第20話-2「凍える宮廷」
「また貴様か」
ウォルターが鬱陶しそうに見上げる。
窓の外から、ひらりと人影が舞い降りる。馬車の揺れなどものともせず、アズラエルは窓枠に腰を掛けると、車内を覗き込んだ。
「国王アーサーがさ、精霊王の力が底をつくのを恐れて、自分たちの贅沢を守るために地方への分配をガッツリ減らしたんだよ」
「だから、土地が枯れてるのか?」
「そう。精霊の恩恵にどっぷり浸かっていた土地ほど、供給を止められた途端にこうして死んでいく」
アズラエルは、窓の外へ視線をやった。アメジストの瞳が、遠くに広がる荒野を眺める。そこに哀れみの色はない。むしろ、珍しい玩具でも見つけたような、愉しげな光が浮かんでいた。
かつては畑だったのだろう。土はひび割れ、枯れた作物の残骸が風に揺れている。道端には粗末な小屋が並び、その前を俯いた人々が力なく歩いていた。
「王家は自分の腹を満たす。貴族は残った餌を奪い合う。で、餌にすらありつけない連中がどうなると思う?」
「......飢える」
「その通り」
アズラエルは、まるで答え合わせを楽しむ子供のように笑った。
「だから街に集まる。仕事を求めてね。でも仕事はない。食べ物もない。住む場所もない。そうなると――人間って、どこまで落ちると思う?」
「......」
「面白いよね。上にいる連中は、ほんの少し自分の取り分を増やしただけなのに」
「面白い、だと?」
ウォルターの声が低くなる。アズラエルは、肩をすくめた。
「そう? ボクは結構好きだけどな。人間が追い詰められて、綺麗事を一枚ずつ脱ぎ捨てていくところ」
「貴様は本当に趣味が悪い」
「よく言われるよ」
アズラエルは、くすくすと笑った。
「王家は自分を守るために地方を切り捨て、七大貴族は細ったパイを巡って醜く奪い合う。一番しわ寄せがいくのは、いつだって一番下にいる連中さ」
「反吐が出るな」
ウォルターが硬い声で吐き捨てる。アズラエルは、その言葉を聞いても気を悪くした様子はなかった。
むしろ、愉快そうに目を細める。その笑顔には、目の前に広がる荒野への同情など、微塵も浮かんでいなかった。
カースは二人の会話を聞き流しながら、もう一度、窓の外へ目を向けた。
荒れた畑。崩れかけた小屋。痩せた人々。
それらを眺めていると、胸の奥に重たいものが溜まっていく。この景色も、最初からこうだったわけではないのだろう。
誰かが決めた。誰かが削った。誰かが、自分たちの暮らしを守るために、ここに届くはずだったものを止めた。
その結果が、目の前にある。
けれど、そんな土地を見下ろしながら、暖かい部屋で食事をしている者たちもいる。そう考えると、胸の奥に残った重さが、少しずつ苛立ちへと変わっていった。
「でもね」
アズラエルの声が、その思考を遮った。
「もっと面白いこともあるんだよ」
ニヤリと、口角が上がる。
「追い詰められた七大貴族の一部が、生き残るためにとんでもない道楽を始めたんだ」
「とんでもない道楽?」
カースが問い詰める。
「人体実験」
その言葉が車内に落ちた。アズラエルの瞳が、妖しい歓喜に揺れる。今まで聞こえていた車輪の音まで、妙に遠くなった気がした。
「精霊の力を強引に人間に移植する禁忌の研究さ。大昔からコソコソやってたみたいだけど、背に腹は代えられなくなった連中が、最近本格的に検体を集め出してる」
その言葉を聞いた瞬間、シークの身体がピクリと跳ねた。しかし、誰もその変化には気づかなかった。
シークは自分の手を見た。指先が、わずかに震えている。けれど、その震えを止めるように、拳を握り込んだ。
「どこの家?」
カースの声が低く沈む。
「それはまだ秘密。自分で確かめた方が楽しいでしょ?」
「アズラエル」
「そんな顔しないでよ」
アズラエルは楽しげに笑うと、トンと軽やかに馬車の屋根を叩いた。
