第3話「呪術師カースの誕生」
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
どれくらいの時間、そこに横たわっていたのだろう。
僕の体は、ゴミの山の底で、瓦礫と割れた瓶と、名も知らぬ誰かの骨に埋もれていた。焼かれた傷の激痛はいつしか消え、代わりに、全身が水の中に沈められたような、重く冷たい感覚に支配されていた。
ああ、僕はもう死ぬんだ。
不思議と、恐怖はなかった。ただ、悲しかった。ミミの温もりも、トウマの笑い声も、リタの優しさも、ネロの尻尾の揺れも、もう二度と感じられないのだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
目の前が、少しずつ暗くなっていく。
このまま、消えてしまうのか。
誰にも知られず、誰に悼まれることもなく、ゴミの中で朽ちていくのか。
そう思ったとき、僕の指先に何か硬く冷たいものが触れた。
それは、瓦礫に半分埋もれた、古びた鉄の塊だった。錆びついた鎖と、歪んで曲がった太い釘の束。一見すれば、ただの廃品にしか見えない。けれど、それに触れた瞬間、僕の体の奥底から、今まで感じたことのない、異様な感覚が湧き上がってきた。
呼ばれている。
根拠のない確信だった。この鉄の塊が、僕を呼んでいる。
僕は最後の力を振り絞って、その鎖に指を絡めた。
瞬間、視界が真っ赤に染まった。
『――ようやく、か』
声が聞こえた。人の声ではない。もっと古く、もっと深く、地の底から響いてくるような声。幾つもの声が重なり合い、一つの塊となって、僕の意識の奥に、直接染み込んでくるようだった。
『長い、長い時だった。精霊の光に見放され、この忌み地に打ち捨てられて、幾百年……お前のような、憎悪と絶望に満ちた魂を、我々はずっと待ち続けていた』
「だれ……お前は……」
僕の唇から零れた声は、もう自分のものとは思えないほど掠れていた。
『我らは、かつてこの世界から追放された者たちの、成れの果て。呪いという名の、忘れられた理――』
声が言葉を紡ぐたび、周囲の瓦礫が微かに震えているような気がした。何百、何千という、名も知らぬ死者たちの気配が、この場所に幾重にも折り重なっているような感覚。
『問おう、小さき魂よ。お前は、この契約に耐えられるか』
「契約……?」
『我らの力を貸し与える代わりに、お前という存在の全てを差し出せ。お前の未来、お前の安寧、お前が本来手にするはずだった、平穏な生――その全てを、この契約の下、我らに捧げよ。二度と、後戻りはできぬ。これは、命そのものを賭した、片道切符の契約だ』
声は、容赦なく続けた。
『力を得た代償に、お前の体は、いつか内側から蝕まれ、朽ちていくだろう。呪いを振るうたびに、お前自身の血が流れ、寿命が削られ、正気すら危うくなる時が来る。それでも赦さぬと、誓えるか』
僕の脳裏に、次々と光景が蘇る。
ミミの、腕を、そして足を、一本ずつ焼かれていく悲鳴。トウマとリタが、抱き合うようにして崩れ落ちていく姿。まだ言葉も話せなかったチビの、小さな体。そして、僕を守ろうと牙を剥いて飛びかかっていったネロの、最後の一声。
「赦さない」
僕は、自分でも驚くほど、迷いなく答えていた。
「ネロは、悪いことなんて何もしてない! ただ、あいつに挨拶をしようとしただけなんだ! それなのに、あいつはネロを『下等な獣』だって……ミミだって、まだ五つだったんだ! 誰よりも人懐っこくて、僕が疲れてる時は、いつも小さな手で頭を撫でてくれるような、そんな優しい子だったんだっ」
僕は、声を振り絞りながら、叫び続けた。
「あいつは、ミミの腕を、足を、一本ずつ焼いて……その悲鳴を聞いて、笑ってたんだ! まるで、ネズミでも嬲り殺すみたいに……! そんなの、絶対に、絶対に赦せない……! あいつらは、僕から全部奪った! 優しい世界を信じてた僕を、笑いながら踏み潰したんだ……! あんな連中が精霊様に選ばれた尊い存在だなんて、僕はもう信じない……!」
叫ぶうちに、涙が止めどなく溢れた。それは悲しみの涙であり、同時に、燃えるような怒りの涙だった。
『良い』
声が、深く、満足げに響いた。
『その怒りこそ、我らが求めていたものだ。だが、もう一度問う。この契約に、後戻りはない。お前は、二度と光の中には戻れぬ。愛したものたちの温もりに、正々堂々と触れることも、二度と叶わぬだろう。それでも、構わぬか』
その問いに、僕は迷わなかった。
「構わない」
