第24話「氷の忠誠」
王宮の最深部。
重厚な黒檀の扉に隔てられた一室は、息が詰まるほど静まり返っていた。燭台の火はすべて落とされ、窓から差し込む冷ややかな月光だけが、豪奢な絨毯と壁面を飾る歴代貴族たちの肖像画を、青白く浮かび上がらせている。
その薄暗い部屋の中で、王女オーレリアは深い紫のベルベットが張られた長椅子に身を沈め、繊細な意匠の施された扇で口元を隠していた。冷徹な双眸が見下ろしているのは、眼前の石床に深々と跪く一人の男――ヘルマンだった。
「――随分と、惨めな有様ね」
その声には、傷ついた者を労わる気配など微塵もなかった。澄み切った冷たさの中に、隠そうともしない侮蔑が混じっている。
「当主だった父親は、王都に召喚される前に、あの呪術師の手で始末された。地下で行っていた研究も、すべて白日の下に晒された。アイスフェルトという名は、もう廃墟同然でしょう」
「仰る通りにございます」
ヘルマンは仕立てのいい上着の袖を握り締めるようにして、さらに深く頭を垂れた。冷たい石床に触れた額から、王宮の冷気がじわじわと身体へ染み込んでくる。それでも、表情に悔しさを出すことはなかった。
「面目次第もございません」
「まったく」
オーレリアは扇をゆっくりと揺らした。パタ、パタ、と規則正しく響く小さな音が、静寂の中では妙に大きく聞こえる。その音を聞くたび、ヘルマンの胸の奥にある誇りが、薄皮を一枚ずつ剥がされていくようだった。
「あれほどの領地と、あれほどの武力を持ちながら、たかが四人の小僧に根こそぎ崩されるとはね。お前の父も、最後の詰めが甘かったこと」
辛辣な言葉を浴びせられても、ヘルマンは顔を上げなかった。ただ、床に置いた指先だけが、わずかに強く石を押している。怒りも、屈辱も、今ここで見せる必要はない。アイスフェルト家が滅びた今、彼に残されたものは、自分の頭と、わずかに残った人脈だけなのだから。
「ですが、殿下」
「何?」
「私は、ただ無為に膝を折りに参ったわけでは、ございません」
そこで初めて、ヘルマンはゆっくりと顔を上げた。血の気の失せた青白い顔。その奥にある瞳だけは、冷たい光を失っていない。
「アイスフェルトに残された財と人脈。それを殿下のために、差し出す用意がございます」
オーレリアの眉が、ほんのわずかに動いた。長椅子の背に預けていた身体が、少しだけ前へ傾く。
「ほう。使い物になるとでも?」
「私は、父のような短絡的な野蛮さは持ち合わせておりません」
ヘルマンの声には、隠しようのない自負が滲んでいた。
「氷の一族の中でも、私は常に頭で物を考えてきました。殿下がこの国の頂点に立つための駒として、必ずお役に立てるはずです」
オーレリアは扇を閉じ、それを膝の上へ置いた。しばらく何も言わず、目の前にいる男を見つめる。その沈黙は、ヘルマンにとっては処刑台へ向かうまでの時間にも似ていた。
「正直に言えば」
やがてオーレリアが口を開く。
「あなたの一族は、もう地に落ちた。使い道のない、腐った看板でしかないわ」
「……」
「でも」
オーレリアの紅く塗られた唇に、薄い笑みが浮かんだ。
「その頭は、悪くないみたいね。父親と違って」
「光栄にございます」
「それで? 具体的に、何を用意できるというの?」
ヘルマンは恭しく姿勢を正すと、胸元から一通の羊皮紙を取り出した。没落した貴族が見せる焦りは、その手つきには微塵もない。長椅子の前に置かれた小卓へ羊皮紙を滑らせ、淡々と口を開く。
「まず、水のタラッサ家との、密かな繋がりです」
「タラッサ?」
「当主オケアノスの下の娘――マリーナ様には、以前よりいくつか、貸しがございます。アイスフェルトが密かに融通していた精緻な魔導具の技術。それを今後、殿下の陣営との交渉材料として使うことができます」
「なるほど」
「それと、王都の中枢にも、いくつか目立たない伝手が」
