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カース・オブ・エレニア ~蘇りし呪術師の成り上がり復讐劇~  作者: さかさき まる
第四章 凍てついた誓い

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第21話-3「凍てつく罠」


 ガルトから受け取った見取り図を頼りに、カースとシークは、氷の城の裏手――ウォルターが姿を消したという搬入路へと、静かに近づいていた。

 夜も更け、貴族街の灯りも、ところどころ消え始めている。

 白い雪原の中に、一定の間隔で篝火が焚かれている。風に揺れる炎が、雪壁と石造りの城壁を赤く照らし、その光の外側には濃い闇が広がっていた。


 二人はその明かりを避けるように、建物の陰から陰へと移動していく。


「二人組の巡回が来る」


 シークが、ほとんど唇を動かさずに囁いた。その直後、石畳を踏む重い足音が、闇の向こうから聞こえてきた。

 カースは無言で頷くと、すぐ近くに積まれていた荷積み用の木箱へ身を滑り込ませる。シークもその隣に身を屈めた。


 足音が近づいてくる。


 一歩。


 また一歩。


 兵士たちの話し声まで聞き取れる距離になって、二人は息を止めた。カースの脳裏に、かつての光景がよぎる。

 グルントハルトの城でも、幾度となくこうして巡回の隙を縫ってきた。あの時も、失敗すれば待っていたのは死だった。だが、あの頃とは違う。今は、自分たちを待っている仲間がいる。そして、この城の地下には、助けを待っている子供たちがいる。

 やがて足音が遠ざかっていった。カースは、そこでようやく肺に溜め込んでいた息を吐き出した。


「行こう」


 二人は搬入路の扉へと忍び寄った。扉には鍵が掛かっていなかった。荷馬車の出入りがあるためか、夜間でも完全には閉ざされていないらしい。


 カースが扉に手を掛け、ほんの僅かに押し開ける。軋む音がしないよう、シークが蝶番へ指を添えた。冷たい金属が、指先に食い込む。扉の隙間から中を覗く。


 その先には、薄暗い倉庫が広がっていた。昼間に運び込まれたのだろう。大小様々な木箱が壁際まで積み上げられ、鼻を刺すような冷気の中に、乾いた木材と獣脂のような匂いが混じっている。


 二人は箱の隙間を縫うようにして奥へ進んだ。やがて、その先に階段が現れた。石造りの階段が、地下深くへ向かって伸びている。


「ここからは、灯りもない」


 空気が変わっていった。地上よりも明らかに冷たい。それなのに、どこか湿っている。石壁の隙間には薄い霜が張り付き、吐息が白くなるほどの冷気が、衣服の隙間から身体へ入り込んでくる。


 しばらく進んだところで、通路の奥から話し声が聞こえた。二人は咄嗟に足を止め、壁際の暗がりへ身を寄せた。


「……今夜の分は、もう運んだのか?」


「第三区画には入れた。残りは明日の朝だ」


「そうか」


 兵士らしき声が、近づいてくる。カースはシークへ目を向けた。シークも小さく頷く。やがて二人のすぐ前を、兵士たちが通り過ぎていった。


 気配が遠ざかる。


 再び、静寂。


 ――待つ。


 ――やり過ごす。


 ――進む。


 その繰り返しだった。時間にすれば、それほど長くはなかったはずだ。


 だが、張り詰めた神経は、僅かな物音さえ拾い上げる。遠くで扉が閉まる音がするたび、誰かがこちらへ向かっているように思えた。がて、通路の壁に奇妙な標識が現れ始めた。


「第三検体保管区画」


「実験記録室」


「第七検体棟」


 無機質な文字が、一定の間隔で並んでいる。それを見つめるたび、カースの足が僅かに重くなった。ここは単なる地下倉庫ではない。何かを――人間を使って、何かを行うための場所だ。


 その確信だけが、冷たい地下の空気よりも強く、胸の奥へ沈んでいった。


 その時だった。


「待って、ください」


 背後から、息を切らした声が、追いついてきた。


「ミト!?」


 カースが、驚いたように振り返った。


「なぜ、ここに......。宿で、待ってろと言ったよね」

「待てませんでした」


 ミトは肩で息をしながら、それでもカースの前まで駆け寄った。


「ウォルターさんが戻ってこない。それに、シークさんとカースさんまで地下に行くって聞いて……僕、居ても立ってもいられなくて」


「駄目だ。危険すぎる」


 カースはすぐに首を振った。

 

