第22話-1「白銀の哭声」
「約束……守れなくて、ごめんな……」
シークの声は、もう誰かに聞かせるためのものではなかった。腕の中で横たわるミトへ向けた、届くはずのない呟きだった。シークは、しばらく動かなかった。ただ、ミトの小さな身体を胸に抱きしめたまま、俯いていた。
――冷たい。
ほんの僅か前まで、その肌には確かなぬくもりがあった。けれど、指先に力を込め、己の体温を分け与えようとしても、ミトの身体は少しずつ冷えていく。
「……なあ」
シークが、ぽつりと呟いた。指先が震えている。
「起きろよ、ミト」
静寂が広がる。返事はない。
「……俺、兄さんになったんだろ?」
返事はない。ただ、地下牢の冷たい空気だけが二人の間を通り抜けていく。
「だったら……一回くらい、呼べよ」
押し殺していた声が、次第に震え始めた。
「もう一回……兄さんって……」
そこで、言葉が途切れた。
続きは声にならなかった。シークは俯き、腕に力を込めた。小さな身体を抱きしめるほど、その冷たさが腕から伝わってくる。
どれだけ抱きしめても、ミトの身体に温もりが戻ることはない。そのことを、頭ではわかっていた。それでも、心だけが、その現実を受け入れようとしなかった。
やがて――
シークの胸の奥から、不吉な重低音が響いた。
ドクン。
「……?」
カースが異変に気づき、顔を上げる。
もう一度。
ドクン、と。
今度は、石造りの床まで震えたように感じるほど、はっきりと響いた。人間の心臓の鼓動とは違う。もっと深いところから聞こえてくる音だった。幼い頃、シークの身体の奥へ無理やり埋め込まれた「何か」が、長い眠りから目を覚まそうとしていた。
シークの指先が、ぴくりと痙攣する。直後、その身体から濃い白銀の冷気が滲み出し、足元からゆっくりと渦を巻き始めた。
「シーク……?」
返事はない。冷気はみるみるうちに濃くなり、周囲の景色まで霞ませていく。床に横たわるミトの髪が、風もない地下牢の中で揺れ始めた。
カースの身体が危険を感じ取り、咄嗟に一歩後ろへ退がった。
「……まずい」
シークの周囲だけ、空気の流れが変わっている。精霊力が漏れ出しているのではない。シークの身体そのものが、抑えきれない冷気を吐き出している。激痛と激情に耐えきれなくなった身体が、内側から崩れ始めているようだった。
シークが、ぎちぎちと首の骨を鳴らしながら、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は涙で濡れ、赤くなっていた。けれど――そこには、もう目の前の光景を捉える意識が残っていなかった。虚ろな瞳の奥に、怒りと狂気だけが滲んでいる。
「ア……」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「アア……」
胸を掻きむしり、激痛に耐えるように身体を折り曲げる。
「――ぐ、あ……っ!!」
次の瞬間。シークの体内から、凄まじい冷気と暴風が一気に噴き出した。密閉された地下牢の空気が押し出され、身体ごと持っていかれそうな風圧が三人を襲う。
ゴオオオオッ!!
石壁に張りついていた氷霜が一斉に剥がれ、床に散らばっていた結晶の欠片が舞い上がった。細かな氷片が頬を打ち、カースは咄嗟に腕で顔を庇った。
「シーク……!?」
カースは風圧に耐えながら叫んだ。だが、シークの暴走は止まらない。胸の奥深くに埋め込まれた、欠陥だらけの人造精霊回路。それが親しい者の死をきっかけに、大きく乱れ始めていた。
人造の精霊使いを作るために植え付けられた力は、人間の身体にはあまりにも大きい。それが今まで抑え込まれていた分まで一気に溢れ出し、シークの意思を置き去りにして暴れ始めていた。
「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
獣の咆哮にも似た絶叫。その声に呼応するように、シークを中心として青白い光を孕んだ暴風雪が渦を巻く。
バチッ!
青白い稲妻が石壁を走り、幾重もの風刃が宙で弾けた。
ガガガガッ!!