「まあ、このまま北へ向かえば、嫌でもその成果物にお目にかかれると思うけどね」
アズラエルの姿が屋根の向こうへ消える。しばらく、車内には沈黙が残った。カースはシークを見た。
シークは何事もなかったように窓の外を見ている。
「......シーク」
「何?」
「大丈夫?」
「......何が?」
「いや......」
カースはそれ以上聞かなかった。
シークが話したくないことなら、無理に聞き出すべきではない。
ただ。
その横顔には、いつもの無表情とは違う何かがあった。
近隣の宿場町に着くと、ウォルターがすっと立ち上がった。
「俺は少し街の酒場を回って、手頃な情報を拾ってくる」
「一人で行くの?」
カースが尋ねる。
「俺とシークじゃ、情報の引き出し方が違うからな」
ウォルターはポンと自分の胸を叩いて笑う。
「コソ泥みたいに屋根裏へ忍び込むのはあいつの領分だ。俺は酒と金を使って、堂々とバカな振りをしながら聞き出すさ」
「......分かった。気をつけて」
「お前に言われると、妙に保護者みたいだな」
「ウォルター」
「冗談だよ」
ウォルターは笑いながら宿を出ていった。
ウォルターが足を運んだのは、気荒い男たちが集う場末の酒場だった。
安酒の匂いと紫煙が充満する店内で、ウォルターは銅貨をテーブルに散らし、隣に座る擦り切れた服の男に酒を注いだ。
「北の方は随分と寒気も懐も冷え込んでいるようだな」
「冷え込んでるどころの話じゃねえよ」
男は酒を一気に喉へ流し込んだ。
「畑は死に体、仕事の口もねえ。食えるだけでもマシって連中がゴロゴロいる」
「アイスフェルト城あたりの領はどうなんだ?」
ウォルターは何気ない風を装って尋ねる。男は鼻で笑った。
「さあな。あそこは氷の城塞に籠もった貴族様たちの庭だ。俺らみたいな下民が入れる場所じゃねえ」
「……最近、若い奴らが街から消えてるって噂を聞いたんだが」
その瞬間だった。男の手が止まった。杯の中で、酒が小さく揺れる。
「……おい」
男が声を落とした。
「あんた、誰からそんな話を聞いた?」
「ただの噂さ」
ウォルターは何でもない顔で酒を煽った。
「これから北へ向かう行商でね。物騒な土地なら避けて通りたいだけだ」
「そうか」
男は納得した様子ではなかった。周囲を一度見回す。隣の席の男がこちらを見ていないことを確認してから、さらに声を落とした。
「……本当に消えてるんだよ」
「何人くらいだ?」
「数なんざ、いちいち数えてねえ。だが、特に目立った身寄りのねえ若い奴らがな」
「どこへ行った?」
「知るかよ」
男は苛立ったように杯を置いた。
「ただ……」
「ただ?」
「アイスフェルトの黒い馬車に乗った役人どもが連れて行ったって話だ」
ウォルターの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「……なるほどな」
それ以上は聞かなかった。男の顔に浮かんだ怯えが、本物だったからだ。
ウォルターは酒代を置くと、何食わぬ顔で席を立った。
同じ頃――。
シークは、夕闇に包まれた街の屋根の上を飛んでいた。瓦を踏む。蹴る。次の屋根へ飛ぶ。その足音は、ほとんど夜の風に紛れていた。身体強化の精霊術。
血筋によって精霊に愛された貴族の術とは一線を画す、歪で、力任せな術の行使。
物心つく前に連れ去られ、暗い地下室で身体を刻まれ、強引に精霊の力を植え付けられた記憶の残り香。
不完全なその力でも、夜の影に紛れるには十分すぎた。
シークは屋根から屋根へと飛び移った。冷たい風が頬を切る。それでも止まらない。自分でも、なぜこんなに急いでいるのか分からなかった。ただ、アズラエルの言葉だけが、頭から離れない。
人体実験。
精霊の力を人間に移植する。その言葉を聞いた瞬間から、胸の奥に沈めていた何かが、ずっと騒いでいる。シークは、さらに屋根を蹴った。
