第2話「聖炎の惨劇」
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
その日は、朝から妙に空気が澄んでいた。
骨の街には珍しく、風がゴミの匂いを少しだけ運び去ってくれていて、僕はミミたちを連れて、いつもの水汲み場へ向かっていた。ネロは僕の少し先を、尻尾を振りながら歩いている。トウマが古びた木の桶を担ぎ、リタがチビの手を引く。何でもない、いつも通りの朝だった。
僕はまだ知らなかった。この「いつも通り」が、その日限りで終わることを。
「にいちゃん、みてみて。あそこ、きれいな馬車」
トウマが指差した先、大通りの向こうから、金の装飾をあしらった白い馬車がこちらに近づいてくるのが見えた。骨の街の外れを、貴族の馬車が通ることはめったにない。
その馬車の後ろには、荷馬車が数台連なっていた。荷台には、名簿らしき書類を抱えた役人風の男たちが乗っている。
「なんだろう、あれ」
僕は首を傾げた。物見遊山にしては、様子がおかしい。誰かが、大人たちが囁いていた噂話を思い出した。近頃、ライハルト家の使いが、骨の街のような下層の集落を回って、「働ける人数」を密かに調べているらしい、という話。理由までは、誰も知らなかった。ただの労役の徴用だろうと、みんな軽く考えていた。
僕は反射的に、子どもたちを道の端に寄せた。
「近づいちゃだめだよ。頭を下げて、静かにしていよう」
貴族様に対しては、失礼のないようにしなければいけない。それが、僕らのような下層民の最低限の礼儀だと、僕は信じていた。
馬車は、僕らのすぐ近くでゆっくりと止まった。
扉が開き、降りてきたのは、年若い青年だった。歳は二十歳前後だろうか。艶やかな金の髪、白く磨き上げられた肌、精霊石の刺繍が施された豪奢な外套。腰には、ほんのりと光を帯びた美しい細剣を提げている。
僕は息を呑んだ。物語の中でしか見たことのないような、完璧な「貴族様」の姿が、目の前にあった。
付き従う役人の一人が、青年に何やら書類を差し出しながら耳打ちしている。
「父上の使いなど、まったく退屈な仕事を押し付けてくれる」
青年は、面倒くさそうに書類をひらひらと振って、役人を追い払った。
「集落の頭数を数えて、名簿に書き写すだけの仕事だろう。お前たちだけでやっておけ。僕は少し、この辺りを歩いてくる」
彼はそう言うと、名簿仕事を部下に丸投げし、退屈しのぎに、ふらりと路地へと足を向けた。それが、たまたま僕らのいる方向だった。
「ほう。こんな場所にも、生き物がいるのだな」
その青年は、退屈そうに、けれど興味深そうに、僕らを見下ろした。
僕はすぐに膝をつき、頭を下げた。子どもたちも慌てて僕の真似をする。
「お目汚し、大変失礼いたしました」
声が震えているのが自分でもわかった。それでも、失礼のないように、精一杯丁寧な言葉を選んだ。貴族様の機嫌を損ねてしまえば、僕らのような人間はどうなるかわからない。それは骨の街の子どもたちなら、誰もが知っている常識だった。
そのときネロが、僕の足元から飛び出した。
「ネロ、だめ!」
僕が止める間もなく、ネロは無邪気に尻尾を振りながら、その青年貴族の足元へと駆け寄っていった。ただ、挨拶をしようとしただけなのだと思う。ネロは誰にでも懐こい犬だった。
けれど、水たまりを踏んで駆けていったネロの足から、泥水が数滴、青年の白い靴に飛び散った。
たった、それだけのことだった。
「……汚い」
青年の声が、地を這うように低くなった。
僕は顔を上げた瞬間、青年の目に浮かんだ表情を見て、背筋が凍りついた。それは、怒りではなかった。もっと恐ろしい、何かを「汚れた虫けら」として見るような、冷え切った侮蔑の光だった。
「申し訳ございません! すぐに拭かせていただきます、どうか――」
