第26話「民の光、貴族の影」
王都の外れ、湿った風と腐臭が漂う貧民街の一角。崩れかけた石造りの家々が押し合うように立ち並ぶ薄暗い路地へ、その日、一頭の精霊獣が空から舞い降りた。白銀の翼が大きく広がり、鋭い蹄が石畳を踏む。
「エリオット殿下だ!」
誰かが叫ぶと、その声は瞬く間に路地を駆け抜けた。干からびた木々に一斉に葉が芽吹くように、人々が集まってくる。衣服を濡らす泥も、鼻を突く悪臭も気にする様子はない。誰もが、すがるような目で精霊獣の背を見つめていた。
エリオットはペガサスから降りると、身分を誇示することもなく、声の聞こえた方へ歩いていった。
腐りかけた藁床に横たわる老女の手を取り、聖浄化の光輪を灯す。指先からこぼれた柔らかな白い光が、痩せ細った身体を包み込んでいく。冷え切っていた皮膚に、少しずつ温もりが戻っていった。
「痛みが……消えていく……!」
苦痛に歪んでいた老女の目から涙がこぼれた。震える手が、エリオットの高級な衣の裾を掴む。
「殿下……! なんと、お礼を申し上げれば」
「礼など、いりません」
エリオットは泥のついた床に膝をついたまま、老女と目を合わせた。
「あなたが元気になってくれること。それだけで、十分です」
崩れかけた日よけの陰では、子どもたちが身を乗り出していた。目を輝かせながら、口々に声を上げる。
「すごい! やっぱり殿下は、本物の精霊様の生まれ変わりなんだ!」
「うちの母ちゃんも、この前、殿下に助けてもらったんだ!」
その日、エリオットは貧民街を歩き続けた。病人を癒し、怪我人の傷を治し、助けを求める者がいれば足を止める。泥や血で衣服が汚れても気に留めず、一人ずつ手を差し伸べていった。
その様子を、崩れかけた石垣にもたれた老爺が、泥で汚れた外套を着た若者へ話しかけた。
「もう何年も前から、こうして殿下は通ってきなさる」
「本当に頭が下がりますね」
若者が感嘆の息を漏らすと、老爺はゆっくり首を横に振った。
「王族なんぞ、上のほうで贅沢三昧してるだけかと思ってたが……あの方だけは違う」
老爺は、ペガサスに跨がり遠ざかっていくエリオットの姿を、手で庇を作りながら眩しそうに見つめた。
「なあ、お前。王女様の名前を知ってるか」
「王女様? ……さあ。聞いたことはあるような、ないような」
「国王陛下の顔をまともに見たことは?」
「ないですね。そういえば」
二人は顔を見合わせ、自嘲するように小さく笑った。
「俺たちにとっちゃ、王家なんて、もう殿下ただ一人しかいないようなもんだ」
その後もエリオットは、傾いた家々の扉を叩き、病人たちを癒していった。だが、何人目かの老人の治療を終えたところで、ふと手を止めた。
「……おかしいな」
「殿下?」
後ろに控えていたレイフが尋ねる。
「同じ、風邪をこじらせただけの症状のはずなのに、この地区の人たちは治りが異常に遅い」
エリオットは老人の痩せ細った腕を見つめた。聖浄化の光輪をどれだけ注いでも、身体そのものの回復が鈍い。病を取り除くことはできても、その後に戻るはずの体力が戻ってこない。
「この一帯、以前はもう少し早く癒えていたはずだ」
立ち上がったエリオットは、湿った壁や淀んだ空気、周囲にいる人々の青白い顔を見回した。
「お調べになりますか」
「ああ。レイフ、この地区への精霊光の配給記録を調べてくれないか」
「かしこまりました」
その夜、王宮へ戻ったエリオットのもとへ、レイフが羊皮紙の資料を携えてやってきた。重厚な燭台の炎が揺れる室内で、レイフの表情はいつになく硬い。
「殿下。奇妙なことが判明いたしました」
「何がわかった」
「王都全体への精霊光の配給量そのものは減っておりません」
「なら、どこへ流れているんだ」
レイフは、もう一枚の帳簿を差し出した。
「七大貴族の各管理区域への配分量が、ここ数ヶ月で明確に増えております」
エリオットは細かな数字を追った。
「違法な横流しか」
「いいえ。すべて正規の手続きを経た、合法な再配分です」
エリオットの指が、羊皮紙の端を強く掴んだ。
誰か一人が法を破って私腹を肥やしているのなら、まだ話は簡単だった。だが、帳簿に残っているのは、正式な手続きを経て行われた配分だった。
