第1話「スラムの太陽、ノア」
朝靄の匂いは、いつも同じだ。饐えた残飯と、生ゴミと、洗われることのない体の匂い。それに、少しだけ煙の匂いが混じる。誰かが夜のうちに凍え死んで、朝になって焼かれた匂いだ。
ここは王都ヴェルガリアの外郭、通称「骨の街」。
僕――ノアが生まれてからずっと暮らしているこの場所は、地図にすら正式な名前が載っていない。載る価値がないと、貴族様たちは思っているのだろう。ゴミ捨て場の隣に建ち並ぶ、板きれと錆びたトタンでできた家々。雨が降れば泥の川になる道。井戸は遠く、水は濁っていて、飲む前に必ず布で漉さなければお腹を壊す。
けれど、僕はこの街が嫌いじゃなかった。
「ノアにいちゃん、おなかすいた」
小さな声に振り向くと、まだ五歳になったばかりのミミがズボンの裾を引っ張っていた。頬はこけて、腕は枯れ枝みたいに細い。それでも、僕を見上げる目だけは、驚くほど澄んでいる。
「よし、待ってろ。今日はいいパンが手に入ったんだ」
僕は懐から、市場の隅で拾ったパンの耳を取り出した。硬くなっていたけれど、水に浸せば食べられる。本当は自分の分だったけれど、ミミの目を見たら、そんなものはどうでもよくなってしまった。
「にいちゃんは?」
「僕はさっき食べたから平気」
嘘だ。でも、こういう嘘は、つき慣れている。
僕の周りには、いつも小さな子どもたちが集まってくる。親を亡くした子、捨てられた子、親はいてもまともに世話をされない子。骨の街には、そういう子どもがゴミよりも多い。僕自身、物心ついたときにはもう一人だった。誰が僕を「ノア」と名付けたのかも知らない。
だから僕は、自分が誰かの「兄」であり、「父」であり、「母」でありたいと思った。
「ネロ! 待たせたね」
僕が声をかけると、廃材の陰から黒い毛玉が飛び出してきた。片耳が欠けた、痩せた黒い野良犬。誰にも拾われず、ゴミ捨て場の奥で震えていたところを僕が見つけて、それからずっと一緒にいる。名前も僕がつけた。ネロ――「黒」という意味を、どこかで聞きかじった古い言葉から拝借した。
ネロは尻尾を千切れそうなくらい振って、僕の足に体をこすりつけてくる。パンの耳を一切れ、こっそり分けてやると、勢いよく食いついた。
「ノアにいちゃん、あれなに?」
ミミが指差した先、骨の街のどこからでも見える、あの光景。
僕らの目の前には、絶望的なまでの落差があった。
振り返れば、傾いた掘っ立て小屋と、割れた瓶や折れた木材が積み上がる灰色の景色。目を凝らさなければ、生きている人間がいるのかすらわからないほど、色のない世界。
けれど視線を上げれば、丘の向こうに、まるで別の世界が浮かんでいる。
白と金でできた城壁。陽の光を弾いて輝く尖塔。塔の先端には、精霊石とかいう美しい宝石がいくつも埋め込まれていて、夜になると星のように光るのだと聞いたことがある。城壁の内側には、青々とした庭園が広がっているらしい。花はいつも満開で、噴水は涸れることがなく、道には汚れひとつない。
あそこが、中央王都。
精霊様に選ばれた、七大貴族と王族が暮らす、光の国。
「あそこはね、貴族様と王様が住んでいるところだよ」
僕はミミの隣にしゃがみこんで、目線を合わせた。周りには他の子どもたちも集まってくる。トウマ、リタ、まだ言葉もろくに話せないチビ。全部で七人。今日はみんな揃っている。
「きぞくさま……?」
「そう。精霊様の力を分けてもらえる、特別な人たちのことだよ」
僕は空を見上げた。雲ひとつない、青い空。
「昔々、この世界にはね、精霊様と呪いっていう、二つの大きな力があったんだって。精霊様は火とか水とか風とか、自然そのものの力を持っていて、優しくて、清らかで、正しい心を持った人にだけ力を貸してくれるんだ」
