第20話-1「凍える宮廷」
グルントハルト家の当主が斬首された。
その報せが届いたのは、アズラエルの隠れ家で傷を癒し、態勢を立て直した一行が、再び北への旅路に戻ってから二日目の夕刻のことだった。
馬車の中には、しばらく誰も口を開かなかった。
車輪が石と土を噛む音だけが、一定の間隔で車内へ響いている。
時折、車体が大きく揺れるたび、吊り下げられた小さなランプの火が揺れ、その明かりが乗っている者たちの顔を一瞬だけ照らしては消えていく。
凍りつくような重苦しい沈黙が車内を支配し、誰もがそれぞれの胸中に思いを巡らせていた。
グルントハルト家。
つい数日前まで、この国の一角を支配していた七大貴族の一つ。その当主の首が、もう王都の処刑台から落ちた。
あまりにも早い。
そして、あまりにも呆気ない。かつては誰も逆らえないほどの権力を握っていた男が、たった数日のうちに「罪人」となり、その首を晒される。権力というものが、崩れるときはこんなにも簡単なのか。
けれどカースにとっては、それで終わりというわけではなかった。
車輪が軋む重苦しい音を聞きながら、彼は窓の外を見つめていた。木製の馬車は荒々しい奇岩がそそり立つ旧グルントハルト領の山道を抜けようとしていた。
天を突く巨岩の頂には、黒ずんだ石造りの城塞や聖堂が幾重にもそびえ立ち、かつては無数の吊り橋や滑車索道が絶壁と絶壁を蜘蛛の巣のように繋いでいた異形の土地。
だが、いまや、城主を失った高台の城塞群は静寂に呑まれ、切り立った岩肌の隙間を吹く風が、まるで獣の咆哮のような甲高い音を鳴らしている。
人の姿は、ほとんど見えなかった。
遠くの城塞には、まだグルントハルト家の旗が残っている。風に煽られ、灰色の空の下で、古びた旗が力なくはためいていた。
しかし、その旗を掲げる者たちは、もういない。
カースは冷えたガラス窓に額を押しあて、遠ざかっていく灰色の断崖をただじっと見つめていた。窓越しに伝わる冷気が、額の熱を少しずつ奪っていく。それでも、彼は離れなかった。
あの崖下の薄暗いスラムで見た光景が、今も灼熱の烙印のように脳裏にこびりついて離れない。
冷たい泥の上に倒れていた子供たち。
濡れた地面にしみ込み、黒ずんでいた血の痕跡。
そして――高みからそれを見下ろし、嘲笑っていたグルントハルト家の人間たち。あのとき感じた怒りは、今でも胸の奥に残っている。忘れようとしても、忘れられない。
カースが差し伸べた手も届かず、守りたかった小さな命たちは、もう二度と帰ってこない。だからカースは、あの家を潰した。
感情を殺し、ただそれだけのために腕を振るった。敵を倒すためではない。復讐を果たしたいという気持ちだけでもない。あの場所で死んでいった者たちに、自分ができる唯一のことだと思った。
それなのに。
こうしてその領地を離れてみても、胸の奥に残ったものは、達成感ではなかった。自分が何かを成し遂げたという実感よりも、もっと重いものが沈んでいる。
救えなかった者たちの顔。
届かなかった手。
あのとき、もう少し早く動けていれば。
あと一歩、早ければ。
あと一人、助ける力があれば。
そんな「もしも」が、何度も頭の中を巡っていた。
「......グルントハルトの当主は、本当に処刑されたのか」
向かいの席で重い沈黙を破り、ウォルターが腕を組んだまま呟いた。その声は低く、車内にくすぶる緊張を震わせる。
「ああ。王都で正式に斬首刑だ」
隣に座るガルトが、煙草の煙を薄く吐き出しながら短く答えた。
「表向きの理由は、王国秩序を著しく乱した罪ってことになってる。だが要するに、庇う価値もないと見切られて切り捨てられたのさ」
「......庇う価値もない、か」
ウォルターは窓の外へ目を向けた。巨大な岩山の向こうへ、グルントハルトの城塞が消えていく。
「都合がいい......か」
ウォルターが自嘲気味に鼻で笑う。
「随分と冷めた国だな」
「貴族の考えることなんざ、昔から反吐が出るような計算ばかりだからな」
ガルトが窓の外へ唾を吐き捨てるように言った。
そのとき、隣でシークがじっと窓の外を眺めていた。膝の上で固く握られた小さな拳が、かすかに震えている。
以前の彼なら、一族の滅亡にも、当主の死という客観的な事実にも、一瞥すら与えなかっただろう。しかし今は違う。
ほんの僅かに眉根を寄せ、アイスバイオレットの瞳で遠ざかる岩山を追いかけている。何かを考えている。けれど、それを自分自身でもうまく言葉にできない。
「.なあ、これで、終わったの?」
「ん?」
ガルトが太い首を巡らせる。
「グルントハルト」
「ああ。少なくとも当主の首は飛んだ」
「そっか」
シークはそれだけ呟くと、息を吐き出し、再び深く窓の外へ視線を落とした。安心したようにも。寂しいようにも。自分でも、その感情が何なのかわからないようにも見えた。