ヘルマンは指を折りながら続けていく。東部のフェンウィック子爵家。宮廷内の下級官吏を中心とした新秩序派。そして、七大貴族の勢力争いに不満を抱く者たち。アイスフェルトという看板こそ失ったものの、これまで築き上げてきた繋がりまですべて消えたわけではない。
「東部のフェンウィック子爵家。あそこは表向き中立を装っておりますが、内実は、七大貴族のいずれかが力を弱めるたび、その隙間を狙って伸し上がろうとしている一派です。抱き込む価値はあるかと」
「それから?」
「宮廷内の下級官吏を中心とした、新秩序派と呼ばれる小さな集まりもございます」
「新秩序派?」
「七大貴族という、旧態依然とした仕組みそのものに疑問を持つ者たちです。数は少ないですが、殿下が彼らの求める変化を利用することは、できるはずです」
オーレリアは、その説明を黙って聞いていた。指先だけが、長椅子の肘掛けを一定の間隔で叩いている。
「随分と、詳しいのね」
「殿下にお仕えするからには、この程度の下調べは当然のことかと」
その返答に、オーレリアは小さく喉を鳴らした。
「気に入ったわ」
彼女はゆっくりと長椅子から立ち上がった。裾の長いドレスが床を滑り、夜景の広がる大開口の窓へと歩み寄る。ガラスの向こうでは、遥か下に広がる王都の灯火が、宝石の屑を撒き散らしたように瞬いていた。
「殿下は、七大貴族をお嫌いなのですか?」
背後からヘルマンが問いかける。その声音には、探るような響きがあった。オーレリアは振り返らない。ただ、窓に映った自分の姿を眺めながら、ふふっと笑った。
「いいえ。嫌っているのではないわ。必要だと思っているのよ。王家の下にね」
「必要、でございますか」
「弟は、馬鹿正直よ」
その声には、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。
「誰も見捨てないなんて、綺麗事を並べて。だけど、それじゃあ、この国は変えられない」
「......と、申しますと」
「精霊の力ってものはね、貴族が力を持ってこそ、初めて正しく振るえるものなの」
オーレリアは窓ガラスに映る自分の姿を見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「弱い貴族や貧しい民に気まぐれに力を分け与えたところで、それはただの無駄な浪費よ。淘汰されるべき弱者を甘やかすだけ。強大で、強く、賢い貴族が力を独占し、それを上から正しく管理し、配分してこそ、この国の民は初めて真に救われる。強大な貴族だからこそ、より多くの民を効率よく救えるのよ」
「それこそが、効率的に民を救える正義という名の統治、ということですか」
「そう」
オーレリアは振り返り、満足そうに頷いた。その瞳には、自分こそが最も気高く、正しく、理知的であるという揺るぎない確信があった。
「私は、弟のように甘い理想を語るつもりはない。ただ結果として、民が飢えずに済めばいい。そのためには、私自身がこの国のすべての力を一手に握る必要がある。私の絶対的な権力こそが、この国を正しく救う唯一の道なの」
迷いはなかった。オーレリアにとって、それは権力を欲するための方便ではない。本当に、それが民を救う唯一の方法なのだと信じている。だからこそ、その思想は厄介だった。
「弟は、それがわかっていない」
オーレリアは、どこか哀れむような目つきで続けた。
「精霊に愛された、あの圧倒的な力を持ちながら、それを貴族の権力構造そのものを壊すために使おうとしている。あれは正義じゃない。ただの愚かな破壊願望よ」
「なるほど」
ヘルマンは恭しく頭を下げた。
(随分と、都合のいい理屈を並べるものだ)
胸の内でそう吐き捨てながらも、ヘルマンは表情を崩さない。オーレリアの語る「救済」も「絶対的な正義」も、肥大した自尊心と権力欲を、美しい言葉で包んだものに過ぎない。民を救うと言いながら、その実、己に従う駒としてしか見ていないのだ。