鋭い風の刃が全方位へ放たれ、フロストの展開した「氷結結界」へ次々と叩きつけられる。びくともしなかった氷壁が、甲高い音を立てて揺れた。これまで傷一つつかなかった結界の表面に、一本の亀裂が走った。
フロストの視線が、その亀裂へ向けられた。
「……なっ」
さらに、二本。三本。蜘蛛の巣のような罅が、氷壁の表面へ広がっていく。
「人造の力にすぎん小僧が……これほどの精霊力を……!?」
フロストの冷静だった表情から、少しずつ余裕が消えていった。
「このままでは――」
だが、その言葉を遮るように、さらに強烈な風圧が叩きつけられる。
ドゴォンッ!!
結界全体が大きく軋んだ。同時に、シークの肉体もまた、吐き出し続ける力に耐えられなくなっていた。両腕の皮膚が裂け、鮮血が飛び散る。皮膚の下で青白い精霊回路が明滅し、そのたびにシークの身体が大きく痙攣した。
「……シーク!」
カースは叫んだ。
「もうやめて!」
だが、シークの意識には届かない。シークはミトを抱いていた腕をゆっくりと解くと、血を流しながら、ふらつく足で立ち上がった。
「……フロスト……」
その声から、かつての静かな響きは消えていた。低く、掠れた声が、冷気の中に沈んでいく。
「殺す……」
カースは息を呑んだ。このままでは、結界を破る前にシークの肉体が壊れる。精霊力が暴走しているだけではない。シークの絶望と怒りそのものが、力をさらに膨らませている。
怒りが強くなるほど、破壊の力も増していく。悲しみが深くなるほど、身体から溢れる冷気も激しくなる。このままでは、シークの精神が耐えられなくなるまで暴走は続くだろう。
カースは拳を血が出るほど固く握りしめた。ならば、自分がその力を受け止めるしかない。シークの身体が壊れる前に、何としてでも止めなければならなかった。
「――シーク」
カースは右腕の呪鎖へと手を伸ばした。
「手を、貸すよ」
ジャラリ、と重厚な音を立てて漆黒の鎖が解かれ、暴風の中にいるシークの身体へ絡みついた。
「な、に……を……っ」
「シークの力を、僕の呪術で支える」
鎖を伝い、シークの体内で荒れ狂う精霊力が一気にカースの右腕へ流れ込んでくる。
――あまりにも、膨大。
触れた瞬間、腕の感覚が失われた。皮膚の表面だけでなく、骨の中まで凍りついていくような冷気が駆け抜け、脳の奥まで痛みが走る。
「……これほどの力を、ずっと……一人で抱えてたの?」
カースは歯を食いしばった。そのまま、自分の二の腕に刻まれた傷口へ荒々しく爪を立てる。開いた傷から血が流れ、腕を伝って滴り落ちた。
「だったら……今度は、僕にも背負わせて」
黒い血を触媒に、カースの内側から呪力が溢れ出す。呪力はシークの白銀の冷気へ絡みつき、荒れ狂う精霊力を押さえ込むように動きを変えていった。
黒と白。相反する二つの力が激しくぶつかり、互いを削りながら大きな渦を作る。
「――ぐ、あああっ……!」
カースの全身が激痛に跳ねた。交わるはずのない二つの力が体内でぶつかり合い、その反動が身体を内側から引き裂いていく。それでも、カースは鎖を握る手を緩めなかった。
「シーク!」
カースは狂風の中へ叫んだ。
「シークの悲しみは正しい……!」
荒れ狂っていた嵐が、一瞬だけ揺らいだ。シークの虚ろだった瞳に、かすかな光が戻る。
「ミトを失って、悲しくないわけがない!」
カースの声が、冷気の向こうへ届く。
「怒っていい! 泣いていい! 全部、吐き出していい!」
シークの白くなった唇が、微かに震えた。
「……ミト……」
「うん」
カースは強く頷いた。
「忘れなくていい」
その言葉に、シークの瞳が僅かに見開かれる。
「でも――僕らはまだ生きている!」
カースは白煙を噴き上げる右腕を固く握り締めた。
「ここに立っている!」
泥と血に塗れたミトの幼い顔が脳裏をよぎる。最期に見せた涙の瞳。カースへ向かって必死に伸ばされた、あの小さく冷たかった手。
「ミトの……分まで」
カースは血走った眼でフロストを睨みつけた。
「僕らが、こいつらに引導を渡すんだ」
その瞬間だった。
シークの体内で、大きな変化が起きた。荒れ狂っていた冷気が、突然、嘘のように静まった。
そして――次の瞬間、渦巻く白銀の冷気の中心へ、カースの黒い呪力が深く沈み込んでいった。
黒と白。二つの力が絡み合い、暴走していた力が一つの方向へまとまっていく。それは、禍々しさを持ちながらも、目を奪われるほど美しい――「漆黒の冷気」だった。
シークの右腕へ。その指先へ。そして、フロストへ向けられた殺意の刃へ。二つの力が凄まじい密度で集まっていく。
「――フロスト」
シークが低く呟いた。涙の跡が残る頬を、冷気を含んだ風が撫でていく。それでも、その声だけは、氷よりも冷たく響いた。
「お前だけは……絶対に、許さない」
シークが地を蹴った。漆黒の冷気を纏った一閃が、歪んだ結界の「亀裂」の一点へと、まっすぐ叩き込まれた。
ドゴォンッ!!