僕は靴に飛んだ泥を拭おうと、自分の袖を差し出しながら這うように前へ出た。子どもたちも、揃って頭を下げ続けた。ネロも、僕の様子がおかしいことに気づいたのか、尻尾を垂らして僕の足元に戻ってきていた。
どうか、これで許してもらえますように。
僕はただ、それだけを願っていた。
だが、青年は僕の言葉になど、初めから耳を貸すつもりはなかったのだと思う。
「不快だ」
青年はそう呟くと、腰の細剣を静かに抜いた。刀身が、精霊の光を纏ってほのかに輝く。
「貴様らのような下賤の生き物が、僕の靴に触れたことすら、本来なら万死に値する。だが今日は機嫌がいい。この僕が、特別にお前たちで遊んでやろう」
「え?」
僕が言葉の意味を理解するよりも早く、青年は剣先を、僕らのほうへ向けた。
「聖炎の光輪」
その名を口にした瞬間、剣先から、光り輝く炎の輪が生まれた。
それは、僕がこれまでの人生で見たどんな炎とも違っていた。焚き火の赤黒い炎ではない。もっと純白に近い、目を焼くほど美しい光の炎。まるで祝福のように、周囲を眩く照らしながら――それは、真っ先に、ミミの小さな体へと絡みついた。
「ぎゃあああああああっ!」
ミミの絶叫が、朝の静けさを切り裂いた。
炎は、まるで意思を持っているかのように、まずミミの右腕にだけ、絡みついていった。皮膚が焼け爛れ、小さな体が、痛みにのたうち回る。
「い、いや、いやあああ! にいちゃん、たすけ……!」
「ミミ! ミミ、待ってろ、今――」
僕は咄嗟に駆け寄ろうとした。だが、青年は、剣先をわずかに動かしただけで、炎の勢いを的確に操っていた。
「ふふ……いい声で鳴くな」
青年の口元に、うっとりとした笑みが浮かんでいた。
それは、まるで、生きたまま炙られていく小さな生き物を眺めて楽しむ、悪趣味な見世物興行の観客のような笑みだった。子どもの手足を、一本ずつ、順番に焼いていくことそのものを、彼は「余興」として味わっていた。
「腕の次は、足だ。さて、どちらの声がより甲高いか、聞き比べてみようか」
「やめろ…! やめてくれ……!」
僕は絶叫した。だが、僕の声など、青年には、羽虫の羽音ほどの意味も持たなかった。
炎は、今度はミミの左足へと移った。焼け爛れる肉の匂いと、耳をつんざく絶叫が、骨の街の朝に、いつまでも響き渡った。
僕は、自分の体を盾にしようと、ミミへと覆い被さった。だが、聖なる炎はまるで意思を持つ蛇のように、僕の腕をすり抜け、それでもミミの小さな体を、少しずつ、確実に焼き続けていった。
「あ、あああ、あつい……あついよ、にいちゃ……」
ミミの声が、次第に、言葉の形を失っていく。
「い、いや……いやだ、ミミ、ミミ! 僕を、僕を燃やせ……! 代わりに僕を……!」
僕は、自分の体を差し出すように、青年に向かって叫んだ。だが、青年は、それすらも余興の一部として楽しんでいるようだった。
「必死だな。だが、順番は守ってもらう」
最後にミミの体全体を炎が包み込んだとき、彼女の声は、もう、悲鳴とすら呼べないものになっていた。
「にい、ちゃ……」
消え入るように、小さな体が、力なく崩れ落ちた。
僕は、悲鳴すら上げられなかった。頭の中が、真っ白になっていた。
「さて、次は」
青年は、興が乗ったように、剣先をトウマとリタへと向けた。
「あまり待たせても悪いからな」
僕は、我を忘れて青年へと突進した。素手で、丸腰で、剣一つ持たない僕が、精霊術を操る貴族に敵うはずもなかった。それでも僕は、体当たりでも何でもして、少しでもトウマとリタの時間を稼ごうとした。
「邪魔だ」
青年が、片手で軽く僕を払いのけた。それだけで、僕の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。肋骨の折れる鈍い音が、体の奥から響いた。
