙されるなよ」
カースは、遠くに見える領主の館の輪郭を見据えた。
「行こう」
(第28話「偽りの協力者」へ続く)




