第21話-2「凍てつく罠」
その日の夜明け前、凍てつく闇が街を包み込む中、ウォルターは一人、誰にも告げずに宿を後にしていた。
身の丈ほどもある大剣を目立たぬよう布で厳重に包んで荷物に紛れさせる。そうして彼は、――フロストハイムの中心部へと、静かに足を向ける。
「氷結の女王」とも呼ばれる、アイスフェルト家の首府、フロストハイム。
降り積もる雪は、昇り始めた朝日に照らされ、これまで見てきたどんな高価な宝石よりも美しく、冷ややかに輝いていた。石畳の大通りには、精緻な彫刻の施された魔導街灯が等間隔に立ち並び、その足元だけは不思議なほど雪が積もっていない。
「――地下に、暖房術式でも通してるのか」
ウォルターは雪のない石畳を、革靴の底で軽くならしながら独りごちた。
真冬だというのに、貴族街を行き交う人々は薄手の外套一枚で、何事もないかのように平然と歩いている。口から吐き出される息すら白く濁らない。
「――随分と、贅沢な精霊石の使い方をしやがる」
その呟きには、隠しきれない苦みが強く滲んでいた。骨の街で、わずか一本の薪や腐りかけたパンを争って命を落とす人々の姿を、彼は嫌というほど見てきたのだ。富と威光を誇示するためだけに無駄遣いされる精霊石への不快感が、胸の奥で重く澱んでいた。
ウォルターは街の一角、高級食料を山積みにした大型荷馬車の列に目を留めた。
重厚な鉄門を通り、巨大な氷の城の裏手へと次々に吸い込まれていく荷馬車群。
「――あれか」
彼は物陰から、荷馬車が城内へと消えていく搬入路を注意深く観察した。何度か荷の積み下ろしの周期を見るうちに、その奥に地下へと続く大口の搬入路が存在することを確信する。
その日の昼過ぎ、ウォルターは下働きの人夫に巧みに紛れ込み、まんまと城の裏手への潜入を果たしていた。
汚れた作業用前掛けを一枚羽織り、重い木箱を肩に担いで俯き加減に歩けば、誰も彼を不審者だとは思わなかった。広大な城内で働く下働きの数は膨大で、互いの顔など誰も把握していないのだ。
(随分と隙だらけだな。もっとも、それだけ内側の防衛機構に絶対の自信があるってことか)
彼は汗を拭う振りをして木箱を運びながら、城内の構造や兵の巡回ルートを頭の中に丹念に描き込んでいった。
その時だった。
廊下の奥から、重厚な絨毯を踏みしめる複数の足音が近づいてきた。ウォルターは咄嗟に木箱を抱え直し、壁際に寄って深く頭を下げた。下働きの人間が貴族と直視で目を合わせることなど、この城では許されない無礼だった。
それでも、伏せた視線の僅かな隙間から、ウォルターはその姿を鋭く盗み見た。
高級な絹のドレスを纏った、まだ若い女だった。透き通るような白磁の肌、緩やかに波打つ金糸の髪、完璧に整った顔立ちは彫刻のように美しく、息を呑むほどだった。すれ違う者すべてを屈服させるような、この国の頂点に相応しい気品。
だが――その唇の端に浮かんだ笑みだけは、どこか歪み、冷酷な色を帯びていた。
「弟のことは、聞き及んでいるでしょう、ヘルマン様」
その美しい唇から零れた声は鈴のように透き通っていたが、同時に寒気を覚えるほど刺々しい響きを秘めていた。
「ええ、王女殿下」
控えていたヘルマンの声が、恭しく答えた。
ウォルターは頭を下げたまま、息を殺して耳だけに全神経を集中させた。
(王女? まさか、この女が噂の......)
「王都でも、あの弟の評判は随分と揺らいでいるようですね」
王女の声が静かに続いた。美しい微笑みを顔に張りつけたまま、その声音には隠しきれない愉悦が混じり始める。
「長年仕えた侍従長をあんな形で容易く切り捨てるとは。育ての親すら容赦しない、非情で冷血な王太子――そう影で囁く者も少なくないとか」
「殿下ご自身は、どうお考えで」
「さあ。ただ――」
王女は僅かに声の調子を変えた。口角が持ち上がり、その瞬間、彫刻のように美しかった表情が恐ろしいほど醜悪な蔑みに変わった。
「弟のあの潔癖さは、時に度が過ぎる。そう思うだけです」
その声には身内を案じる労わりなど微塵もなく、ただ他者を無価値に値踏みするような冷ややかな響きがあった。
やがて王女の視線が、傍らで小さくなって控えていた侍女へと向けられた。整った眉を極めて軽く持ち上げ、まるで路傍の石ころを見るかのような無関心な目。
「お前も、気をつけることね」
「......はい?」
「弟のような、無闇で愚かな優しさに、うっかり感化されないように」
その言葉には、一切の感情の温度が存在しなかった。無機質でありながら、毒液を含んだ針のような刺す響き。美しい外見からは想像もつかないほど、その声は冷たく、乾ききっていた。
「そんなものは、いずれ、自分自身の首を絞める縄になる。憐れむべき弱さだと、そう心得ておきなさい」
「――か、肝に銘じます」
侍女の声は恐怖で硬く引きつり、全身を細かく震わせていた。
その一件が済むと、王女は、話題を変えるように、ヘルマンへと向き直った。
「ところで、南の方から、面白い話を聞いたのだけれど」
「南、と申しますと」
「タラッサとエアハルト。あの二家の間で、何やら、きな臭い動きがあるとか」
ヘルマンが、僅かに眉を上げた。
「交易路を巡る、諍いですか」
「さあ。詳しいことは知らないけれど、双方、随分と、兵を動かしているという噂よ」
王女は、興味なさげに、扇を軽く揺らした。
「昔から、反りの合わない家同士だもの。放っておけばいいわ。共倒れになってくれるなら、それはそれで、都合がいい」
「御意にございます」