それでも、僕は立ち上がろうとした。もう一度、もう一度と、何度も。その度に、青年は、僕を打ち据え、蹴り飛ばし、時には剣の腹で殴りつけた。
「しつこい虫けらだ」
僕の体は、瞬く間に傷だらけになっていった。頬は腫れ上がり、唇は切れ、腕はあらぬ方向に曲がっていた。それでも僕は、トウマとリタ、そしてチビを庇うように、何度も彼らの前に体を割り込ませ続けた。
トウマとリタが、抱き合うようにして倒れていくのが、霞む視界の端に映った。ほんの数瞬前まで、僕に「馬車がきれいだ」と笑いかけていたトウマの声が、もう二度と聞けないのだと、頭のどこかが冷たく理解していた。
「ヴぅ、ウウウウウ……!」
その時、ネロが、全身の毛を逆立てながら、青年へと飛びかかった。
牙を剥き出し、唸り声を上げながら、痩せた小さな体で、精霊術を操る貴族に、必死に挑みかかっていく。誰の目にも、無謀な行為だった。それでもネロは、僕を、そして子どもたちを守ろうと渾身の力で吠え続けた。
「ワン! ワン、ガアッ!」
「五月蝿い、下等な獣め」
青年は、心底うんざりしたように、剣先をネロへと向けた。
「ネロ、逃げろ……! 逃げてくれ……!」
僕は、折れた腕を引きずりながら、声を振り絞った。だが、ネロは、僕の声に従わなかった。ただ僕を守るという、その一心だけで、牙を剥き続けていた。
聖なる炎が、ネロの体を包み込んだ。
「ネロ!」
僕は最後の力を振り絞って、傍らで炎に包まれていくネロに手を伸ばした。だが、間に合わなかった。あの温かい黒い毛玉は、僕の手の届かないところで、悲しげな一声を上げて、動かなくなった。
「あ、あ、ああああああああああっ……!」
僕は喉が張り裂けるほどの声で叫んだ。ボロボロになった体で、地面に崩れ落ちたまま、何度も、何度も、みんなの名前を呼び続けた。返事はなかった。
青年は、その一部始終をまるで庭の雑草を焼いたかのような、涼しい顔で眺めていた。
「まったく、面倒な仕事を押し付けてくれる」
青年は、乱れた髪を軽く払いながら、忌々しげに舌打ちした。
「こんな仕事は、ヴァルクライン家やデュベル家のような小家にやらせておけばいいものを。おかげで僕まで、こんな悪臭のする掃き溜めに、わざわざ足を運ぶ羽目になる」
僕は、朦朧とする意識の中で、その言葉を、確かに聞いていた。
ヴァルクライン家。デュベル家。
どこか遠い世界の話だと思っていた、貴族たちの名前。だが、その言葉が、僕の中で、鈍く重い意味を持ち始めていた。
さっき見た、名簿を抱えた役人たち。「働ける人数」を調べているという噂。あれは、この目の前の男の家の、ただの気まぐれではなかった。ライハルト家のような大きな貴族が、格下の貴族家を手足のように使いながら、僕らのような下層の人間を、何かのために数え上げていたのだ。
僕らが、いつも腹を空かせていたのも。
医者にかかれず、傷を放置するしかなかったのも。
冬になるたび、誰かが凍え死んでいくのも。
あれも。
これも。
全部、あいつらが知っていたことだったのか。
あの光り輝く王都で暮らす貴族たちが、大きな家も小さな家も巻き込んで、僕らの命までも、何かの帳簿に書き込むべき「数」として扱っている。その事実が、朦朧とする頭の中に、ゆっくりと、しかし確かに沈み込んでいった。
僕は顔を上げた。涙と血で滲む視界の中、あの美しく、清らかで、憧れていた「貴族様」の顔を、まっすぐに睨みつけた。
「な……なんで……こんな……」
声が出なかった。喉が、悲しみと怒りで押し潰されそうだった。
「なんで、こんなことを……! ミミたちは、何もしていない……! ネロも、ただ挨拶をしようとしただけで……!」
「くだらん。虫けらがそれらしく死んだだけの話だろう」
青年は心底うんざりしたような顔で、僕を見下ろした。
