第 25 話「軋む同盟」
タラッサ領とエアハルト領の境界線。険しい断崖と荒々しい波濤に挟まれた「潮風の道」は、水運を担うタラッサと空運を担うエアハルト、二つの大貴族領を結ぶ重要な街道だった。かつては両家の固い盟友関係を象徴する場所として、商人や旅人が絶えず行き交っていた。だが、その平和は一夜にして破られた。
月明かりすらない深夜、一隻の大型商船が何者かの奇襲を受けた。船体は精霊石から放出された炎に包まれ、積まれていた貴重な品々は根こそぎ奪われた。乗組員の多くは海へ投げ出され、そのまま荒波に呑まれて命を落とした。
しかし、この事件を単なる海賊の襲撃ではなく、決定的な政治的惨事へと変えたのは――奇跡的に生き残った一人の水夫が残した証言だった。
「エアハルトの、紋章だ」
血と油に汚れた船底で、水夫は震える声でそう証言した。右手は手首から先を斧のような刃物で切り落とされており、粗末な包帯の隙間から赤黒い血が滲んでいる。
「奴らは、そう名乗った……! エアハルトの人間だと……! 見せしめだと、笑いながら……!」
その証言と、目の前に残された凄惨な傷は、何より雄弁だった。少なくとも、事情を知らない者たちにとっては、それ以上に疑う理由など存在しない。もちろん、この襲撃も、水夫への仕打ちも、すべてはトールが裏で仕組んだ偽装工作に過ぎない。しかし、いったん「エアハルトの仕業」という形で世に出た以上、その真偽を冷静に確かめようとする者はほとんどいなかった。
その報せは、瞬く間に王都を駆け巡った。
七大貴族会議が開かれる、その日の朝。王宮の一室では、エリオットがレイフとともに最後の確認を行っていた。窓の外には薄い朝靄が漂い、差し込む淡い光が机の上に広げられた羊皮紙を照らしている。
「レイフ。先ほどの資料、もう一度、見せてくれる?」
「こちらでございます」
差し出された羊皮紙には、七大貴族それぞれの領地における精霊光の備蓄量と、その輸送能力が細かく記されていた。複雑に入り組んだ数字と交易路を、エリオットは真剣な眼差しで追っていく。しばらくして、指先が一つの項目の上で止まった。
「……やっぱり」
エリオットは紙面を見つめたまま、静かに呟いた。
「ドンナーハルトは、精霊光の余剰が多い。でも北部へ運ぶとなると、輸送費が高くなる」
「よくお気づきに……」
「タラッサには水運がある。エアハルトには空路がある。だったら、この二家に復興支援の輸送を担ってもらえばいい」
レイフが僅かに目を細めた。長年、王子を間近で見守ってきた彼にとっても、その発想は少し意外だったらしい。
「つまり、ただ負担を求めるのではなく」
「それぞれが、すでに持っているものを使ってもらう。そうすれば、誰か一人だけが損をする形にはならない」
エリオットは資料を静かに閉じた。パタン、と乾いた音が部屋に響く。
「僕は、みんなに善人になってほしいわけじゃないんだ」
「では?」
「自分たちの利益になると思ってもらえれば、それでいい」
その横顔には、以前の彼にはなかった冷静な計算があった。民を救いたいという思いは変わらない。ただ、その思いだけでは人は動かないことも、エリオットは少しずつ理解し始めていた。
七大貴族会議の場。王宮の大広間には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。高い吹き抜けの天井から吊り下げられた壮麗なシャンデリア。その下で円卓を囲む貴族たちの顔には、露骨な警戒と疑念が浮かんでいる。先日の商船襲撃が、すでにこの場の空気を大きく変えていた。
「これは、明確な宣戦布告です!」
タラッサ家の令嬢マリーナが、興奮を隠さず声を荒らげた。水色のドレスを震わせ、長椅子から身を乗り出す。
「我が家の民が無残に殺され、生き残った者まで腕を切り落とされたのです! この蛮行を、看過するわけには参りません!」
「ふざけるな」
エアハルト家からの使者――跡取りゼフィロスが、すぐさま反論した。腕を固く組み、鋭い視線をマリーナへ向ける。