路地裏の建物の隙間に滑り込み、呼吸を殺して耳を澄ます。
「......昨日も隣町の娘が連れていかれたそうだ」
「またかよ......これで今月に入って何人目だ?」
「しっ、声を落とせ! アイスフェルトの密偵に聞かれたら俺たちまで連れていかれるぞ」
別の男が慌てたように遮る。
「......どこへ運ばれてるんだ?」
「地下だよ。あの冷たい氷の城の、さらに下だ......」
シークは闇の中で瞳を極限まで細めた。胸の奥で、ドクリと嫌な記憶が脈打つ。
地下。その言葉だけで、身体が覚えている恐怖が蘇る。
冷たい床。手首に食い込む拘束具。鼻を刺す薬品の臭い。誰かの叫び声。
そして――自分の身体に何かが入り込んでくる、あの感覚。
「……っ」
シークは胸元を押さえた。息が浅くなる。喉の奥が乾いた。忘れていたはずだった。いや。忘れたことにしていた。そうしなければ、生きていけなかった。シークはゆっくりと手を離した。
「……まだ、いる」
誰に言うでもなく呟く。
あの地下に。
自分と同じような目に遭っている人間が。そう思うと、足を止めることができなかった。
その帰り道、路地の奥まった一角で、シークはふと足を止めた。積み上げられた木箱の陰、震えながら蹲る小さな影があった。
「誰だ」
シークが低く威嚇すると、影がびくりと肩を跳ねさせた。
「......ご、ごめんなさい! 何も盗ってないです、ただ、隠れてただけで......!」
声変わりしたばかりの、まだあどけなさの残る少年の声だった。歳の頃は、シークと同じくらいだろうか。薄汚れた粗末な服、痩せた頬。だが、その首筋には、見覚えのある徴が刻まれていた。焼き印にも似た、精霊術による強制的な回路の痕。
シークは、その痕を見た瞬間、息を呑んだ。
見間違えるはずがない。自分の身体にも、同じものがあった。
「......お前も、実験を受けたの?」
少年は、びくりと体を強張らせた。逃げようとするように腰を浮かせかけたが、足に力が入らないのか、その場にへたり込んでしまう。
「......逃げてきたんです。地下から。みんな、まだ......」
少年の声が、震えながら途切れた。
「みんな?」
「一緒に捕まってた、他の子たちです。僕だけ、たまたま隙間から逃げられて......でも、みんなは、まだあそこに......」
少年は、両手で顔を覆った。指の隙間から、嗚咽が漏れる。
「怖くて、怖くて......でも、僕一人だけ逃げて、みんなを置いてきちゃった。それが、ずっと苦しくて」
その素直な、隠しきれない恐怖と罪悪感の吐露に、シークは、しばらくの間、何も言えずに立ち尽くしていた。
自分もまた、あの地下室で同じような恐怖を味わってきた。だが、自分はそれを表に出す術を、ずっと知らなかった。感情を殺し、ただ耐えることでしか、生き延びられなかった。
目の前のこの少年は、違う。怖いものは怖いと、素直に泣き、悲しいことは悲しいと正直に声を上げている。
「......名前は」
「......ミト、です」
「ミト」
シークは、その名を静かに繰り返した。
「立てよ。凍え死ぬ前に、宿まで案内するからさ」
「え......」
「仲間が、いるんだ。お前の話を聞きたがるはず」
ミトは、戸惑ったように、涙で濡れた顔を上げた。
「......信じて、いいんですか」
「さあ」
シークは、素っ気なく答えた。
「だけどさ、ここで凍え死ぬよりは、ましだと思うよ」
ミトはしばらく黙っていた。やがて、涙で濡れた顔を少しだけ歪める。泣いているのか、笑っているのか、よく分からない顔だった。
「......ありがとう、ございます」
シークは何も言わなかった。ただ、差し出した手を引かなかった。ミトは少し迷ってから、その手を取った。
ひどく冷たい手だった。
まるで、長いあいだ冬の中に置き去りにされていたような冷たさだった。