(だが――)
ヘルマンの瞳に、歪んだ光が宿る。
(この方なら、本当に王座を奪い取れるかもしれない。その気高さも、容赦のなさも、あの傲慢さも……王として国を支配するには、相応しい毒だ)
(忠誠など、どうでもいい。王女殿下が王座に就けば、私もその陰で息を吹き返し、やがてアイスフェルトを再興できる。それだけの話だ)
「殿下」
ヘルマンは床に膝をつき直し、深々と頭を垂れた。
「この身命、殿下のために捧げましょう」
「よろしい」
オーレリアは完璧な美貌に、優越感に満ちた笑みを浮かべた。
「せいぜい私のために、その頭をよく働かせなさい」
同じ頃、王宮の広大な中庭は、濃密な夜の闇と立ち込める霧に包まれていた。白亜の回廊、その柱の陰。月光すら届かない薄暗がりでは、別の暗躍が静かに進められていた。
「さて、と」
トールは高級なシルクの衣装に身を包んだある伯爵の袖を軽やかに引き、その耳元へ滑らかに顔を寄せた。香水の香りに紛れるほどの小さな声に、密告という名の毒を忍ばせる。
「タラッサ家の間者が、貴殿の領地の交易路をこっそり探っているという噂を、耳にしましてね……。なんでも、貴家が独占している水運の利権を、次の会議で王家に返還させ、自家に組み込もうと画策しているのだとか」
「な……なんだと!?」
伯爵の顔が、恐怖と怒りでみるみる赤く染まっていく。
「あのタラッサの狸め……やはり我らの領地を狙っていたか……!」
「おっと、私の口からはこれ以上は。ただ、お気をつけなさってくださいね」
トールは薄く微笑み、狐のように暗がりへと消えていった。
続いて別の回廊の物陰。エアハルト家から遣わされた使者の前では、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこには、格式高いタラッサ家の紋章が精巧に偽造されていた。
「これは、タラッサ家が王家に提出した、貴殿らを糾弾する密告文です」
「……何!? 見せてみろ!」
使者が奪い取るように受け取った書状には、『エアハルト家が密かに軍備を増強し、王都を侵略する構えを見せている』という、でっち上げの文面が緻密に記されていた。
「風のエアハルト家が、密かに王都周辺の空路を脅かしていると……タラッサ家はそう言いたいのだな!?」
「お怒りはごもっともです。ですが、どうか穏便に……。タラッサ家はすでに王家の高官数名を抱き込んでいるという話ですから」
トールは困ったように肩をすくめてみせた。だが、その瞳の奥は氷のように冷ややかだった。
トールは、ただ一つの大きな嘘を流しているわけではない。それぞれの人間が抱く「欲」と「恐怖」を見抜き、その人間に合わせた餌を投げ込んでいる。タラッサ家には「エアハルトが水路の利権を狙っている」と思わせ、エアハルト家には「タラッサが王家に密告した」と信じ込ませる。中立を気取る中小貴族たちには「両家が武力衝突すれば商路が途絶える」と囁き、野心的な七大貴族の他家には「この騒ぎに乗じれば双方の領土を掠め取れる」と唆す。
彼が自ら争いを起こす必要などない。人間の醜い欲望に、ほんの少し火をつけてやればいい。あとは貴族たちが勝手に疑い、勝手に怒り、勝手に刃を向け合う。
水と風。かつて強固な絆を誇った二つの大貴族の間に、目には見えない、それでも容易には修復できない亀裂が、静かに、しかし確実に広がっていた。
その暗躍の合間、トールはふと、静まり返った美しい庭園の一角へ視線を向けた。そこには、透き通るような白銀の翼を持つ精霊獣エルシードが静かに身を横たえている。その柔らかな毛並みに優しく手を添えるようにして、第一王子エリオットが婚約者ロザリアと穏やかに言葉を交わしていた。
「ロザリア、今日の風は少し冷えるね。寒くはないかい?」
「ふふ、大丈夫ですよ、エリオット様。あなたが隣にいてくださいますもの」
