第21話-1「凍てつく罠」
氷の都の宿屋の裏手。切り出された角氷のように冷たい空気が滞留する闇のなか、ミトは膝を抱えて地面に丸くなっていた。
その視線は、かすかに温かな光を漏らす宿の勝手口へと向けられている。
室内では、ガルトが紫煙を燻らせながらカースの無茶な行動に文句を吐き捨てていた。暖炉の火がゆらゆらと揺れる温もりの中で、彼らは当たり前のように、互いの無事と存在を確かめ合っている。自分には、決して手の届かない場所。ミトには、それが眩しく見えた。
ミトの横に、雪を踏む音すら立てずにシークが腰を下ろした。
「あいつらが、気になるのか」
シークの低い問いかけに、ミトは肩を跳ねさせた。
シークの質問の意味は分かっていたが、何と答えたらいいかわからず黙っていた。しばらくしても、シークはどこにも行こうとしない。ただ、隣に座っている。諦めたように小さな息を吐き出し、膝の隙間に深く顔を埋めた。
「......羨ましいんです」
ぽつりとこぼれた声は、夜風に消えてしまいそうだった。
「僕、あの場所から一人で逃げてきたこと、今でもずっと考えてるんです」
シークは何も言わず、ただ黙って耳を傾けていた。
「家族も......僕を助けようとはしてくれませんでした。領主の役人が来た時、みんな俯いて、見て見ぬふりをして......。でも、それは仕方ないことだってわかってます。逆らえば、家族全員が処刑されてたかもしれないから」
ミトは顔を伏せたまま、自分の両腕を骨が軋むほど強く抱きしめた。身体が、過去の恐怖に苛まれるように小刻みに震え始める。
「でも、地下での生活は......本当に、暗くて、寒くて......何より恐ろしかった。あの貴族様たちが降りてくると、いつも誰かが連れ出されて......戻ってきた時には、言葉も話せない、別の何かになってるんです」
息が乱れる。喉の奥が詰まり、ミトは何度も息を飲み込んだ。
「僕の番が来た時......あの冷たい顔をした貴族様が、僕の頭の上に手をかざして、気味の悪い力を流し込んできました。それが......体に煮えたぎる熱湯を直接注ぎ込まれたみたいに熱くて、痛くて......悲鳴を上げる余裕すらないくらい苦しいのに、熱さが引いた後は、今度は骨の髄まで氷になっちゃったみたいに冷え切っていくんです」
ミトの拳が、擦り切れたズボンを固く握りしめる。
「でも。そんな身体の激痛なんて、本当はどうでもよかった」
「......」
「一番恐ろしかったのは......そんな風に苦しんだ次の瞬間、さっきまで隣で息をしてたやつが、急に......ぴたりと動かなくなることでした」
二人の間に、重い沈黙が流れる。ミトの声は、溢れ出る涙に濡れていた。
「目が開いたまま、何も映さなくなって......声も、温もりも、全部消えてるんです。さっきまで一緒に励まし合っていた子が、次の瞬間にはただの冷たい塊になって転がっている。それが......いつ自分の番になるのか分からなくて......怖くて、怖くてたまらなかった......」
ミトは両膝に顔を埋め、幼子のように声を押し殺して泣きじゃくった。
「だから、僕......隙ができた時、一緒に捕まってた仲間を置いて、一人で夢中で走って逃げちゃったんです。助けられたかもしれないのに......自分だけ助かりたくて。それは誰のせいでもない、僕自身の薄汚い選択でした」
己の頭を掻き抱くようにして、ミトは苦しげに喉を鳴らす。
「僕みたいな奴に......誰かを見捨てて自分だけ生き残った僕みたいな奴に、居場所なんて......生きている意味なんて、あるんでしょうか」
その問いは、答えを求めるというより、自分自身を責めているようだった。
シークは、しばらくの間何も答えなかった。やがて、ミトの震える背中を見つめたまま、静かに口を開く。
「――お前にもできると思うよ」
「え......」
「俺にもできたからさ」
シークはふと顔を上げ、黒の夜空を見上げた。深呼吸を一つ挟み、静かに言葉を繋ぐ。