「ここから先は、ミトが知ってる場所より、ずっと奥だ。何かあったら――」

「わかってます」


 ミトは、その言葉を、遮るように言った。小さな手が、ぎゅっと握り締められる。


「でも、僕にできることが、まだあるかもしれない」


 声は震えていた。それでも、帰ろうとはしなかった。


「それに……」


 ミトは一度、俯いた。


「一人で、宿で待ってるのが、怖かったんです」


 カースが、黙ってミトを見る。


「みんなが危険な場所に行ってるのに、僕だけが何もせずに待ってるのが……嫌だった」


 しばらく、誰も口を開かなかった。やがて、シークが静かに言った。


「カース」


「シーク?」


「連れて行こう」


「だけどさ」


「あいつの気持ちは、俺には、わかる」


 シークは、感情の薄い声のまま、それでも、確かな共感を滲ませて言った。


「一人で待たされる方が、辛いときもあるだろ」


 カースは、しばらくの間、逡巡していた。だが、やがて、深く息を吐いた。


「わかった」


 ミトが顔を上げる。


「だけど、絶対に僕らのそばを離れないで。何かあったら、僕たちの指示に従うんだよ」


「はい!」


 ミトの顔に、僅かに安堵の色が浮かんだ。



 三人は改めて、地下への通路を慎重に進んでいった。通路の壁には、しばらく進むごとに施設の使途を示す簡素な標識が掛けられていた。「第三検体保管区画」「実験記録室」――そうした、無機質な文字の連なりが、この場所の正体を否応なく物語っていた。


「......ここです」


 目の前に、ひときわ重厚な鉄扉があった。扉の周囲には、他の場所とは明らかに違う術式が刻まれている。幾重にも重なった細い紋様が、扉から壁へと伸び、淡い青白い光を放っていた。


「この先に、地下の実験区画があります」


 ミトの声が、僅かに掠れた。


「僕が……閉じ込められていた場所も、その先です」


 カースは何も言わず、扉へ手を伸ばした。取っ手は、氷のように冷たかった。


 その瞬間――。


「――遅かったな」


 闇の奥から、声が響いた。三人の動きが止まる。その声は一切の感情を感じさせない、怒気も、殺気もない、ただ、温度を失ったような声だった。


 次の瞬間。


 周囲の空気が、凍った。壁が白く染まる。床を走った霜が、瞬く間に三人の足元まで伸びてくる。天井からも細かな氷の結晶が生まれ、ぱき、ぱき、と乾いた音を立てながら広がっていった。


「――ッ」


 カースとシークが、咄嗟に身構える。だが、それよりも早く、周囲の空気そのものが、可視化できるほどの速さで凍りついていった。壁も、床も、天井も、瞬く間に白い結晶の膜を纏っていく。

 カースは咄嗟に呪鎖を構えようとした。だが、口を開くよりも早く、視界そのものが白く閉ざされていく。


「氷結結界(アイス・プリズン)」


 その声と共に、透明な氷の壁が三人を瞬く間に閉じ込めた。分厚い氷は、外の景色を歪めて映し出し、まるで、水底に沈められたかのような息苦しい感覚が、三人を包み込んだ。


「――くそっ!」


 シークが拳を叩きつける。


 ガンッ!


 鈍い音が響いた。しかし、氷には傷一つない。


「動けない……!」


カースも周囲を見回した。


 氷はただ厚いだけではない。力任せに壊せる代物ではなかった。


「ようこそ、我が城へ」


 闇の奥から、足音一つ立てずに、ゆっくりと姿を現したのは、一人の男だった。

 背は高く、しかし肉付きは薄い。氷の彫像のように整いすぎた輪郭。羽織った純白の毛皮の外套は、汚れ一つなく、降り積もったばかりの新雪のように清潔だった。指先には、宝石よりも精緻に磨かれた銀の指輪が一つ。歩みを進めるたび、足元の石畳がぴしり、ぴしりと薄い霜を纏っていく――彼がそこに佇んでいるというだけで、世界の温度が一段階、静かに下がっていくかのようだった。