二人の間には、陰惨な政治の駆け引きなど微塵も感じさせない、あまりにも眩しく、屈託のない温かな空気があった。エリオットの瞳は清らかで、ロザリアを見つめる眼差しには、疑うことを知らない純粋な愛が溢れている。
トールは、その光景を大樹の陰から静かに眺めていた。
「――ふうん」
薄い唇に、どこか歪んだ笑みが浮かぶ。
「エアハルトが、どうなろうと……その愛は、変わらないのかな」
呟きは夜風に紛れ、誰の耳にも届かなかった。
ふとエリオットが何かの気配を感じたように、エルシードの頭を撫でていた手を止める。そして、トールが潜む大樹の方角へ視線を向けた。
「どうされたのですか、エリオット様?」
「ううん……なんでもないよ。誰かに見られていたような気がしたんだけれど……気のせいかな」
エリオットが振り返った時には、木の陰にはもう誰の姿もなかった。
「父上に、呼ばれているんだ」
エリオットはロザリアの手を優しく離しながら、静かに告げた。
「行ってらっしゃいませ。エリオット様なら、きっと素晴らしいお話ができますわ」
ロザリアのどこまでも真っ直ぐな笑顔に見送られ、エリオットは王宮の果てしなく続く長い大理石の廊下を一人歩いていった。傍らには、忠臣レイフが影のように付き従っている。
その道すがら、廊下の隅で小さくなって清掃をしていた下働きの少女とすれ違った。少女は王子の姿に気づくと、慌ててバケツを置き、深々と頭を下げて身体を縮こまらせた。
「いつも綺麗にしてくれて、ありがとう」
エリオットはふっと足を止め、少女の目線に合わせて穏やかに声をかけた。少女は息を呑み、奇跡でも目撃したかのように目を丸くして顔を上げる。
「あ……ありがたき幸せにございます、王子殿下……!」
さらに少し歩いた先で、両手いっぱいに分厚い帳簿と書類を抱えた老侍従が、足をもつれさせた。次の瞬間、抱えていた書類の束が豪快に床へ散らばる。
「あああっ! これは大変なことを……!」
老侍従が青ざめ、震える手で膝をついて書類を拾おうとする。エリオットは「大丈夫ですか」とすぐさま駆け寄り、自ら屈んで書類へ手を伸ばした。
だが、それより早くレイフが素早く間へ入り、静かにエリオットの腕を制した。
「私が」
レイフは散らばった書類を拾い集めると、怯える老侍従へ丁寧に手渡した。
「殿下の御前で、無理をなさる必要はありません。立ちなさい」
「か、かたじけのうございます、レイフ様、殿下……!」
老侍従が何度も頭を下げ、逃げるように去っていく。エリオットは差し伸べようとして空を切った自分の手を見つめ、寂しげに息を吐いた。
「レイフ。僕が、やっても、よかったのに」
「殿下には、殿下のなさるべきことがございます」
レイフは立ち上がり、静かに、しかし決して譲らない硬い声で答えた。
「このような些事にまで、殿下御自らの手を煩わせる必要はございません。王子たる者、一歩引いた高潔さを示さねば、下に立つ者が示しにつきません」
エリオットは何も言い返さなかった。民や使用人と同じ目線で接したいという純粋な優しさと、王宮という巨大な格差の仕組みを守ろうとするレイフの理屈。その間に横たわる溝が、少しだけ寂しく感じられた。
やがて二人は、重厚な装飾が施された国王の私室へ続く扉の前に辿り着いた。
「失礼、いたします」
エリオットは静かに扉を開けた。
部屋の奥、豪華な執務机の向こうには、いつものように穏やかで温かな慈愛に満ちた微笑みを浮かべた父王アーサーの姿があった。
その温和な笑顔を見るたび、エリオットの背筋には、なぜか言いようのない冷たいものが走る。どれほど優しく接してくれても、その瞳の奥にある底知れない暗闇だけは、決して覗き込むことができなかった。
「父上」
エリオットは優美な所作で片膝をつき、深く礼を尽くした。
「よく来た、エリオット」
アーサーの声は、まるで包み込むように穏やかだった。