「我が家は、そのような卑劣な真似など一切行っていない! むしろこれは、タラッサ家が我らを陥れるために仕組んだ自作自演ではないのか!」
「証拠が目の前にあるというのに、まだ白を切るつもりですか!」
「証拠だと? そんなもの、いくらでも捏造できるだろう! 手首の一本くらい、演技の代償としては安いものだ!」
「なんですって……!」
二人の応酬は、あっという間に罵り合いへと変わっていった。互いの領地が抱えてきた古い確執に、今回の襲撃への疑惑まで重なっている。もはやどちらも引く気はない。
「双方とも、いい加減にしないか!」
ドンナーハルト家の当主ヴォルケンが、一喝した。重厚な鎧を思わせる衣装を纏った巨躯から放たれた怒声が、大広間の壁を震わせる。二人は渋々口を噤んだものの、睨み合う視線までは途切れなかった。
「――静粛に」
玉座に腰掛ける国王アーサーの声が、静かに広間へ響いた。穏やかな声だった。それでいて、誰も逆らうことのできない威厳があった。
「双方の言い分は、追って精査する。まずは、他の議題を進めよう」
「お待ちください、陛下」
声を上げたのは、これまで高みの見物を決め込んでいた中小貴族の一人だった。
「呪術師の件です。グルントハルト、そしてアイスフェルト。この短期間のうちに二つもの名門貴族家が崩壊させられました。我々七大貴族、その直下の者は、一枚岩となって対策を講じるべきではありませんか」
「我が家は、賛成しかねる」
ゼフィロスが冷ややかに口を挟んだ。
「情報を共有するということは、こちらの手の内も他家に晒すということだ。今この状況で、そんな真似ができると思うか」
その言葉に、広間が再びざわついた。共通の脅威を前にしても、互いへの疑念が協力を許さない。
「この件についても、検討する」
アーサーは淡々と答え、次の議題へ移った。
「では、続いて。グルントハルト家の旧領地について。現在、王家が直接、暫定的な統治を行っておりますが――」
「異議がある」
再びヴォルケンが口を開いた。眉間に深い皺を刻み、王家への警戒を隠そうともしない。
「王家が崩れた貴族の領地を、そのまま直轄地として飲み込む。そのようなことがまかり通るのであれば、我々七大貴族の存在意義そのものが揺らぐことになる」
「検討する」
アーサーの返答は、それだけだった。
「では、続いて。アイスフェルト家の今後についてです」
今度は王女オーレリアが優雅に一歩前へ出た。紫のドレスの裾を滑らせながら、広間に集まった貴族たちを見渡す。
「近く、私がヘルマン殿と婚姻を結ぶ運びとなっております。その間に生まれる子を、正式なアイスフェルト家の新たな当主として据えるのです」
一見すれば、没落した家を存続させるための合理的な案だった。だが、その実態は、アイスフェルト家の名と残された権益を王女自身の勢力下へ取り込むことに他ならない。
「なるほどな。一考の価値はあるだろう」
アーサーの反応に、オーレリアの口元に満足げな笑みが浮かんだ。自分の提案が認められることを、当然のように受け止めている。
「お待ちください」
その時、エリオットが静かに口を開いた。大広間の視線が、一斉に第二王子へ集まる。エリオットは一歩、前へ出た。
「姉上の提案は、あくまで統治機構の再編に留まるものです。ですが今、本当に急を要しているのは、そこに生きる民の暮らしそのものです」
彼は懐から書類を取り出した。朝、レイフとともに何度も内容を確認した羊皮紙だった。
「グルントハルト、アイスフェルト、両領地において、当主家が保有していた私財と、蓄えられていた精霊光の備蓄。それらを王家が一旦接収した上で、現地の民に直接、再分配していただきたい」
「それは……」
文官や周囲の貴族たちがざわつく。エリオットは構わず続けた。
「加えて、七大貴族各家に対し、今後三年間、それぞれの領地が持つ余剰な精霊光の一部を、この二領地の復興のために拠出していただくことを提案いたします」
広間に重い沈黙が落ちた。貴族たちは互いの顔を見合わせ、あからさまに眉をひそめる。
「それは、いささか性急すぎるのでは」
一人の貴族が慎重に口を開いた。