結晶が砕ける甲高い音が、地下施設全体を揺らした。これまでで最も深い亀裂が、結界の表面を縦横に走り抜ける。
しかし――
破砕しない。氷の概念そのもので編まれた障壁は、城の巨大動力炉から供給される魔力を吸い上げ、削られた箇所を修復し始めていた。
「――足りない……のか……」
カースの顔に、焦燥が滲んだ。シークもまた、限界を迎えた足で膝をつきかけた。これほどの呪力と精霊力を合わせても、なお届かない。城の動力炉を止めない限り、この結界は何度でも修復される。
その時だった。
――ドズゥンッ!!
遥か上層から、地面の底まで揺さぶるような爆発音が響いた。カースがハッと顔を上げる。
「……何?」
間髪入れず、重ねて――
ドゴォンッ!!
地下施設全体が、崩れ落ちるかと思うほど激しく揺れた。天井から無数の氷の欠片が雨のように降り注ぐ。そして――結界の中を絶えず巡っていた魔力が、ブツリと途切れた。
まるで、巨獣の心臓を止めたかのように。
修復しかけていた亀裂が、そこで止まった。光を失った結界の罅が、一気に広がっていく。
ガラガラガラッ!!
圧倒的な強度を誇っていた氷の障壁が、硝子細工のように崩れ落ちていく。
白く舞い上がった氷煙の向こう側から、足音を響かせて一人の男が歩み寄ってきた。返り血と黒煙の煤に塗れた巨体。その肩には、血の匂いを纏った巨大な大剣が担がれている。
「――待たせたな。遅くなって悪かったよ、坊主ども」
「ウォルター……!」
カースが歓喜と驚きに目を見開く。ウォルターは煤に汚れた顔に、不敵な笑みを浮かべていた。
「悪いな。地下の警備が思いのほか固くてよ。少し手間取った」
そう言って、肩に担いでいた大剣をドスンと床へ下ろす。
「だが――」
ウォルターが親指で背後を指し示した。そこには、内部から粉砕され、二度と輝くことのない巨大な氷結晶炉の残骸が転がっていた。
「城の動力を支えてた巨大な氷結晶炉は、影も形もねえくらいに粉砕してやったぜ」
その言葉を聞いた瞬間、カースは全てを理解した。あの難攻不落だった結界が崩れたのは、動力源を失ったからだ。
「この城の氷結術式は、もう金輪際機能しねえ」
カースは肩を揺らして荒い息を吐きながら、足元へ飛び散った氷の残骸を見つめた。
「――間に合った……」
その一言とともに、張り詰めていた緊張がようやく緩んだ。
だが、倒れている猶予など一秒もありはしない。カースは右腕の呪鎖をギチリと握り直した。シークもまた、静かに、しかし力強く顔を上げる。涙の跡は消えていない。だが、その瞳にあった虚ろな光は、もう消えていた。
二人は武器を握り直し、明確な殺意を胸に一歩前へ踏み出す。
崩壊した結界の煙の向こう側。そこには、生涯で初めて隠しきれない動揺を浮かべたフロストが立っていた。その背後には、ミトの幼い命が弄ばれていた実験区画の冷たい部屋が見える。そして、その足元には――砕け散った氷の欠片が、無数に転がっていた。
カースは、その残骸を一瞥する。そして、全ての元凶であるフロストへ、静かな殺意を込めて視線を戻した。
もう、退く理由はどこにもない。ミトの命を奪い、尊厳を踏みにじったこの男に――自分たちの手で、決着をつける。
(第20話-2「氷の裁定」へ続く)