そして再び、深く窓の外へ視線を落とす。その頑なな横顔を見つめていたウォルターが、口元を緩めて小さく笑った。
「随分と気にするようになったじゃねえか」
「別に」
「はいはい」
「......うるさいな」
シークはぷいと横を向き、外套のフードを深くかぶり直した。耳まで隠すように引き下げたその仕草が、妙に子供らしい。
その小さなやり取りを横目で見ながら、カースは緊張で強張っていた口元を、ほんの少しだけ緩めた。
「心」を持たなかった少年が、少しずつではあるが、自分の意思で感情の端々を覗かせるようになっている。それは、戦いで敵を倒したときよりも。強大な呪術を成功させたときよりも。
カースにとっては、ずっと嬉しいことだった。
ただそれだけの変化が、胸の奥をほの暖かく満たしていく。
しかし、その安らぎは、長くは続かなかった。突如、激しい衝撃とともに車体が大きく横揺れしたからだ。
「うおっ!?」
ガルトが体勢を崩し、咄嗟に木壁へ手をつく。蹄のけたたましい音と馬の嘶きが響き渡り、ぐらりと前傾しながら車体が停止した。
「何だ!?」
ウォルターが柄に手をかけ、腰を浮かせる。御者の切羽詰まった叫び声が、冷気とともに外から飛び込んできた。
「前方に兵です! 槍を構えて街道を塞いでいます!」
ウォルターが険しい顔で窓枠に手をかける。
「兵だと......!?」
カースも身を乗り出し、窓の外を確かめた。鬱蒼とした谷間の隘路。そこには、鉄の甲冑に身を包んだ一団が重厚な陣を張っていた。
「あの旗......グルントハルト家の紋章だ」
当主を失い、家が崩壊したにもかかわらず、飼い慣らされた残党軍がいまだ自暴自棄に蠢いている。槍の穂先が雪のない岩道に並んでいる。
数は少なくない。
しかも、こちらの存在を待ち伏せしていたようにも見える。
「......帰り道を完全に塞がれたか」
ガルトが苦々しく舌打ちする。
「当主が斬首された直後だ。行き場を失った残党どもが、一網打尽を恐れて狂い咲きしてやがるんだろう」
「戦う?」
シークの手が、吸い寄せられるように腰の短刀の柄へ伸びた。その瞳に刃のような冷たさが戻り、先ほどまでの少年らしい表情が消える。
戦いとなれば、自分が何をすべきなのか。シークには、それだけは分かっていた。
「待て」
ウォルターが素早くその手首を掴み、制した。
「馬鹿。あんな数と正面からやり合って、わざわざ消耗する必要はねえ」
「......でも」
「でも、じゃねえ。お前は痛みに鈍いからって、身体が傷つくのを軽く考えすぎなんだよ」
シークは手首を握られたまま、不満そうに唇を噛みしめた。
「......痛くないからいいだろ」
「そういう問題じゃねえだろ!」
ウォルターが呆れたように頭を抱える。
「お前ら、こんなときまで喧嘩してんのか」
「喧嘩じゃねえ。教育だ」
「教育にしちゃ声がでけえよ」
「うるさいな」
シークが小さく呟く。
カースはその三人を見ながら、戦う以外の方法がないかを考えていた。
ここで足止めされれば、予定は大きく狂う。
そして何より、今の自分たちには無駄な消耗をしている余裕がない。傷は癒えた。だが、完全に元通りというわけではない。次に何が待っているのかも分からない以上、ここで力を使い果たすわけにはいかなかった。
カースはその隙に座席へ戻り、膝の上に羊皮紙の地図を広げた。
「この先を迂回できるルートはある?」
ガルトが身を乗り出し、指先で地図の掠れた線をなぞる。
「あるにはある。......だが、大きく北へ大きく回ることになるぞ」
「どこへ出るの?」
「アイスフェルト領の境界付近だ」
その名を言った後、ガルトの太い眉がぴくりと跳ね、表情に影が落ちた。何かを考えているようだった。カースはその変化を見逃さなかった。
「......まあ、グルントハルトの残党と無駄な血を流したくないなら、そこを通るのが一番手っ取り早い」
「じゃあ、迷わずそっちへ行こう」
カースはまっすぐな目で頷いた。
「態勢は整えた。引き返すリスクは犯せない」
「決まりだな。御者、車を返せ! 北の迂回路へ回る!」
馬車がゆっくりと方向を変える。窓の向こうで、グルントハルトの兵たちが何か叫んでいる。怒号だった。あるいは、罵声だったのかもしれない。だが、その声はすぐに岩壁の向こうへ消えていった。
だが、誰も振り返らなかった。
こうして一行は針路を北へと変更し、凍てつくアイスフェルト領の領域へと足を踏み入れることとなった。
北上を続けるにつれ、車外の気温は底なしに下がっていった。
最初は外套の襟を閉じる程度だった。
それがやがて手袋をしていても指先が痺れるほどになり、吐き出した息が白く残る時間も長くなっていく。夜になると、馬車の窓の内側にまで薄い霜が張るようになった。朝になれば、その霜をガルトが手の甲で乱暴に擦り落とす。