僕はもう、光の中に戻りたいなどとは、微塵も思っていなかった。
「あの光が、あんな残酷な連中を生み出すものなら……僕は、その光ごと、燃やし尽くしてやる。この命も、未来も、全部くれてやる。だから――力をくれ」
『契約は、成った』
声が、地の底から、幾重にも重なりながら響き渡った。
次の瞬間、僕の全身を燃えるような激痛が貫いた。焼かれた傷口から黒い靄のようなものが染み出し、鎖と釘が、まるで生き物のように僕の体に絡みついてくる。骨が軋み、血管が焼け爛れるような感覚。皮膚の下を、無数の針で内側から縫い上げられていくような、あり得ないはずの感触が続いた。僕は声にならない絶叫を上げながら、それでも歯を食いしばって耐え続けた。
その激痛の奥底で。僕は、見た。
僕自身のものではない、誰かの記憶。
炎に炙られる女の悲鳴。杭に打ちつけられ、群衆に石を投げつけられる老人の姿。まだ幼い子どもが精霊の白い光を浴びせられ、声もなく崩れ落ちていく光景。数えきれないほどの人々が、「呪術師」というただそれだけの理由で、狩られ、焼かれ、根絶やしにされていく何百年も前の、聖呪大戦の記憶。
彼らの断末魔が、彼らの怨嗟が、彼らの、届かなかった悲鳴が。
僕の意識の奥深くに、次々と流れ込んでくる。
お前だけじゃない。
お前だけが、奪われたわけじゃない。
誰のものともつかない声が、そう囁いた気がした。僕の痛みは、僕一人のものではなかった。何百年もの間、光の名のもとに踏みにじられ続けてきた者たちの痛みのほんの続きに過ぎなかったのだと、僕はその瞬間、体の芯から理解した。
その理解と共に、僕自身にもわからない何かが、指先から、腕から、体の奥から、静かに「形」を成していくのを感じた。まるで、僕がまだ知らないはずのこの力の使い方を誰かに代わりに教え込まれているような、奇妙な感覚だった。
終わってたまるか。
まだ、終わってたまるか。
僕には、しなければならないことがある。
やがて、痛みの波が引いていくのと同時に、僕の意識は、深い闇の底からゆっくりと浮かび上がっていった。
目を開けると、そこはまだあのゴミ捨て場だった。夜の帳が下り、月明かりだけが瓦礫の山をぼんやりと照らしている。
僕は、自分の右手を見つめた。
そこには、あの錆びた鎖と釘が、まるで最初から一部だったかのように、腕に絡みついていた。触れても、もう痛みは感じない。それどころか力が漲るのを感じる。今まで感じたことのない、冷たく、けれど確かな力だった。
僕はゆっくりと立ち上がり、辺りを見回した。
少し離れた場所に、焼け焦げた小さな骸が横たわっているのが見えた。
「ネロ」
僕はふらつきながら、その骸に駆け寄った。焼け爛れ、変わり果ててしまった、あの温かかった黒い毛玉。僕はその首元にそっと手を伸ばした。
瞬間、僕の中の何かが、ネロの亡骸に強く共鳴するのを感じた。
『その魂、まだ繋がっているぞ。深い絆で結ばれた者の亡骸は、時に強力な呪物となる』
あの声が、静かに囁いた。
『その首を、お前の呪核とせよ。共に、戦い続けられるだろう』
僕は、震える手でネロの首にそっと触れた。涙が、また溢れてきた。
「ネロ……お前を、こんな姿にしてしまって、ごめん」
僕は自分の血を指先に滲ませ、ネロの首にそっと落とした。すると、焼け焦げていたはずのその首は、黒い靄に包まれ、まるで永遠に眠るように黒い犬の形をした石になった。目を閉じたまま、けれど確かにそこに「在り続ける」ような、不思議な姿へと変わっていく。
「これから、ずっと一緒だ。約束する」
僕はネロの首を、大切に懐へと収めた。
――そのとき、遠くから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「おい、この辺りに気配があると報告があったぞ」
「掃除しきれなかったゴミが残っていないか確認しろ」
精霊騎士団の制服を着た男たちが、松明を掲げてゴミ捨て場へと降りてくるのが見えた。恐らく僕らを処理しきれなかったという報告を受けて、残党狩りに来たのだろう。
以前の僕なら、恐怖で足がすくんでいたはずだ。
けれど、今の僕の中には、恐怖よりも先に、別の感情が満ちていた。
冷たく、静かな、燃えるような憎悪。
「こっちだ、何か動いた」
騎士の一人が、僕に気づいて剣を抜いた。
「なんだ貴様、まだ息が――ッ」
言い終わる前に、僕は、自分でも驚くほど自然に、右手を振り抜いていた。
懐からネロの首の気配が溢れ出し、黒い靄が幻の犬の形を取って、その騎士に食らいついた。
「ぎゃああああっ!」