「じゃあ、呪いは?」
トウマが眉をひそめて聞いた。八歳のトウマは、少し前まで賭博場の下働きをさせられていて、大人の悪意というものを僕よりよっぽど知っている。
「呪いはね……悪いものだよ」
僕は言葉を選びながら続けた。子どもたちにあまり怖い話をしたくはなかったけれど、これは大事なことだから、ちゃんと伝えなきゃいけない。
「数百年前、呪いの力を持った悪い術師たちが、世界を自分のものにしようとしたんだ。人を生贄にしたり、血を捧げたり……そういう、恐ろしいことをして力を得ていたんだって。それで大きな戦争になった」
「聖呪大戦、だっけ」
リタが小さく呟いた。教会の壁に貼られた古い絵を見たことがあるのだろう。炎に包まれた大地と、それに立ち向かう白い光をまとった戦士たちの絵。
「そう、リタ、よく覚えてたね」
僕はリタの頭を撫でた。褒められて、リタは照れくさそうに笑う。
「その戦争で、精霊様の力を借りた勇者様たち――今の貴族様や王様のご先祖が、命がけで戦って、悪い呪術師たちをやっつけたんだ。そのおかげで、僕らは今、こうして生きていられる」
「でも……」
ミミが小さな声で言った。
「でも、おなかすいてる」
僕は言葉に詰まった。
「あそこにいるひとたちは、おなかいっぱいごはんたべてて。あたしたちは、なんでこんなにおなかすいてるの?」
正直に言えば、僕にもわからない部分はある。
でも、僕はミミの目を見て、はっきりと言った。それは、僕自身が信じていることでもあったから。
「それはね、僕らがまだ、精霊様に見つけてもらえていないだけなんだ」
「みつけてもらえてない?」
「うん。貴族様たちは、精霊様との契約に選ばれた特別な血筋の人たちなんだ。だから彼らは戦って、この国を治めて、僕らみたいな平民を守ってくれている。ちゃんとしたお仕事なんだよ、あれは。僕らが見えないところで、たくさん頑張ってくれているんだ」
僕自身、王都に足を踏み入れたことは数えるほどしかない。でも、遠くから見る貴族の馬車、白い制服を着た精霊騎士団の行進。その一つひとつが、僕には眩しくて、美しくて、憧れそのものだった。
「僕らが貧しいのは、貴族様たちのせいじゃない。この世界が、まだ完全じゃないだけなんだ。だからね、僕らも、精霊様に恥ずかしくないように、正しく、優しく生きなきゃいけない。そうすればいつか、僕らのところにも光が届くはずだから」
「呪いをつかっちゃだめなの?」
トウマが聞いた。
「絶対にだめだ」
僕はいつになく強い口調で言った。
「呪いの道具や言葉を持っているだけで、死罪になるんだ。それくらい、恐ろしくて、汚いものなんだよ。もしどんなに苦しくても、辛くても、絶対に手を出しちゃいけない。約束だよ」
「やくそく」
子どもたちが口々に繰り返す。僕はその一人ひとりと、指切りをした。小さくて、冷たくて、ガリガリに痩せた指。この子たちの指を、僕は絶対に離したくなかった。
「にいちゃん、なんでそんなに、むかしのことくわしいの?」
リタが、不思議そうに首を傾げた。
「うふふ。ノアにいちゃんね、字が読めるんだよ」
トウマが、少し得意げに答えた。骨の街で、文字を読める人間は、大人ですら数えるほどしかいない。
「内緒だぞ、これは」
僕は、廃材小屋の隅に隠してある、ぼろぼろの木箱を引きずり出した。蓋を開けると、中には、表紙も裏表紙もとうに失われた、分厚い本が一冊、大事にしまわれていた。
二年前、ゴミの山を漁っていた時に見つけたものだった。おそらく、貴族街から捨てられた蔵書の一部なのだろう。虫食いだらけで、ページの半分近くは黄ばんで判読すら難しい。それでも、僕はこの本を、宝物のように大切にしていた。