「我が領地にも、それぞれ事情がございます。他家の不始末のために、我らが負担を強いられる謂れはないでしょう」
「もちろん、ただでお願いするつもりはありません」
エリオットは反論を遮ることなく、静かに言葉を重ねた。
「復興した両領地から得られる交易税の一部を、拠出していただいた家門へ一定期間、還元いたします。また復旧に必要な輸送を担ってくださった家には、優先的な交易権をお認めします」
「……!」
先ほどまで無関心だった貴族たちが、僅かに顔を上げた。冷ややかだった視線が、少しずつ計算する目へと変わっていく。
エリオットは、その変化を見逃さなかった。
「皆様の領地にも、それぞれ守るべき民がいることは理解しております。だからこそ、善意だけを求めるつもりはありません。救済が皆様にとっても利益になる形を、作ればよいのです」
「……随分と、考えたものね」
オーレリアが静かに口を挟んだ。扇で口元を隠しながら、弟へ向ける目を細める。
「姉上に褒めていただけるとは、珍しいですね」
「褒めてはいないわ」
オーレリアは薄く笑った。
「あなたは、人を信じすぎる。でも、利益まで用意しているところを見ると……ただの理想主義者でもないようね」
「人は、正しいことだけでは動きませんから」
「そう。そこまで分かっているのなら、もう少し現実を見ることね」
オーレリアの目に、値踏みするような鋭さが宿った。
「国を動かすには、善意だけでは足りない。人を従わせるだけの力が必要なのよ」
「……従わせる、ですか」
エリオットは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「私は、そうは思いません」
「なら、どうするというの?」
「人が自分から動きたくなるようにすればいい」
「そんなに都合よく、人が動くと思っているの?」
「都合がいいとは、思っていません」
エリオットは静かに答えた。
「ただ、自分たちにも得るものがあると分かれば、力で命じなくても手を貸してくれる人はいると思います」
「……随分と甘いわね」
「かもしれません」
エリオットは苦笑するように、ほんの僅かに目を伏せた。
「でも、力で従わせるより、その方が長く続くと思います」
オーレリアは何も言わなかった。扇の向こうで、その唇がわずかに歪む。
「……なるほど。あなたは、本当に変わったわね」
それが褒め言葉なのか、皮肉なのか。エリオットには、判断がつかなかった。ただ、以前のように理想だけを口にしているつもりはなかった。
父の言葉を聞き、貴族たちの反応を目の当たりにして、それでもなお、自分なりのやり方で国を動かそうとしている。
「私は諦めません」
エリオットは、まっすぐにオーレリアを見返した。
「民を救うことも、そのために国を変えることも」
オーレリアはしばらく弟を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……本当に、頑固な子ね」
その声には呆れたような響きがあった。
けれど、その目には先ほどまでとは違うものが宿っていた。弟をただの理想主義者として見る目ではない。
一人の王位継承者として、測るような視線だった。
だが――。
「皆の懸念も、もっともだ」
一人の貴族が慎重な声で口を開いた。
「殿下のお考えは、確かに練られている。だが、我が領地の精霊光を他家の復興に割くことに変わりはない。今すぐ決断するのは、いささか性急ではないか」
「同感だ」
別の貴族も続いた。
「エリオット殿下の案自体は、悪くない。だが、我らにも我らの事情がある」
その言葉の裏にあるものを、エリオットは理解していた。政策そのものへの反対ではない。自分たちの権益を少しでも削られることへの抵抗だった。
(僕の案が間違っているから、通らないんじゃない)
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
(正しいことが、彼らにとって都合が悪いから通らないだけだ)
「民がこれ以上、死んでいくのを待てとおっしゃるのですか」