悲鳴と共に、騎士の体を守っていたはずの精霊の加護――あの美しい光の膜が、まるで紙のように食い破られていくのがわかった。次の瞬間、幻の牙は騎士の首元に噛みつき、その体を地面へと引き倒した。
「な……なんだ、これは……! 呪術師だ! 呪術師が生き残っていたぞ!」
残りの騎士たちが、恐怖の入り混じった声で叫びながら僕へと剣を向けてくる。
その顔に、あの日、ミミを見下ろしながら笑っていた青年貴族の顔が重なって見えた。
同じ痛みを、返してやる。
僕は、腕に絡む鎖を、静かに操った。禍々しい黒い炎にも似た呪力が鎖の先端に絡みつく。
「動くな」
僕の声に騎士の一人が、恐怖のあまり立ち竦んだ。僕はその利き腕に向けて、呪力を纏った鎖の先をゆっくりと突き立てた。
「ぎゃあああああああっ!」
絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。
腕から、じわり、じわりと、黒い呪力が這い上がっていく。焼かれるような激痛に、騎士は地面をのたうち回った。ミミが感じたであろう痛みの、ほんの一部でも、こいつに味わわせてやりたかった。
「あ、あ、やめ……っ やめてくれ……!」
「やめてくれ、か」
僕の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
「ミミも、同じことを言ってた。お前たちは、聞く耳なんて持たなかったのに」
僕は、続けて、足へと呪力を這わせた。腕の次は足――あの日、青年が嬉々として口にした、あの言葉と同じ順番で。
「な――なぜ、そんなことを……!」
「知りたいか」
僕は、静かに、けれど地の底から響くような声で答えた。
「僕の妹が、お前たちの仲間に、同じことをされたからだ。腕を焼かれて、足を焼かれて、それを見た貴族が、笑いながら見物してた」
もう一人の騎士が、腰を抜かしながら後退った。
「化け物め……! 貴様のような呪術師が、なぜこの世に……!」
「呪術師なんかじゃない」
僕は、静かに口を開いた。
「僕は、ノアだった」
剣が振り下ろされる。僕はそれを、腕に絡みついた鎖で受け止めた。金属同士がぶつかる、鈍く重い音が響く。
「けど、お前たちが、ノアを殺したんだ」
僕は、鎖を振るった。
「だから、僕はもう、ノアじゃない」
鎖の先に絡んだ釘が、騎士の胴を貫いた。悲鳴が響く。
「僕は――お前たちに、呪いをかける者だ」
その言葉が、自分の口から零れた瞬間、僕の中で何かが、完全に定まったのを感じた。
優しかったノアは、もう死んだ。あの日、あのゴミ捨て場で、ミミたちと共に焼き尽くされた。
今ここに立っているのは貴族どもへの憎悪と、失われたものたちへの想いだけを燃料にして蘇った、ただの復讐の道具だ。
最後に立っていた騎士が、恐怖に顔を歪めながら、後退りしつつも僕を睨みつけた。
「ば、化け物が……! おぞましい……お前のような存在は、呪いそのものだ……!」
それは、僕を貶め忌み嫌うためだけの、ただの罵倒だったのだと思う。騎士は唾棄するように、その一言を僕に投げつけた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間――僕の胸の奥に、不思議と、すとんと落ちてくるものがあった。
「カース」
僕は、その言葉を静かに繰り返した。
「いい名だ」
僕はもう、優しかったノアという名前には戻れない。ならば僕を恐れ、憎み、汚らわしいと呼ぶ者たちが向けてくる、その蔑みの言葉こそが、これから僕に一番ふさわしい名前だと思った。
「僕の名は、カース。お前たちがそう呼んだ、その呪いそのものだ」
最後の騎士を沈黙させた後、僕は一人、月明かりの下に立ち尽くしていた。懐には、ネロの首。胸の奥には、決して消えることのない、あの日の光景。
僕は、ゆっくりと視線を上げ、遠くに見える王都の光を見つめた。かつて、あんなにも美しく、憧れていたはずのあの光。
今はもう、ただの標的にしか見えなかった。あの光に守られたすべての貴族に、僕は必ず、この呪いを届けてみせる。ミミの分も、トウマの分も、リタの分も、チビの分も、そしてネロの分も――全部、僕が代わりに、絶望を返してやる。
僕は懐のネロの首をそっと撫でながら、深く息を吸い込んだ。
「見ていろよ、貴族ども」
声には、もう震えはなかった。
「僕はお前たちが踏み潰した、ただのゴミから、お前たちの世界を終わらせにいく」
骨の街の夜風が、僕の――カースの体を、静かに撫でていった。
(第4話「裏社会の顔役・ガルト」へ続く)