王都で最も貧しい人々から削られた精霊光が、制度に従って貴族の管理区域へ流れている。
(これは、誰か一人の悪意の問題じゃない)
エリオットは資料を見つめた。
(この国の仕組みそのものが、そうなっている)
翌日、王宮の会議室。
重厚な木製テーブルと華やかなタペストリーに囲まれた部屋で、エリオットは数人の重臣と王女オーレリアを前に口を開いた。
「貧民街への精霊光の配分を増やすべきです」
室内が静まり返った。エリオットは気にすることなく言葉を続ける。
「今、あの地区では治療しても治療しても、体力そのものが回復しない人々が後を絶ちません。原因は明白です。配分量そのものが足りていない」
「そんなことをしたら、足りなくなるわ」
オーレリアが扇を動かしながら答えた。
「……足りない?」
「王都だけでなく、各領地にも精霊光は必要なのです」
オーレリアは机に広げられた大陸全土の地図を指でなぞった。
「一つを増やせば、どこかを減らさなければならない。それが、この国の精霊光の総量というものです」
「ですが、目の前で人が死んでいくのです」
エリオットは拳を握った。ため息とともに、オーレリアは弟を見る。
「ええ。だからこそ、感情だけで決めてはいけないのよ」
エリオットは一瞬、言葉を失った。姉の言葉には、この時ばかりは露骨な悪意がなかった。だからこそ、簡単に切り捨てることができない。
「では」
エリオットは気を取り直し、一歩前に踏み出して続けた。
「七大貴族への配分を少し減らせばいい」
その提案に、オーレリアの表情が初めて僅かに変わった。氷のように冷ややかな眼差しが弟に注がれる。
「……それはできません」
「なぜですか」
「彼らには、それぞれ領地を守る責任があるからです」
「領地を守るのは、貴族のためではなく、そこに暮らす民のためでしょう」
エリオットは姉を真っ直ぐに見た。
「貴族の領民も貧民街の人たちも、同じこの国の民です」
その一言に、会議室の空気が張り詰めた。
「あなたは優しすぎるのよ、エリオット」
オーレリアの声は低かった。
「国というものは、すべての人間を平等に救えるほど単純ではないわ」
「単純かどうかの話ではありません」
エリオットは言った。
「救える人を救わない理由を、国の都合という言葉で片づけていいのかという話です」
オーレリアの扇が止まった。
「……なら、あなたならどうするの?」
「必要なところに、必要なだけ配る。それだけです」
「では、その不足分はどこから持ってくるの?」
「無駄を削ります。まずは、そこからです」
「その無駄を決めるのが、あなた一人でできるとでも?」
「一人でできないなら、できる仕組みを作ります」
オーレリアは、しばらく弟を見つめた。
「……本当に、あなたは何もわかっていないのね」
それでも、エリオットは引かなかった。胸に残った違和感を確かめるため、自ら書庫や管理室へ足を運んだ。
「なら、実際の配分量をすべて見せてください」
その日のうちに、管理室に詰める担当官吏へ命じる。
「王都全体の詳細な配給記録です。地区ごとの実際の受給量を洗いざらい」
数日後、届けられた記録には明確な齟齬があった。王宮の公式な帳簿では、貧民街にも一定量の精霊光が届いていることになっている。
しかし、エリオットが現場で確認した受給量は、記録より遥かに少なかった。
「……これはどういうことだ」
書庫の薄暗い一角で、エリオットは担当官吏に詳しい調査を命じた。しかし、その官吏は青ざめ、あからさまに動揺した様子で声を潜めた。
「殿下。この件は……これ以上お調べにならない方がよろしいかと」
「なぜだ」
「それは……」
官吏は言葉を濁した。額に汗を浮かべ、怯えたような視線の先が、無意識にある方角――豪華な意匠が施された王女オーレリアの私室がある廊下の方角へと向いていることに、エリオットは気づいてしまった。
(まさか)
その気づきが、胸の奥へ冷たく沈んだ。息が詰まり、血の気が引いていく。
(姉上が……この件に関わっている)
その夜、エリオットはオーレリアの私室を訪れた。