「精霊様は、貴様らのような不浄な存在を見放しておられる。だからこそ、貴様らは光の届かぬ場所で、こうして無為に朽ちていくしかないのだ。それを不憫に思い、せめて僕の娯楽としてやったというのに、感謝されこそすれ、その目つきは何だ」
僕は、その言葉の意味が理解できなかった。理解したくなかった。
僕がずっと信じていた「正しい貴族様」は、こんな言葉を口にする人ではないはずだった。僕らを守ってくれる、清らかな存在のはずだった。
「お前は……」
僕はふらつきながら、それでも立ち上がろうとした。
「お前は、貴族なんかじゃない……! こんな……こんなことをするやつが、精霊様に選ばれているはずが……」
言い終わる前に、青年の目に、はっきりとした苛立ちが浮かんだ。
「躾のなっていないやつだ」
青年が剣を軽く振るう。刃から放たれた小さな炎の弾が、僕の胸を貫いた。
焼けるような激痛が全身を駆け巡った。僕は声にならない声を上げて、その場に崩れ落ちた。ミミの冷たくなった体が、僕の腕から零れ落ちる。
「まったく、汚らわしい」
青年は自分の靴についた僅かな泥をハンカチで拭いながら、眉をひそめてこちらを一瞥した。
「後始末をしておけ。目障りだ」
その言葉を、僕は薄れゆく意識の中で聞いた。
従者らしき者たちが、感情のこもらない手つきで僕の体を引きずり、荷車に放り込む。焼け焦げたミミたちの体も、同じように無造作に積み上げられていく。まるで、道端に落ちたゴミを片付けるかのように。
どうして。
どうして、これが「正義」なのだろう。
僕はずっと、貴族様たちを美しいものだと思っていた。精霊様に選ばれた、清く尊い人たちだと。だから僕らが貧しくても、苦しくても、それは仕方のないことなのだと、自分に言い聞かせて生きてきた。
でも、違った。
僕が今、この目で見たものは。ただの、退屈しのぎの遊びだった。
僕らの命は、あの人にとって、靴についた泥ほどの価値もなかった。
荷車が、ガタゴトと揺れながら進んでいく。行き先は、王都の外れにある、大きなゴミ捨て場だと、朦朧とした意識の中で理解した。僕らは、燃やされたまま、ゴミとして捨てられようとしていた。
荷台の隅に、動かなくなったネロの姿があった。僕は、最後の力を振り絞って、その頭に触れた。まだ、微かな温もりが残っていた。
「ネロ……ごめん……守れなくて、本当に、ごめん……」
返事は、なかった。ただ、静かに横たわるその体が、僕の指先に、かすかな重みを伝えてくるだけだった。
荷車がゴミ捨て場に到着し、僕らの体は、まとめて崖の下へと投げ捨てられた。
鈍い衝撃と共に、僕の体は瓦礫とゴミの山に埋もれていく。もう指一本、動かす力も残っていなかった。降り注ぐ夕闇の中、僕はぼんやりと空を見上げた。
遠くに、あの光り輝く王都の城壁が見える。
美しい、白と金の光。かつて僕が焦がれ続けた光。
あの光の下で、あいつ年は今頃、何事もなかったかのように優雅な夕食を囲んでいるのだろう。ミミの最後の声も、トウマの悲鳴も、ネロの震えも、あいつにとっては、既に忘れられた出来事に過ぎないのだろう。
許さない。
薄れゆく意識の底で、何かが静かに、けれど確かに燃え上がるのを感じた。
絶対に、許さない。
僕が信じてきた「正義」も、「清らかさ」も、「精霊様に選ばれた尊い人々」も、全部、まやかしだった。あるのはただ、力を持つ者が、持たざる者を虫けらのように踏み潰す、それだけの、単純で残酷な世界だった。
僕は、優しいノアのままでは、もう生きていけない。
この理不尽を、この世界そのものを、僕はきっと――
薄れる意識の中、僕の体を包むゴミの奥底で、何か禍々しい気配が、静かに、僕を呼んでいる気がした。
それが何なのか、僕にはまだわからなかった。
けれど、その気配に手を伸ばすことを、僕はもう、躊躇わなかった。
(第3話「呪術師カースの誕生」へ続く)