 その双眸は、凍りついた湖面のような、感情の色を映さない、恐ろしいほど澄んだ瞳だった。傍らには、よく似た顔立ちの、若い男の姿もある。


 鉄扉の脇に控えていた見張りの兵が、深々と、その男に頭を垂れた。


「閣下」


 その一言だけで、十分だった。この城の主。氷を統べる、アイスフェルト家当主。


「フロスト......」


 カースが、低く、その名を呟いた。ミトから聞かされていた、忌まわしい名だった。


「随分と、無粋な訪問者だ」


 フロストは、氷の牢の前に立ち止まると、手袋を外した右手で、こつん、と軽く壁を叩いた。まるで、上等な硝子細工の品質を確かめるかのような、優雅で無駄のない仕草だった。


「夜半に他人の屋敷の裏口から忍び込む。行儀の悪さは、王都の孤児と変わらんな」

「フロスト......!」


 カースが氷の壁を拳で殴りつけた。だが、びくともしない。骨に響く鈍い痛みだけが、腕を伝って広がった。


「無駄だ。この結界を生半可な力で破ることはできん」

「試してみるまでは、わからない」


 カースは、右腕の呪鎖を静かに掲げた。二の腕の傷から、赤い血がじわりと滲む。


「犬神の怨牙(いぬがみのえんが)」


 その言葉と共に、懐のネロの呪核から黒い靄が噴き出した。牙を剥く幻の狼の姿が、氷の牢の中に禍々しく浮かび上がる。牙を剥いた幻狼が、氷の壁へと飛びかかった。

 ガキンッ、と、鈍い音が響いた。氷の壁の表面に、僅かな亀裂が走る。しかし、それだけだった。壁は、依然として、三人を閉じ込めたままだった。


「蠱毒の刻印(こどくのこくいん)も、効かないか」


 カースは続けて腕から黒い靄を放ち、氷の壁そのものへと叩きつけた。触れた部分の氷が、腐食したように黒く濁っていく。だが、その侵食は、途中で力を失ったように止まってしまった。


 その一部始終をフロストは、微動だにせず見つめていた。恐怖の色は、その顔に微塵も浮かんでいなかった。それどころか――彼の薄い唇の端が、ほんの僅かに、笑みの形に持ち上がった。珍しい標本を初めて手に取った学者のような、静かな高揚だった。