月光が大きな窓から差し込み、豪華な室内の絨毯を青白く照らしている。机に向かっていたオーレリアが、ペンを止めて顔を上げた。
「姉上が止めているんですか」
「何を?」
「精霊光の配分に関する調査です」
オーレリアはしばらくの間、静まり返った室内で彼を見つめていた。そして、やがてあっさりと頷いた。
「ええ」
あまりにも率直な肯定に、エリオットは言葉を失った。
「どうしてですか」
「あなたが正しいからよ」
「……え」
「調べれば貴族たちの不正……いいえ、不正とも呼べない灰色の利権のやり取りが、次々と出てくるでしょうね」
オーレリアは静かに立ち上がり、ドレスの裾を揺らしながら続けた。
「けれど、それを公にすればどうなると思う?」
彼女は白く細い指を一本ずつ折りながら続けた。
「七大貴族が一斉に反発する。領地の統治が滞る。納められるはずだった税が止まる。有事の際に動くはずだった兵が動かなくなる」
「だから、見逃すんですか」
「見逃すのではないわ。秩序を守るのよ」
「誰のための秩序ですか」
オーレリアの目が細くなる。
「……ずいぶんと大きなことを言うようになったわね」
「大きなことじゃありません。僕はただ、間違っているものを間違っていると言っているだけです」
「あなたは目の前の病んだ一人の老人を救えるかもしれない。でも、その正義でこの国全体を敵に回すことになる」
その言葉は冷静だった。
だからこそ、エリオットは簡単に否定できなかった。姉が言っているのは、民を切り捨てたいという感情ではない。国を維持するためには、時に見過ごさなければならないものがあるという現実だった。
それでも、エリオットは目を逸らさなかった。
「それでも」
震えを押し込めるように、一度息を吸う。
「間違っているものは間違っていると、僕は思います」
「……それで国が壊れても?」
「壊さない」
「どうやって?」
「壊さずに変える方法を探します」
オーレリアの目から、諭すような色が消えた。
「だから、あなたは」
彼女は弟を見据えた。
「王には向いていないのよ」
その言葉は、これまでのどんな嫌味や皮肉よりも深く、エリオットの胸に突き刺さった。
エリオットが足重に部屋を出た後、オーレリアは執務机へ戻った。机の上には、紋章入りの封蝋が施された書状が何枚も並んでいる。
そのうちの一枚を開く。そこには、七大貴族のいくつかの強力な家門から送られた密約が記されていた。王女殿下が王位に就かれた暁には、現行の権益を保証する。
オーレリアは書面を指先でなぞった。
「……まだ足りない」
貴族との関係も、王宮内の支持も。彼女が本当にこの国の頂点に立つには、まだ足りない。
「エリオットには、民だけ与えておけばいい」
弟を殺す必要はない。むしろ、あれほどまでに民に愛されているエリオットは、利用価値の高い存在だった。民衆の人気は弟に。政治の権力は自分に。
そうすれば、自分が玉座に就いた後も、民の不満を弟という象徴に向けさせることができる。
オーレリアにとって、この国は守るべきものではなかった。玉座へ至るために利用するものだった。
王宮の正面バルコニー。
年に一度の恒例行事として、王族が民衆の前に姿を見せる日が訪れていた。
眩い陽光の下、王冠を戴いた国王アーサーが現れ、その後ろから紫の絢爛なドレスを纏った王女オーレリアが姿を見せる。
広場から歓声が上がった。
だが、それは儀礼的な拍手の域を出なかった。そして最後に、白い礼服を纏ったエリオットが姿を現す。その瞬間、大通りと中央広場が地鳴りのような歓声に包まれた。
「エリオット殿下!」
「殿下! こっちを見てください!」
帽子が宙を舞い、花びらが広場を流れていく。人々が叫ぶのは、ただ一人の名だった。
その光景を、オーレリアは隣で見ていた。扇を握る手に、わずかに力が入る。
「随分と愛されているのね、エリオット」
式典を終え、バルコニーの奥へ下がったところで、オーレリアが言った。
「愚かな民衆にいくら好かれたところで、この国を動かせるわけじゃない。所詮、その程度の人気取りよ」
「人気取りでも、彼らが僕を信じてくれていることに変わりはありません」