宿の一室に連れ帰られたミトは、出された温かいスープを、両手で包み込むようにしていた。湯気が顔にかかる。何度か息を吹きかけてから、恐る恐る口をつける。
しばらく黙って飲んでいたが、ぽつり、ぽつりと、自らの体験を語り始めた。
「......ある日、突然、役人が家に来て。『徴用だ』って、有無を言わさず連れていかれて」
カースは、その話を、静かに聞いていた。
「地下の施設には、僕みたいな子が、たくさんいました。毎日、何かの薬を打たれて、痛くて、苦しくて......何人か、動かなくなった子もいました」
ミトは俯いた。声が、震えている。部屋が静まり返り、薪が、ぱちりと音を立てた。
「僕は、たまたま、掃除に使われてた裏口から、逃げられたんです。でも、みんなは、まだ......」
「......逃げてきたのは、いつだ」
ウォルターが、静かに尋ねた。
「三日前です」
「三日前……」
ウォルターは短く息を吐いた。
「よく、無事だったな」
「運が良かっただけです」
ミトはそう言って、またスープへ視線を落とした。
「僕なんかより、まだ中にいるみんなの方が、ずっと大変で......」
その言葉に、嘘や誇張は微塵もなかった。ただ純粋に、自分を置いて逃げてしまった仲間たちを案じる素直な優しさだけがあった。シークは部屋の隅でその様子を、じっと見つめていた。
「......お前はさ」
シークが、ぽつりと口を開いた。
「怖いことを、怖いと言えるんだな」
「え?」
「悲しいことを、悲しいと」
ミトは、少し戸惑ったように、シークを見つめ返した。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
「――そっか」
シークは、それだけ答えると、視線を窓の外へと戻した。雪の気配を含んだ風が、窓を小さく鳴らしている。シークの顔には、いつもの無表情が戻っていた。けれど、その口元には、ほんのわずかに、今までにはなかった柔らかさがあった。
カースは、その横顔を見ていた。何か言うべきなのかもしれない。けれど、今は何も言わないほうがいい気がした。
だから、ただミトへ視線を戻す。怯えた目。震える手。そして、その奥にある、まだ消えていない光。
それを見ているうちに、カースの胸の奥で、古い記憶が疼いた。助けを求める声。伸ばした手。あと少しだった。それなのに、届かなかった。ミミの最後の悲鳴。チビやトウマとリタの崩れ落ちる姿。
何度忘れようとしても、消えてくれない。
あの日、自分は何も救えなかった。今でも、冷たい澱のようにその無力感は胸の底に残っている。
けれど――。
カースはゆっくりと拳を握った。目の前にいる少年は、まだ生きている。地下には、まだ他の子供たちがいる。まだ、間に合う。まだ、誰かを救える。
「ミト」
「は、はい」
カースは、その目をまっすぐ見つめた。
「まだ中にいる、その子たちを――僕らが、助け出す」
声は大きくなかった。その言葉に、迷いは微塵もなかった。それは、目の前の少年への誓いであると同時に、あの日、守れなかった者たちへの、遅すぎる償いでもあった。
「……本当に、ですか」
ミトは、大きく目を見開いた。
「うん」
「でも、あそこは、氷の城の地下です。とても、危険で......」
「知ってる」
カースは、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「だけど、見過ごして、素通りするつもりはないよ」
ミトの目に、じわりと、涙が浮かんだ。
「......ありがとう、ございます」
彼は、深く、深く頭を下げた。
その光景を見つめながら、シークは、誰にともなく、小さく呟いた。
「――俺も、そうだった」
誰も、その呟きを、聞き逃さなかった。
(第20話-3「凍える宮廷」へ続く)