「――ほう」


 彼の口元に、これまでにない、明確な興味の色が浮かんだ。


「今のは何だ」


 フロストが一歩、氷の壁へ近づく。


「獣の幻影。そして、腐食の靄。どちらも精霊術の系譜には存在しない」


「答える義理はない」


「黒い獣は、お前自身の生命力を変換しているのか?」


 返事を待たず、さらに続ける。


「それとも、何か媒介となる呪具に依存している?」


「……」


「腐食の靄は対象の内部から作用しているように見えた。だが、無機物にも同様に作用するのか。それとも――」


「黙れ」


 カースが睨みつける。だが、フロストは構わなかった。その目はカースの怒りではなく、右腕に刻まれた傷や、黒い靄の残滓を追っている。


 敵を見る目ではない。未知の現象を前にした研究者の目だった。


「実に興味深い」


 フロストは呟いた。


「精霊術とは異なる体系でありながら、これほど明確に力を現象化できるとは」


 彼の指先が、氷の壁をなぞる。


「呪術師」


 その言葉だけが、静かな地下室に落ちた。


「お前は、生かして連れ帰る価値がある」


「……何?」


「その力の構造を解き明かせば、我が領地の術式研究に、計り知れない益をもたらすだろう」


 フロストの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「案ずるな。手荒な真似はしない」


 そこで、一拍置く。


「丁重に拘束するだけだ」


 カースの眉が動く。


「その身に流れる力を、じっくりと――調べさせてもらう」


「ふざけるな……!」


 カースは再び呪鎖を振るった。鎖が氷壁へ叩きつけられ、乾いた音を立てた。それでも、結界は微動だにしない。

 フロストは氷の牢に閉じ込められた三人を、値踏みするような目で改めてじっくりと見渡した。

 その視線がゆっくりとミトの方へと移っていった。しばらくの間、彼は何かを思案するように目を細めていた。


「――お前」

「......!」


 ミトの肩が、びくりと震えた。


「見覚えがある顔だな。どこかで、記録を見た」


 フロストは、傍らのヘルマンへと視線を向けた。


「ヘルマン。第七検体棟の、逃亡記録を」


「は、ただちに」


 ヘルマンは懐から小さな手帳を取り出すと、慣れた手つきで頁をめくった。


「……当該少年です、父上」


 ミトの顔から血の気が引いた。


「一月ほど前、清掃時の隙を突いて逃亡した個体と一致します」


 その報告に、フロストの口元が、初めて、微かな笑みの形を作った。

「――ほう」


 フロストの口元が、僅かに持ち上がった。


「逃げた検体が一人いたが……まさか、自分から戻ってくるとはな」


 その目が、ミトを捉える。


「運命というものは、時に実に律儀だ」


「……嫌だ」


 ミトが、一歩後ずさった。だが、背中には氷の壁がある。


「その少年を、渡してもらおう」


 フロストが、軽く手を上げた。すると、結界の一部が音もなく形を変え始めた。


「やめろ」


 カースが叫ぶ。氷の壁がミトの身体だけを押し出すように変形し、彼の小さな身体が外側へと押し出されていく。


「ミト!」


 シークもまた必死にミトへと手を伸ばそうとした。だが、透明な壁がその手を無情に阻んだ。


「シーク......! カースさん......」


 ミトは必死に二人へ手を伸ばした。その腕を、兵士が掴む。


「い、嫌だ……!」


 ミトは兵士の腕に爪を立てた。


「離してください……お願い、離して……!」


 だが、大人の腕はびくともしない。小さな身体が、ずるずると引きずられていく。


「怖い……」


 涙が頬を伝う。


「シーク……助けて……」


 そして――


「兄さん、兄さん……」


 シークの身体が、硬直した。


「――ミト」


 その声だけが、震えていた。ミトは必死に手を伸ばしている。だが、その指先は、もう届かない。


「待て。待ってくれ……」


シークが氷壁を掴む。


「俺が、助けるから」


 シークの声が、初めて明確に取り乱していた。感情の起伏を映さないはずだったその顔が、今は、はっきりと恐怖と焦りに歪んでいる。


「くそっ......くそっ、くそっ......」


 シークは、氷の壁に、何度も、何度も、拳を叩きつけた。皮膚が裂け赤い血が、透明な壁に幾筋もの線を描いていく。それでも、壁は、びくともしなかった。


 フロストは暴れるミトを一瞥すると、興味なさげに視線を戻した。


「逃亡した道具は、他の検体たちにとって悪しき前例になる」


「貴様……」


 カースの声が低くなる。


「ミトに、何をするつもりだ」


「お前たちは、私が無意味な蛮行のために、こんなことをしていると思っているのだろうな」


「だったら、違うのか」


 フロストは首を横に振った。


「違う」


 その声音には、迷いがなかった。フロストは、壁の向こうのミトを見た。


「だが、この施設が引き出す力――人という器に宿らせた、僅かな精霊の欠片は、この街を覆う暖房術式を支え、凍える民の暮らしを確かに支えている」


「そんな……」

「僅かな検体の犠牲で、多くの民の生活が成り立つ」


 フロストは、まるで数字を読み上げるように続けた。


「私にとっては、極めて合理的な公共事業だ」


「公共事業……?」


 カースの声が震える。


「子供を使い潰しておいて……それを、そんな言葉で片付けるのか」


「言葉ではない。結果だ」


 フロストは答えた。


「倫理を説くのは容易い。だが、この街で凍え死ぬ者の数を実際に減らしてきたのは、お前たちが唾棄する、この施設の力だ」


 カースは言葉を失った。その理屈が正しいかどうかではない。フロスト自身が、本気でそう信じていることが何より恐ろしかった。彼にとってミトは、人間ではない。


 街を暖めるために必要な、ただの一つの燃料だった。


「――ッ、やめろ……」


 カースが拳を握り締める。


「やめてくれ……!」


 だが、フロストは聞かなかった。


「案ずるな」


 静かな声だった。


「苦しませはしない」


 フロストが、ミトの前へ歩み寄る。その手のひらに、冷気が集まり始めた。

 やがて指先から、繊細な結晶が幾重にも重なりながら生まれ出た。それはまるで、精緻な硝子細工のように、篝火の明かりを受けて淡く美しく輝いていた。氷の結晶が織りなす、この世のものとは思えないほどの、透明な煌めき。