最初は、絵本のように挿絵を眺めるだけだった。だが、市場で古い教本を売る老人に、パン一つと引き換えに、少しずつ文字の読み方を教えてもらった。それから毎晩、寝る前の僅かな時間、燃えかすの明かりを頼りに、一文字一文字、辞書を引くように読み進めてきた。
この本には、『エレニア建国史』という、掠れた題字が記されていた。
「聞きたい? この国の、本当の歴史」
子どもたちは、目を輝かせながら、僕の周りに集まってきた。
僕は、擦り切れたページを、そっと開いた。
「この世界には、大昔、二つの理があったんだって」
僕は、覚えたばかりの言葉を、たどたどしく読み上げていった。
「精霊様と、呪いの力。どっちも、自然や、命そのものが持つ、大きな力だった。最初は、精霊も呪いも、どっちが良いとか悪いとか、そういう話じゃなかったらしい。人々は、両方を敬いながら、一緒に生きてたんだって」
「呪いも、悪いものじゃなかったの?」
トウマが、意外そうに聞いた。
「うん。でも、数百年前……『大呪術師』って呼ばれる人が現れたんだ」
僕は、指でページをなぞった。
「その人は、呪いの力を使って、世界を全部、自分のものにしようとした。生贄を捧げさせたり、人を苦しめたりして、力を集めたんだって。それで、大勢の呪術師たちを従えて、戦争を始めた。それが――聖呪大戦」
「せいじゅ、たいせん」
ミミが、覚えたての言葉を、大事そうに口の中で繰り返した。
「その戦争で、精霊様と契約した人たち――今の貴族様たちのご先祖が、命がけで立ち上がったんだ。何年も何年も戦い続けて、最後には、大呪術師とその一族を、みんな倒した」
僕は、次のページを開いた。そこには、焼け落ちた城のような絵が、粗い筆致で描かれていた。
「戦争が終わった後、勝った精霊様たちは、呪いに関する道具や記録を、全部壊して、封印したんだって。それに呪術師の血を引いてる人や、少しでも疑いのある人を、何世代にもわたって、探し出して、滅ぼしていったって書いてある」
「みんな、ころされちゃったの?」
リタが、怖そうに聞いた。
「うん。だから今は、呪術を使う人なんて、誰もいないはずなんだ。呪いの力そのものが、この世界から、消えてしまったんだって」
僕は、本をそっと閉じた。
「呪術師の人たちが、どれだけ酷いことをしたのか……僕には、正直、これくらいしかわからない。でも、こんなに大きな戦争になって、貴族様たちが命がけで僕らを守ってくれたっていうのは、本当のことなんだと思う」
「にいちゃん、すごいね。むずかしいほんが、よめるんだね」
ミミが、尊敬の眼差しで僕を見上げた。
「これくらい、大したことないよ」
僕は、照れくさくなって、ミミの頭を撫でた。
本当は、この本を読むたびに、僕の胸の中には、言葉にならない疑問が、いくつも浮かんでは消えていった。
呪いも、元々は悪いものじゃなかったって、書いてある。
なのに、どうして、今はこんなに恐れられているんだろう。
呪術師の一族を根絶やしにするって、それは、本当に「正義」って呼べるものなんだろうか。
だが、そんな疑問を、僕は誰にも口にしなかった。ましてや、自分自身にすら、深く問いかけることはしなかった。
貴族様たちは、正しい。精霊様は、清らかで美しい。
その信念を疑うことは、僕にとって、自分の生きる意味そのものを疑うことと、同じだったから。
それにしても、と僕は思う。
僕らの暮らしぶりと、あの丘の向こうの暮らしぶりを比べると、時々胸の奥がざわつく。
骨の街では、病気になっても医者にかかれない。傷口が膿んで死んでいく大人を、僕はもう何人も見てきた。冬になれば、凍え死ぬ人が必ず出る。井戸の水は濁り、パンにはカビが生える。それでも、貴族街では毎晩のように宴が開かれ、着られなくなったドレスが惜しげもなくゴミに出されるのだと、噂で聞いたことがある。