「俺も、物心ついた頃から、常に隣にいた奴が死んでいくような場所にいた。教えてもらったのは、効率よく人を殺す技術と、命令を聞き取るための最低限の知識だけだ」
シークは薄く積もった粉雪を、足先で軽く蹴った。
「笑えるだろ」
シークが浮かべたのは、ミトが初めて見る表情だった。自虐と、どこか寂しさを滲ませた、かすかな微笑み。
「そんな......」
ミトは息を呑んだ。シークが過酷な境遇にいたことは知っていた。だが、ここまでだったとは思っていなかった。
「その狂った実験の甲斐あって、精霊の力が体内に少しだけ無理やり宿った」
そう言うと、シークは指先を軽やかに回してみせる。すると、吹き寄せる寒風が小さな旋風となり、足元の雪を弾き飛ばした。ミトの茶色い瞳が大きく見開かれる。
「それからは、あいつらは俺をより完璧な殺戮の道具にしようと、過酷な実験と殺人の技術を詰め込んでいった。いつからか、隣の奴が死んでも、誰の手首を跳ね飛ばしても、何も感じなくなった」
シークは一瞬、目を伏せた。風を起こしていた指先を、ぎゅっと握る。そして、真っ直ぐにミトを見据えた。アイスバイオレットの瞳が、静かにきらめいた。
「でも、カースが......あいつらが俺を拾って、助けてくれたんだ。俺、あいつらのことが大切だと思う。まだうまく言えないけどさ......家族ってのは、こういう感じなのかなって思う」
シークの固い手が、ミトの肩にぽんと置かれた。凍え切っていたミトの肩に、シークの確かな体温が伝わる。それがじんわりと、胸の奥深くまで温かさを広げていく。
「だから――お前にも、できる」
「......僕も、居場所を......探してもいいんですか」
「居場所がないなら、これから作ればいい。ただそれだけだ。もし、それでもまだ見つからないなら......俺が、なってやってもいい」
「......何を、ですか」
「兄、みたいなものに」
その不器用で、けれど何よりも温かく重い言葉に、ミトは涙の滲む目でシークの顔を見つめていた。
「本気で、言ってるんですか」
「俺は、大切なことしか言わない」
「......ありがとう、ございます......っ」
ミトの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。けれどその涙は、恐怖に怯えていた時のものとは違う、温かい光を宿していた。
その一部始終を、半開きになった勝手口の扉の陰で、ウォルターが静かに聞いていた。壁に背を預け、暗がりの中で分厚い拳を握りしめる。
(――あいつらに、これ以上、惨めな思いをさせてたまるかよ)
夜の静寂に溶けるような呟き。だがその声には、惨劇を知る大人として、二人の未来を守り抜くという確かな決意が込められていた。
宿の裏手にある小さな中庭。シンと降り積もる雪を散らしながら、カースは一人、静かな気迫で鍛錬に打ち込んでいた。
振り抜く呪鎖の軌道が、闇の中に漆黒の残像を描き出す。空気を切り裂く重い風切り音が響く夜の静寂に、瓦屋根の雪を軽やかに弾く足音が紛れ込んだ。
「ねえ、それさ」
いつの間にか屋根の軒先に腰掛けていたアズラエルが、興味津々な顔で身を乗り出した。膝の上で頬杖をつき、楽しそうに瞳を輝かせている。
「精霊の力に、まったく頼ってないよね」
「当たり前でしょ」
カースは手を緩めず、冷ややかに答えた。軸足を滑らせて鋭く反転し、呪鎖をさらに深く打ち込む。
「呪術は、精霊の加護とは根本から違う異端の理なんだ。自らの命そのものを削り、強い憎悪と執念を編み上げて力に変える」
過去の惨劇――奪われ、踏みにじられてきた激しい怨嗟が胸の奥で渦巻く。カースはそれを生み出す元凶でもある精霊の愛し子、アズラエルを鋭く睨みつけた。
次の瞬間、黒い靄を纏った呪鎖が影のようにしなり、アズラエルの首元を薙ぎ払う。
「っと!」
バヂッ、と紫電の弾ける音が響いた。アズラエルは身を翻して鎖をかわすと、そのまま屋根から滑り降りるようにカースの頭上へと舞い降りた。空中でひらりと一回転し、遊戯でも楽しむかのような軽やかさで鋭い蹴りを繰り出す。
カースは腕を差しのべ、呪鎖を巻きつけた柄でその一撃を受け止めた。
ガキィンッ!