その口ぶりには、他家の混乱をむしろ歓迎するような乾いた響きがあった。
「それより」
王女は、声の調子を僅かに変えた。
「私の方の話は、進んでいるの?」
「はい。父上より、内々に、殿下との縁組についての打診を、進めるよう申し付かっております」
「縁組」
「アイスフェルト家として、王家との結びつきを、より強固なものにしたいと。婚姻という形であれば、周囲の目も、自然なものとして納得するでしょう」
王女の口元に、値踏みするような、薄い笑みが浮かんだ。
「......悪くない話ね」
「殿下におかれましては、いかがお考えで」
「弟があの調子で、勝手に自滅してくれるなら」
王女は扇の陰で、静かに囁くように続けた。
「次の玉座に、誰が座るべきかなど、考えるまでもないことでしょう?」
その言葉には、隠しきれない野心の色が、はっきりと滲んでいた。
ウォルターは額から冷や汗が流れるのを感じながら、その一連の会話を克明に脳裏へ刻み込んでいた。
(見てくれだけは天女様みてえだってのに――中身は腐りきってやがる。関わっちゃいけねえタイプの化け物だ)
美しい仮面の下に隠された底知れぬ冷酷さに、数々の修羅場をくぐってきたウォルターすら、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
(王都の坊やも荒れてるようだが......この王女、底が知れねえ)
やがて、足音は廊下の奥へと遠ざかっていった。
ウォルターは頭を上げると、周囲の気配が完全に消えるのを慎重に待った。
それから彼は木箱を担ぎ直し、さらなる目的の地――地下へと続く、あの薄暗い搬入路の方角へと静かに足を進めたのだった。
その頃、宿の一室では、カースがミトと正面から向き合っていた。
「僕が、案内します」
ミトが小さな拳を握りしめ、真剣な眼差しで申し出た。
「地下の構造は、僕が一番よく知ってます。連れて行ってください」
「駄目だ」
カースは静かに、しかし断固とした拒絶を込めて首を振った。
「ミトをまた、あの地獄のような場所に連れて行くわけにはいかないんだ」
「でも......!」
「必ず、ミトの仲間たちを助け出すよ」
カースは腰を落とし、ミトの目線を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつて大切な者を守れなかった悔恨と、二度と同じ過ちを繰り返さないという強い決意が宿っていた。
「だから、ミトにはここで待っていてほしい。信じて待ってて」
ミトはしばらくの間、唇が切れそうなほど強く噛みしめていた。だが、カースの揺るぎない目の色を見て、やがて諦めたように小さく頷いた。
「わかりました。カースさん」
「ありがとう」
「じゃあ、せめて......情報だけでも持っていってください」
ミトは震える声を振り絞り、知る限りの地下施設について話し始めた。
「氷の地下は、常に巨大な精霊動力が流れてます。大きな氷の結晶から力を引き出してるんだって、貴族様たちが話してました。それが結界や実験装置を動かしてるんです」
「氷の結晶から力を......」
「はい。実験施設は地下深くにあります。......アイスフェルトのお城の、一番底です」
カースはその情報を噛み締め、静かに頭に刻み込んだ。
「よくやってくれた、ミト」
その時、部屋の扉が乱暴に叩かれ、勢いよく開いた。
「――坊主、話がある」
ガルトが折り畳んだ羊皮紙の地図を片手に、険しい表情で踏み込んできた。
「城の見取り図の手配がついた。それと――」
ガルトは一度言葉を切り、苦々しそうに吐き捨てた。
「ウォルターの野郎、城の中に潜り込んでやがる」
「なんだって!?」
カースが目を見開いた。
「なんで、一人で行かせたんだ!」
「奴が勝手に動いたんだよ!」
ガルトは苦々しい顔で頭を掻いた。
「今朝、宿を出る前に俺に一言だけ残していきやがった。『下働きに紛れて様子を見てくる。すぐに戻る』ってな。だが――」
「それが?」
「もう半日以上、連絡が途絶えてる」
その言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「戻ってきてない......」
シークが静かに拳を握りしめ、低く呟いた。
「捕まったのか」
「わからねえ。だが、あの防備の固い城で無事だと楽観視できる状況じゃねえのは確かだ」
ガルトは卓の上に広げた地図をバンと叩いた。
「この見取り図と、ミトが教えてくれた情報を頼りにするしかねえ。地下への侵入経路は、大体絞り込めた」
カースは広げられた地図の線を、鋭い眼差しで見つめた。
「行こう、シーク」
「ああ」
「ウォルターを見捨てるわけにはいかない。それに、あの地下で怯えているミトの仲間たちも、絶対に助け出す」
カースの声には、迷いのない確かな決意と、復讐者としての冷徹な熱が宿っていた。
「ガルトの情報を頼りに、僕らだけで城に乗り込む」
窓の外では、フロストハイムの街並みが、変わらぬ美しさと残酷さを湛えたまま、静かに雪に覆われていた。
白く染まった街並みも、遠くにそびえる氷の城も、月明かりの下では息を呑むほど美しい。しかし、その無垢な白さの下には、この街で隠され続けてきたものがある。
氷の城の地下に広がる、深い闇。そこには、ウォルターが消えた理由も、ミトが逃げ出してきた場所もある。そして今、その深淵は、彼らを呑み込もうと、確実に牙を研いで待っていた。
(第21話-3「凍てつく罠」へ続く)