エリオットの声に、抑えきれない怒りが滲んだ。綺麗な瞳の奥に、切実な思いが灯る。
「今この瞬間も、凍える地で、飢える地で、人が死んでいるのです」
広間が静まり返った。
しかし、その沈黙は共感から生まれたものではなかった。誰もが気まずそうに視線を逸らし、ただ嵐が過ぎるのを待つように口を閉ざしている。結局、その場に集まった誰一人として、エリオットの提案を明確に支持する者はいなかった。
「父上」
エリオットは最後の望みを託すように、玉座へ視線を向けた。
「これは、王家として決断すべきことだと、私は考えます」
アーサーはしばらく何も答えなかった。慈愛に満ちた、いつもの微笑みを浮かべたまま、静かに息子を見つめている。
(父上なら、きっとわかってくださる)
エリオットの胸に、淡い期待が過った。
「エリオットの提案は、確かに傾聴に値する」
やがて、アーサーは静かに口を開いた。
「だが今、我々が勝手に動けば、他の貴族たちの反発を招き、かえって国全体が混乱する」
その言葉に、エリオットは息を呑んだ。理解できないから拒んでいるのではない。
アーサーは、エリオットの提案がどれほど現実的なものなのかも、民がどれほど追い詰められているのかも、すべて理解している。その上で――動かないことを選んでいる。
(父上は、わかっている)
エリオットの胸に、重いものが沈んだ。
(わかった上で、動かないだけだ)
それは、これまで聞いてきたどんな言葉よりも深く突き刺さった。優しい父親の顔を崩さぬまま、必要とあれば民の苦しみさえ政治の秤に乗せる。その冷酷さを、エリオットは初めて真正面から感じた。
「追って、検討する」
アーサーの一言で、議論は静かに打ち切られた。
エリオットは拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。正しさを訴えるだけでは、この場所は動かない。その現実が、これまで向き合ってきたどんな敵よりも重く、彼の胸を締めつけていた。
会議が終わり、貴族たちが三々五々と広間を後にしていく。その喧騒の中を、トールは誰にも気づかれることなく歩いていた。大理石の柱から柱へと、まるで影そのものになったかのように気配を消しながら進んでいく。
彼は、それぞれの貴族が廊下の隅や控えの間で漏らす本音を、一つずつ拾い集めていた。
「まったく、忌々しい」
エアハルト家の使者ゼフィロスが、供の者へ吐き捨てるように囁いている。
「タラッサの奴ら、絶対に裏で何か企んでいる。父上に報告して、こちらも迎撃の準備を進めるべきだ」
その少し先では、タラッサ家の令嬢マリーナが険しい顔で随行の者に告げていた。
「エアハルトがあれほど白を切るとは、思わなかったわ。父上に正式な抗議文を送らせましょう」
トールは、双方の声を満足げに聞き流した。
さらに控えの間へ視線を移す。そこでは、オーレリアがヘルマンと密やかに言葉を交わしていた。
「手応えは、悪くなかったわね」
「はい。陛下も殿下のご提案には、好意的なご様子でした」
さらに広間の隅では、ライハルト家から遣わされた使者と護衛の武官が、他家とは対照的に声を抑えて話し込んでいた。
「呪術師については、当主イグニス様が独自に動いておられる。他家のように、会議の場で騒ぎ立てるような真似はなさらない」
(ふうん。あそこだけは、随分と冷静なようだ)
トールの視線は、やがて大広間の片隅へ向かった。誰もいなくなった石柱の陰。そこに、一人静かに立ち尽くすエリオットの姿があった。
その顔には、これまで激しい戦いの後でさえ見せたことのないほど、深い疲労と孤独が滲んでいる。自分の正しさが届かず、父親の言葉の裏にあるものまで見えてしまった王子は、ただ一人、広すぎる大広間に取り残されていた。
トールは、物陰からその姿をじっと見つめていた。
「――ふふ」
薄い唇が、ゆっくりと歪む。
「いい顔だ、王子様」
その囁きは、誰の耳にも届くことなく、静かな王宮の闇へと消えていった。
(第26話「民の光、貴族の影」へ続く)