火花が飛び散り、重い衝撃が腕骨を揺らす。アズラエルは着地と同時に、すかさず地を這うような足払いを仕掛けてきた。
「へえ、いい受けだねぇ」
「......遊んでるつもり?」
カースはバックステップで跳び退がりながら鎖の端を弾き、アズラエルの手首を拘束しようと蛇のように走らせる。アズラエルは紫電を指先に纏わせ、迫る黒い鎖をトントンと弾き返した。パチパチと火花が散り、二人の間の積雪が勢いよく吹き飛ぶ。
「遊んでなんかないよ、大真面目さ。精霊の加護っていう、この国のお偉方が絶対視してる体系を、根っこから嘲笑うような術......最高じゃないか」
一瞬で至近距離まで踏み込んできたアズラエルの瞳は、爛々と怪しい光を放っていた。息が触れ合うほどの距離で、刃のような視線と不敵な笑みが交錯する。
カースはフッと息を吐くと、絡めようとした鎖を引いて勢いを殺し、そのまま腕を振ってアズラエルの頬すれすれをかすめさせた。鋭い残風がアズラエルの前髪を揺らす。
「褒めてるのか、貶してるのかわからないな」
「褒めてるに決まってるでしょ」
アズラエルはくつくつと愉しそうに笑うと、紫電を収めてふいっと間合いを取った。カースもまた静かに呪術の気配を消し、肩の力を抜く。じゃれ合うような短い組手は、それで終わりを迎えた。
息一つ乱さず立ち尽くすカースは、真っ直ぐにアズラエルを見据えた。
「――アズラエル」
「何?」
「近々、氷の城へ乗り込む。お前を、戦力として計算に入れていいんだね?」
その問いには、これまで以上の重みがあった。単なる気まぐれな同行者ではなく、命を預け合う仲間として信頼していいのか――その確信を求める問いだった。
アズラエルは手首を回しながら、しばらくの間その言葉を噛み締めるように黙っていた。やがて、彼は不敵に唇の端を吊り上げた。
「呪術師くん次第さ」
「――どういう意味?」
「僕を、退屈させないでくれよ?」
その答えは、はぐらかしのようでいて、胸のすくような確かな肯定だった。カースは呆れたように小さく吐息を漏らすと、その言葉に静かに頷いた。
ミトが仲間になってから、数日が経っていた。
その間、ミトはシークの後を、まるで兄を追いかける弟のように、いつも付いて回っていた。買い出しにも、見張り番にも、荷物運びにも、頼まれもしないのに、ちょこちょことついてくる。
「邪魔だ」
シークは、口ではそう言いながらも、ミトを本気で追い払おうとはしなかった。むしろ、彼が転びそうになれば、さりげなく手を貸し、寒さに震えていれば、自分の外套の裾を、無言で分け与えたりもした。
「シークさんの真似すれば、少しは強くなれるかなって」
「俺の真似をしても、強くはならないだろ」
「そうなんですか?」
「お前には、お前のやり方がある。それだけ」
素っ気ない返事だったが、ミトは、それを聞くたびに、嬉しそうに頬を緩めた。満更でもなさそうな横顔を、シーク自身も、まだうまく持て余しているようだった。
雪は今日も降り続いている。朝から降り続く細かな雪が、屋根や石畳を白く染め上げていた。
この地に足を踏み入れてからカースたちが目にしてきた景色は、これまでの旅のどこよりも美しく、そして残酷だった。
フロストハイムの街並みは、氷細工のように精緻に築かれていた。石造りの家々の屋根には、幾重にも積もった雪が白い綿帽子のよう重なり、軒先からは透き通った氷柱が幾本も鋭く垂れ下がっている。日中でも太陽の光は弱々しく、いつも薄い雲の向こうでぼんやりと白く滲んでいた。
凍りついた運河は街の至るところを網の目のように走り、その表面には分厚い氷が張り詰めている。時折、氷の下を流れる水の音がくぐもって響く。それは、この街にまだ命の営みが、かろうじて息づいていることを静かに知らせているようだった。
だが、その美しさは、貴族街から一歩離れればたちまち凄惨な姿に変貌した。
宿の周囲、下町と呼ばれる一角では、薪を惜しんで焚かれた頼りない火があちこちの軒先で細々と揺らめいていた。壁の隙間からは容赦なく凍てつく冷気が忍び込み、住人たちはボロ布を幾重にも重ね着て、身を寄せ合うようにして飢えと寒さを凌いでいた。息を吐けば白く曇り、瞬く間に宙へと溶けて消えていく。
宿の裏手、薪を惜しんで焚かれた小さな火を囲みながら、五人はそれぞれの手を炙っていた。
「......こっちに来る前は、どんな暮らしをしてたんだ」
ウォルターが、何気ない調子でミトに尋ねた。
「僕の村ですか?」
ミトは少し考えるように視線を落とした。
「アイスフェルト領の、もっと外れの小さな村でした。冬になると井戸の水が朝には完全に凍って、汲むのに一苦労で」