窓の外に広がる景色は、進むほどに色を失っていった。土も。木々も。遠くに見える山肌さえも。まるで、この土地そのものが生きることを諦めてしまったかのようだった。
その夜。
すきま風が吹き込む宿屋の一室、ガルトがどこからか調達してきた湯気を立てる木鉢をテーブルの中央にドスンと置いた。中にはゴロゴロとした芋の煮込みと、焼き立ての香ばしいパンが盛られている。粗末な料理だった。けれど、この寒さの中では、それだけで十分なご馳走だった。
「ほら、食えるうちに食っておけ。北の冷気は甘くねえぞ。腹を減らしてたら一晩で凍え死ぬ」
ガルトが腕まくりをして大盛りの器を配る。
ウォルターが「豪勢だな」と笑いながらパンをちぎり、その隣でシークが静かに手を伸ばした。
シークの前には、ガルトが「この街の名物だ」と押し付けた甘い干し柿の蜜煮が小皿に乗っている。
シークは無表情のまま、小さな猫のように両手で器を抱え込み、熱い蜜煮をちびちびと大事そうに齧った。
「......甘い。毒の味は、しないね」
「あたりめえだ、俺が毒なんか盛るかよ。気に入ったなら全部食っちまえ」
ガルトが豪快に笑うと、シークは小さく耳を動かし、ほんの少しだけ躊躇してから、蜜煮の皿をカースの方へそっと押しやった。
「......カースも食べるか? 一口なら、あげるよ」
「ううん、ありがとう。僕は大丈夫だから、シークが全部食べなよ」
カースが目を細めて微笑むと、シークは安堵したように小さく頷き、再び皿を自分の方へ手繰り寄せた。
その光景を眺めていたウォルターが、呆れ混じりの笑みを漏らす。
「お前、カースには随分と素直じゃねえか」
「別に」
「その別に、は、そろそろ聞き飽きたぜ」
「ウォルター、うるさいよ」
「はいはい。冷めないうちに食っとけ、弟分」
「......弟じゃないし」
口では反発しながらも、シークの口元は蜜煮の甘さにわずかに緩んでいた。ガルトはそんな二人を見て、煙草を咥えたまま小さく笑った。
旅を始めた頃なら、こんな光景は想像できなかった。
誰かと同じ卓を囲み。誰かから食べ物を分けてもらい。誰かの言葉に腹を立てる。シークにとっては、それらすべてが、まだ新しいものだった。
そしてカースにとっても、それを眺めていられる時間は、戦いの中では得られない小さな安らぎだった。
翌朝。
馬車が北へ進むにつれ、車窓の風景は劇的な変貌を遂げていった。
荒々しかった茶褐色の岩肌はいつしか背景へと消え去り、やがて土の露出した貧しい荒野が地平線まで広がる。そして空は、低く垂れ込めた鉛色の雲に覆い尽くされた。街道沿いには、干上がった痩せた畑が延々と続いていた。
かつては作物が青々と茂っていたのだろう。畑を囲う柵もところどころ崩れていた。耕す人間がいなくなったのか。それとも、耕しても何も育たなくなったのか。
しかし今は、水分を失った土壌がカサカサにひび割れ、枯れ果てた作物の残骸が哀れに突っ立っている。その脇には、流木やトタンで組み立てられた泥まみれの粗末な小屋が、互いを支え合うように固まっていた。進んでも、進んでも、同じような光景が繰り返される。
ひとつ。
またひとつ。
進むごとに、小屋の密度と人々の群れが増えていく。
「......また、スラムだ」
カースが低く吐き捨てるように呟いた。窓の外では、肋骨の浮き出た痩せ細った大人たちが落ち葉や薪を拾い集め、ボロ布を纏った子供たちが身を寄せ合ってブルブルと震えている。
裸足の者もいた。薄い布を肩に巻いただけの者もいた。
誰も馬車を見ても近づいてこない。こちらを見ようともしない。
近づいたところで、何かを得られるとは思っていないのだろう。ただ、寒さから身を守るように、身体を小さく縮めている。その光景を見つめながら、カースの表情が次第に険しくなっていく。
「王都からグルントハルトに入るときも見た光景だな」
ウォルターが腕を組み、苦々しい顔で窓の外を見下ろす。
「どこへ行っても、下に弾き飛ばされる奴らの姿は変わらねえってわけか」
カースは答えず、ただ拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。グルントハルト領で見た光景と、何も変わらない。
領主が変わっても。土地を支配する貴族が変わっても。ここにいる人間たちの生活は、何も変わっていない。
「......いつまで、こんなのが続くんだ」
静かな問いかけの中に、押し殺しきれない重い苛立ちが滲む。
その時だった。
「王家が、七大貴族への精霊光の供給量を絞ったからさ」
突如、頭上の屋根からコロコロと転がるような軽い声が降ってきた。
(第20話-2「凍える宮廷」へ続く)