けれど僕は、その落差を「不公平だ」とは思わなかった。思いたくなかった、というほうが正しいのかもしれない。
だって、あそこにいる人たちは、精霊様に選ばれた清らかな人たちなんだ。そう信じていれば、この理不尽な世界にも、ちゃんと意味があるように思えた。いつか自分も、正しく生きていれば、あの光の中に迎え入れてもらえるかもしれない。そんな、子どもじみた夢を、僕はずっと捨てられずにいた。
「ノアにいちゃんは、きしさまになるの?」
ミミが聞いた。以前、僕がぽつりと零した夢を、覚えていてくれたらしい。
「うん、なれたらいいなって思ってる」
僕は精霊騎士団の白い制服を思い浮かべながら答えた。
「立派な騎士になって、みんなを守るんだ。ミミもトウマもリタも、お腹いっぱいご飯が食べられるようにする。ネロにも、あったかい寝床を用意してやる」
僕がそう言うと、ネロが「わふっ」と一声鳴いて、僕の膝に頭を乗せてきた。柔らかい毛の感触。この子だけは、僕がどんなに貧しくても、汚れていても、変わらずに寄り添ってくれる。
「約束だ。僕は絶対に、みんなを守る立派な人間になる」
その日の夕方、僕はいつものように廃材置き場から拾ってきた布を子どもたちの寝床に敷き詰めた。チビが熱を出していたので、僕は自分の上着を脱いで、その小さな体をくるんでやった。夜風は冷たかったけれど、寒さよりも、みんなが安心して眠れることのほうが大事だった。
「にいちゃん、さむくない?」
半分眠りかけたトウマが、心配そうに聞いてくる。
「平気だよ。僕は寒さに強いんだ」
本当は、骨の芯まで凍りそうだった。それでも、僕は笑って見せた。誰かがそばで笑っていれば、寒さなんて、少しはましになる気がしたから。
チビの咳が少し治まった頃、ネロがのっそりと立ち上がり、寝転んでいるチビの隣に体を横たえた。まるで、熱を分け与えるように、そっと寄り添うようにして。チビは寝ぼけたまま、小さな手でネロの黒い毛を握りしめる。ネロは嫌がる素振りひとつ見せず、目を細めて、チビの寝息に合わせるように、自分の息遣いまでゆっくりにしているように見えた。
僕はその光景を、しばらく黙って眺めていた。
誰に教わったわけでもないのに、ネロはいつも、一番弱っている子の隣を選んで眠る。ミミが熱を出した日も、リタが泣きじゃくった夜も、気づけばネロは、その子のそばに丸くなっていた。
僕よりもよっぽど、誰かを気遣うということを知っている。
「お前は、本当にいい子だね」
僕はネロの頭を撫でながら、小さく笑った。ネロは答える代わりに、片方の耳をぴくりと動かして、それから満足そうに目を閉じた。
こんな夜が、僕は好きだった。
冷たい風が吹き込む隙間だらけの小屋で、お腹はいつも空いていて、明日の食べ物の当てもない。それでも、誰かの寝息と、誰かの温もりと、ネロの規則正しい息遣いに包まれていると、僕はこれ以上何を望めばいいのかわからないくらい満たされた気持ちになった。
みんなが、ちゃんと生きている。
それだけで、今日という日には、確かな意味があった。
ネロが僕の背中にぴったりとくっついて丸くなる。その温かさに、僕はほっと息を吐いた。
王都の方角から、遠くかすかに、鐘の音が聞こえてくる。夜の祈りを告げる、精霊教会の鐘だ。あの音が聞こえるたび、僕は目を閉じて、心の中で祈った。
どうか、この子たちに、少しでいいから光が届きますように。
どうか、僕がこの子たちを守り続けられますように。
いつか自分もあの光の中に立てる日が来ることを、僕はまだ、疑ってもいなかった。
王都の方角から、遠くかすかに、鐘の音が聞こえてくる。
(第2話「聖炎の惨劇」へ続く)