「立て。楽にするといい」
エリオットは静かに立ち上がった。
「アイスフェルト家の件、報告は聞いているな」
「はい」
「当主フロストは死亡。地下で行われていた、あの忌まわしい人体実験の詳細も、洗いざらい明らかになった。跡取りのヘルマンについても、現在、責任の追及を進めているところだ」
アーサーは慈父の笑みを崩さぬまま、手元の書類を机の上へ置いた。
「――呪術師、か」
その一言に、エリオットの表情が僅かに強張った。
「またしてもあの化け物が、七大貴族の一角を崩したというわけだ」
アーサーは穏やかな、しかし一切の感情の読めない透き通った目で、静かに息子を見据えた。
「エリオット。お前は、どう思う。呪術師は、やはり滅ぶべき存在だと、思わないか」
その問いには、息子の内面を試すような静かな重みが込められていた。
「……呪術師の行いが、正しいとは申しません」
エリオットは慎重に言葉を選びながら答える。
「ですが、あの者たちが、そこまでの憎しみを抱くに至った、その原因を作ったのも、また私たち貴族です」
「なるほど」
アーサーは満足そうに微笑んだ。それ以上、その話題を深追いすることはなかった。
「近々、七大貴族を王宮に招集し、会議を開く。お前も参加するように」
「何についての、会議でしょうか」
「今後の精霊光の配給、及び、各領地の統制についてだ」
「でしたら、父上」
エリオットは真剣な眼差しになり、静かに一歩前へ出た。
「アイスフェルト領の民は、今、当主を失い、地下の実験の実態も暴かれ、深い混乱の中にあります。路頭に迷う民を救うため、王家が直接介入し、物資と精霊光を緊急支援する新たな救済策を、この機に提案させていただきたく思います」
その提案には、単なる同情ではなく、彼が真摯に学んできた統治者としての具体的な考えが込められていた。
アーサーは息子の熱い言葉を、慈愛に満ちた表情のまま静かに聞いている。
「お前は、本当に心優しい子だな。民を想うその心、誇らしく思うよ」
その言葉に、エリオットの表情がぱっと明るくなった。だが、続く父の一言に、その喜びは瞬く間に消えた。
「ただし、急ぐ必要はない」
エリオットは思わず息を呑んだ。
「父上……? 急ぐ必要がない、とおっしゃるのですか? 今この瞬間も、凍える地で民が苦しんでいるのです」
「もちろんだ。だからこそ、順序が大切なのだよ」
アーサーは変わらぬ温かな笑みを浮かべたまま、諭すように続ける。
「七大貴族との話し合いが済んでからでも遅くはないだろう。今、我々が勝手に動けば、他の貴族たちの反発を招き、かえって国全体が混乱する。まずは貴族たちの面目を保ち、会議で調整を行ってからだ」
一見すれば、国全体を俯瞰した、極めてまっとうな意見だった。だが、その言葉の裏には、「今、傷ついている民の命」よりも「政治的な駆け引きと貴族の面目」を優先する冷たさがあった。
「ですが、それでは……!」
「機会があれば、な」
アーサーは、それ以上語ることを拒むように言葉を打ち切った。表情は最後まで穏やかな父親のままだった。それでもエリオットには、その笑顔の向こうにある拒絶だけは、はっきりと感じ取れた。
「承知、いたしました」
これ以上食い下がることは許されない。そう理解したエリオットは、深く頭を下げた。彼は背を向ける直前、静かに拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。
「では、下がってよい」
「失礼、いたします」
エリオットは静かに部屋を後にした。重厚な黒檀の扉が、音もなく、重々しく閉まる。
その向こう側で、アーサーがどのような表情を浮かべているのか。エリオットには、もう確かめる術もなかった。ただ閉ざされた扉の向こうには、最後まで崩れることのない、完璧な国王の笑みがあるような気がした。
(第25話「軋む同盟」へ続く)




