第0話「裁きの夜」
夜の裏路地を、荒い息遣いと複数の足音が駆け抜けていた。
「ま、待て……! 待ってくれ……!」
先頭を走る男は、金糸の刺繍が施された上着を血で汚し、何度も足をもつれさせながら逃げていた。その後ろを、三人の護衛が剣を抜いて固めている。狭い路地には、靴音と荒い呼吸だけが響いていた。
「閣下、お早く……! ここを抜ければ……!」
護衛の声が途切れた。
前方の闇から、人影が歩み出た。
いつからそこにいたのか分からない。気配を感じさせなかった。ただ、逃げ道を塞ぐように、少年は路地の中央に立っていた。
護衛の一人が松明を掲げる。
炎に照らされたのは、目の周りに黒い紋様を纏った、まだ若い少年だった。その傍らには、大剣を担いだ男。そして、少し離れた場所に、小柄な人影が立っている。
三人は、いつの間にか逃げ道を囲んでいた。
「化け物どもだ……!」
「化け物、か」
少年、カースの声に、怒りはなかった。
「お前らには、そう見えるんだろうね」
護衛の一人が恐怖を振り払うように叫び、剣を振りかぶった。
だが、刃が届くより早く、少年の足元から黒い影が膨れ上がる。
「犬神の怨牙」
闇の中から、黒い獣の顎が現れた。
次の瞬間、獣は護衛の喉元へ食らいつき、その身体ごと地面へ叩き伏せた。血が石畳に飛び散る。
残った二人が、とっさに身構える。
その足元を、細い糸が走った。
「遅い」
糸が足首へ絡みつく。
護衛の身体が大きく傾いた。倒れまいと踏ん張った瞬間、小柄な人影の手から一本の針が飛ぶ。
針は寸分違わず急所を貫いた。
護衛は声を上げることもできず、膝から崩れ落ちた。
小柄な人影は、倒れた男にはもう興味がないと言わんばかりに、絡めた糸を淡々と手繰り寄せる。
「あとは、俺だけか」
残った護衛が剣を構えた。
大剣を担いだ男が、一歩前へ出る。
振り下ろされた剣を、大剣が正面から受け止めた。
甲高い金属音が路地に響く。
だが、力の差は明らかだった。
大剣がわずかに動いた瞬間、護衛の剣が弾き飛ばされる。続く一撃が首筋を薙ぎ、男はその場に崩れ落ちた。
「……相変わらず、容赦ねぇな」
大剣を担いだ男が、血の滴る刃を軽く振った。
「口ではそう言って、一番深追いするのは自分でしょ」
「……うるせぇ」
二人のやり取りを聞き流し、カースは一人残された貴族へ歩み寄った。
貴族は腰を抜かし、地面に尻をつけたまま後ずさる。背中が石壁にぶつかり、それ以上は下がれなかった。
「な、なぜだ……! 呪術師なんて、とうの昔に根絶やしにされたはずだ……!」
「滅びた、じゃない」
カースは貴族の前に膝をついた。
「お前たちが、滅ぼしたことにしたかっただけだ」
その言葉を聞いた瞬間、貴族の顔から血の気が引いた。
直後、身体の内側から異変が起こった。
皮膚の下が蠢き、あちこちが不自然に盛り上がっていく。血管が浮き、肉の内側で何かが這い回っているようだった。
「あ、ああああ……! やめ、やめてくれ……!」
「蠱毒の刻印」
カースは、ただそれを見つめていた。
貴族の絶叫が路地に響き渡る。
やがて、その声も途切れた。
後には、血の臭いと、冷えた石畳だけが残された。
「これで、何人目だ」
暗がりから、ひとりの男が姿を現した。
「数えちゃいないよ」
カースはそう答え、首から下げていたネロの呪核を取り出した。
黒い呪核を指先で包み込む。
その夜、王都の裏側で起きた出来事は、朝を迎える頃には人々の口から口へと伝わっていた。
「呪術師が、まだいる」
「根絶やしにしたはずの呪術が、また動き出している」
貴族たちの間には、恐怖と動揺が広がった。
だが、貧民街で囁かれた言葉は、それとは少し違っていた。
長い間、貴族の力に踏みつけられてきた者たちにとって、それは恐怖だけを意味する噂ではなかった。
誰も、その少年の名を知らない。
それでも、人々はその存在を感じ取っていた。
王都を支配してきた秩序の裏側で、何かが動き始めている。
この夜を境に、絶対だと思われていた王都の秩序に、消えることのない亀裂が走り始めた。
(第1章「呪術師カース誕生」へ)