「凍った水を、割って汲むのか」
「はい。それに、炭なんてうちみたいな家には高級品で。滅多に手に入りませんでした」
ミトは乾いた笑いを小さく漏らした。
「薪も拾えるだけ拾って、それでも足りなくて。毎年冬になるたび、何人かは凍えて動かなくなるんです。それが当たり前みたいに」
「......当たり前、か」
カースが小さく呟いた。
「不条理にしがみついて、なんとか生きてる。そんな毎日でした」
ミトはそう言うと、ふと顔を上げた。
「カースさんたちは、王都から来たんですよね。王都ってどんなところなんですか」
その問いに、カースは一瞬言葉を選ぶように沈黙した。
「――僕らがいたのは、『骨の街』って呼ばれている、王都の中でも一番貧しい一角だよ」
「骨の街......」
「井戸の水が凍るのも同じだ。薪も炭も、いつも足りない。屋根に穴が空いた小屋で何人も身を寄せ合って冬を越す。......ミトの村と、そう変わらないよ」
「そうなんですね......」
ミトの声には僅かな落胆と、どこか安堵にも似た響きが混ざっていた。
「王都なのに、貴族街の目と鼻の先にそんな場所があるんですね」
「同じ王都でも、まるで別の国みたいなもんだ」
ウォルターが苦々しく口を挟んだ。
「精霊石の街灯が夜通し輝いてる大通りから、ほんの少し裏に入るだけで、灯り一つない暗闇の路地になる」
その言葉に、シークがふと口を開いた。
「貴族の屋敷に、忍び込んだことがある」
「シークが?」
「デュベル邸にいたころの話。まだ仕事を覚えたばかりの頃」
シークは感情の薄い声のまま、しかし確かな嫌悪を滲ませて続けた。
「暖炉の火は絶やされることがない。食い切れないほどの料理が毎晩食卓に並んで、余ったものは平然と捨てられる。......あんな贅沢を当たり前だと思って生きてる連中がいるのかと、反吐が出たね」
「そんなに違うんですね......」
「違う。この、アイスフェルトの街も同じだ」
シークは城のある方角を忌々しげに一瞥した。
「あの白銀の宮殿の中は、真冬でも温室のように暖かいらしい。その外でお前の村みたいな連中が凍えて死んでいくというのに」
小さな火が、ぱち、と鳴った。誰も、しばらく口を開かなかった。
「正直に言うとさ」
カースが静かに口を開いた。
「このアイスフェルトより、僕らの骨の街の方がまだ住みやすいと思うよ」
「......そうなんですか?」
「うん。貧しいのは変わらない。だけどあそこには、少なくとも僕らみたいな連中を見捨てない奴らがいる」
カースは火に炙られたミトの手をじっと見つめた。
「ミト」
「は、はい」
「まだ中にいる、ミトの仲間を助け出したら」
カースの目に、迷いのない力強い光が宿った。
「一緒に来て。僕たちの骨の街に」
その誘いに、ミトは大きく目を見開いた。
「......いいんですか。僕なんかが......」
「お前なんか、じゃないだろ」
シークが素っ気なく、しかし確かな熱を込めて言った。
「お前は、俺の弟分だからさ」
その不器用で温かい言葉に、ミトの瞳からまたじわりと涙が滲んだ。
「......はい」
彼は震える声で小さく頷いた。
「絶対に仲間を助け出して......一緒にいきます」
シークはその言葉に、しばらく何かを噛み締めるように沈黙していた。脳裏に、ふと絶望の遠い記憶が過った。
あの暗い地下室で、隣に繋がれていた名も知らない少年。助けを求める、あの悲痛な声。あの日、自分には何もできなかった。ただ怯え、見ていることしかできなかった。
そのトラウマを振り払うように、シークは静かに、しかし絶対の誓いとして告げた。
「――約束する」
「え?」
「絶対に、お前の目の前で、誰も死なせない」
その声には、これまでのどんな言葉よりも重い誓いが込められていた。
「俺が、命にかえても守るから」
ミトはその言葉を、全身で噛み締めるように聞いていた。
「......はい。信じます」
シークは懐から、細く鋭い投擲針を一本取り出した。使い込まれた彼の得物の一つだった。
「これを持ってろ」
「これは?」
「何かあったら、これを地面や壁に投げろ。甲高い音が鳴るように細工してあるんだ。俺が、必ず気づく」
ミトは、その冷たい金属の針を、震える手で宝物のように大切に受け取った。
「......ありがとうございます」
「なくすなよ」
「なくしません。絶対に」
小さな篝火が、五人の顔を静かに照らしていた。雪は、その向こうで降り続いている。
(第21話-2「凍てつく罠」へ続く)