エリオットは背を向けたまま答えた。だが、胸の中には、これまで姉と交わしてきた言葉が重く残っていた。
(僕は、あの人に勝てなかった)
控えの間へ戻ると、色とりどりの衣装を纏った貴族たちが次々と集まってきた。しかし、誰もエリオットには近づかない。
彼らは迷うことなく、オーレリアのもとへ歩いていく。
一方、広間の壁際に立つエリオットの周囲には、人の輪ひとつできなかった。
「レイフ」
「はい」
「姉上の周りにいる人たち、全員が姉上を慕っていると思う?」
「……いいえ」
「だよね」
エリオットは小さく笑った。
「あの人たちは姉上が好きなんじゃない。姉上の隣にいると、自分たちの未来が明るいと思っているんだ」
「……」
「そして姉上は……その仕組みを僕よりもずっと深く理解している」
「殿下。でしたら、殿下もそれを利用すればよいのでは?」
「僕には、姉上と同じやり方はできない」
その声には、苦いものが混じっていた。
(僕には民の心がある。だが、それだけでは……姉上には勝てない)
正しいことを訴えるだけでは、この国は動かない。救いたいと思うだけでは、救える命に限界がある。彼が一人で癒せる命には限りがあり、その向こう側では、国の仕組みそのものが新たな犠牲を生み続けている。
その現実を前にして、エリオットは初めて、自分の力の小ささを思い知らされていた。
その夜。
エリオットはレイフとともに、王宮の一角にある地下へ続く階段を下りた。月光も届かないその先には、目立たない小さな部屋がある。
石造りの室内には、質素な身なりをした数人の実務官吏が集まっていた。机には羊皮紙が積まれ、油ランプの炎が揺れている。
「私には民の心がある。だからこそ私は民を守らないといけない。ただ、民の心があったとしても」
エリオットは彼らを見回した。
「それだけでは姉上には勝てない」
官吏たちは何も言わず、王子の言葉を聞いていた。
「私は、この国の本当の姿を知りたい」
エリオットは胸元から一枚の白紙を取り出し、机の上に置いた。
「各領地の人口。それぞれの税収。精霊光の実際の配分の流れ。七大貴族、それぞれの家門の支出の実態。この国の官僚機構が本当にどう機能しているのか。王都に実際どれだけの物資があるのか。そして、いざという時に動かせる軍事力はどれほどなのか」
あまりにも広範な要求に、官吏たちは顔を見合わせた。
「殿下は……この国そのものを、丸ごと把握しようとなさっているのですか」
「そうだ」
エリオットは迷いなく深く頷いた。
「姉上が貴族という、目に見える権力の土台でこの国を支配しようとしているなら、私は、この国の本当の実態そのものを誰よりも深く知る者になろう」
これまでのエリオットにはなかった考えだった。目の前にいる人を救うだけではなく、その人を苦しめている仕組みまで理解する。
「知ることこそが力になる。姉上に力で及ばないなら、私はこの国を誰よりも理解することで対抗する」
「殿下」
やがて、一番前にいた一人の老いた官吏が感極まり、震える手で胸に手を当てて答えた。
「この命、殿下のために」
部屋を出た後、ひんやりとした夜気が満ちる静かな回廊を歩きながら、レイフが静かに口を開いた。
「殿下。これは、これまで以上に危険な賭けにもなりえます」
「わかっている」
エリオットは足を止め、吹き抜けの向こうに浮かぶ鋭い三日月を見上げた。
「姉上は人を従わせる」
しばらく夜空を見つめてから、言葉を続ける。
「僕は……この国そのものを理解する。それが今の僕にできる唯一の戦い方だ」
「それで、姉上に勝てると?」
「わからない」
エリオットは寂しげに少しだけ笑った。だが、その瞳の奥にはこれまでにない静かな、しかし確固たる覚悟の炎が燃え上がっていた。
「でも、目の前の一人を救うだけでは、もう足りないことはわかった」
夜風が髪を揺らす。
「だから、僕はこの国そのものと向き合う」
ただ優しいだけの王子ではない。
国の仕組みを知り、その暗部まで見ようとしている。
エリオットの戦いは、ここから始まろうとしていた。
(第27話「風の都へ」へ続く)