 その美しさに、一瞬、目を奪われそうになるほどだった。しかし、その煌めく結晶は、そのまま、鋭利な刃の形へと、変じていった。


「……悪いようにはしない」


 フロストは静かに告げた。


「すぐに、終わらせてやる」


 その言葉には、慈悲の色など微塵もなかった。ただ道具を処分するという、それだけの無感動な響きがあった。


「……嫌だ」


 ミトが首を振る。


「嫌だ……」


 その声は、もう泣き声にもならなかった。

 

「シーク......! カース、さん......」


 ミトの視線が氷の壁の向こう、二人の姿を必死に探し求めた。涙で濡れたその瞳に、最後まで恐怖とそれでも消えない、微かな希望の色が揺らめいていた。


「僕、ちゃんと......仲間に、なれた、でしょうか......」

「――ミト!」


 シークが叫ぶ。


 カースも氷壁へ手を伸ばした。だが――届かない。

 冷たい光を纏った、フロストの手のひらが、静かに、振り下ろされる。美しく輝いていたはずの氷の刃が、次の瞬間には、小さな体を、無情に貫いていた。


「――あ」


 小さな、掠れた声だけが漏れた。ミトの体が、力なく崩れ落ちる。


 白い床に、赤いものが一滴、落ちた。


 続いて、二滴、三滴。


 氷の刃に貫かれた傷口から、赤い血が白い床の上へと静かに広がっていった。その鮮やかな赤が周囲の冷たい白と青に、あまりにも生々しく映えていた。

 美しかったはずの結晶の刃も、その根本に赤い血を纏わせながら、まだ淡い光を放ち続けていた。美しさと残酷さが、あまりにも無造作に、混ざり合っていた。


 ミトの瞳から、光が静かに消えていく。


「――ミト......」


 シークの声が、氷の牢の中に木霊した。

 助け出すはずだった少年が、目の前で冷たい物言わぬ骸へと変わっていく。その光景に、重なるように――シークの脳裏に、遠い記憶が、鮮烈に蘇った。

 あの地下室。隣に繋がれていた、名も知らない誰か。助けを求める、その声。何もできず、ただ、見ていることしかできなかった、あの日の自分。

 目の前の光景と、あの日の記憶が、幾重にも重なり合い、シークの意識を、激しく揺さぶった。

 彼の体が小刻みに震え始める。


「......嘘、だろ」


  シークの喉から、掠れた声が漏れる。


「嘘だ……」


 氷壁に手をつく。


「こんなの……嘘だ……」


 指先が震える。

 シークは氷の壁に、額を押し付けた。冷たい感触すら、もはや彼の意識には届いていないようだった。

 視界の端に床に転がったままの、あの投擲針が映る。渡したはずの守りの証。それは、何の役にも立たないまま、冷たい床の上に放り出されていた。


「約束……したのに……」


 シークは、ゆっくりと額を氷壁へ押しつけた。


「目の前で、誰も死なせないって……言ったのに……」


 声が途切れる。


「なのに、俺は……」


 続きが出てこない。


 その頬を、一筋の涙が伝った。


 シーク自身、それが涙だと気づいていないようだった。


 これまで一度も流したことのなかった、大粒の涙が、次々と頬を伝い落ちていった。堰を切ったように溢れるその涙は止まることを知らず、氷の床の上にいくつもの小さな染みを作っていった。


「約束......守れなくて、ごめんな......」


 その声は、これまでのどんな叫びよりも、静かで、そして、深い絶望を湛えていた。

 カースは、そんなシークの肩に、そっと手を置くことしかできなかった。 何を言えばいいのか、わからない。


 慰めの言葉を口にしたところで、今のシークには届かない。ただ、その震える肩に手を置く。それしかできなかった。


 そして――


 カースの瞳が、ゆっくりとフロストへ向けられる。その目から、先ほどまでの焦りが消えていた。氷壁の向こうで、フロストは静かに立っている。まるで、何事もなかったかのように。


 その無表情を見つめながら、カースは、握り締めた拳に爪を食い込ませた。


 ――許さない。


 声には出さなかった。だが、その胸の奥で燃え始めたものだけは、誰にも消せない。


(第22話-1「白銀の哭声」へ続く)


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