第18話-2「誰も見捨てはしない」
その後。
エリオットは護衛に促されるようにして王宮へと戻り、自室の執務机の前に座っていた。窓の外の空はすでに鉛色の夕闇に染まり、部屋の中を照らすのは机上の精霊石のランプの微かな光だけだった。
その冷たい光の下で、山のように積まれた国家の重要書類が、無言で彼の判断を待っている。
「殿下」
静まり返った部屋の隅から、レイフが低い声で進み出た。
「別件で、ただちにご確認いただきたい告発書類がございます」
「何だろう」
「宮廷の予算管理に関する不正流用です。その規模は、先ほどの地方役人の比ではありません」
エリオットは無言で差し出された分厚い束を受け取り、そこに記された膨大な数字の羅列に目を走らせた。
「......これは」
「長年にわたり、王宮内の精巧な会計の裏で、巧みに隠蔽されてきた巨額の裏金です」
さらにページをめくっていく。エリオットの指先が、ある特定の名前の上でピタリと止まった。
「関係者は......?」
レイフの喉仏が、苦しそうに上下した。
「......オズワルド卿にございます」
その名前を聞いた瞬間、エリオットの呼吸がわずかに止まった。オズワルド。物心ついた頃から、自分の身の回りの世話をすべて焼いてくれた男。
父王が政治に没頭し、愛情を注いでくれなかった宮廷の中で、温かい父の背中を見せてくれた男。
厳しく叱られ、時には肩を抱かれ、自分が「次代の王」という重荷を脱ぎ捨てて、ただの無力な子供に戻ることのできた数少ない隠れ家だった。
ふと、視線を机の端へ向けると、そこに小さな、不格好な木彫りの人形が転がっていた。まだ幼い日、城の回廊で転んで派手に泣きじゃくるエリオットをあやすために、オズワルドが余った木片をナイフで不器用に削ってくれた、世界に一つだけの木馬だ。
あの日の温もりと、優しく頭を撫でられた手のひらの記憶が、凍てついた執務室の中で鮮烈によみがえる。
エリオットの震える指先が、その木馬の頭をそっと、まるで触れてはいけないものに触れるように撫でた。
「......呼んできてくれ」
しばらくの後、衛兵に付き添われて連行されてきたオズワルドの姿があった。その老いた顔には、長年の激務による疲労と、どこか嫌な予感に怯える焦りの色が滲み出ていた。
「殿下......このような夜遅くに、私を呼び立てて、一体どのようなご用件で......」
「これは何だ」
エリオットは、感情の読み取れない声で、その書類をそっと差し出した。オズワルドは一瞬、その紙面に走る数字を見て息を呑んだ。しかし、次の瞬間には決意を固めたかのように、切実な顔で一歩前に歩み出た。
「すべては、殿下のためです!」
「......何だって?」
「次代の王となられる殿下の基盤を盤石にするために、どうしても必要だったのです!」
オズワルドは必死に声を張り上げた。その目には、嘘偽りのない、エリオットに対する歪みない忠誠心が燃え盛っていた。
「宮廷内で殿下を支持する勢力を水面下で増やし、足元を狙う他の貴族派閥を牽制するための工作資金です! 表立った王家の予算では動かせぬ汚れ仕事の資金を、この老骨が影で工面していたのです......!」
「だから、宮廷の金を横領したのか」
「違います!」
オズワルドが叫ぶ。
「これは私欲のための着服などでは断じてない! すべてはあなた様が王位に就き、この国を正しく統べるために必要不可欠な投資だったのです!」
「............」
「どうか、幼い頃からこの命を懸けてお仕えしてきた私を信じてください。私は、あなた様のためにこそ――」
胸の奥が、激しく痛んだ。
机の端に置かれた木馬の温もりが、脳裏で激しく疼く。ここでこの書類を闇に葬り、オズワルドの罪を見逃せば、彼は救われる。自分を誰よりも愛してくれた「家族」を、失わずに済む。平穏な日常が戻ってくる。
だけど――。
エリオットの脳裏に、あの冷たい路地裏で息絶えていた赤子、ミアの姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇ってきた。
あの赤子が味わった飢えと凍えは、こうした上層の人間たちの「身内びいきの不正」と「綺麗ごと」の積み重ねによって生み出されたものだ。
ここでオズワルドを許せば、自分は「身内の情」のために、また別の場所で飢える無力な民を殺す共犯者になる。
エリオットの瞳から、迷いの色がスルスルと抜け落ちていった。
代わりにそこに宿ったのは、あらゆる人間性の温もりを自ら凍りつかせたような、圧倒的な「正義の怪物」の光だった。
「理由は、関係ないよ」
静かで、冷徹な宣告だった。オズワルドは大きく目を見開き、信じられないものを見る目で若き王子を見つめた。
「殿......っ?」
「法と規律を破り、民から富をかすめ取った事実は変わらない。動機が何であれ、罪は罪だ」
「お待ちください、私はあなたのために――!」
「処分を下します」
エリオットは、激しく震える自分の右手を、左手でしっかりと、痛いほど強く掴み抑えつけた。
その声は、冬の氷のように澄み切り、そして容赦がなかった。
「オズワルド。貴殿の爵位を剥奪し、王都からの永久追放を言い渡します」
「............っ!」
オズワルドの顔が、絶望と驚愕に歪み、ぐしゃぐしゃに崩れ落ちた。
自分を愛してくれたはずの少年の瞳に映る自分が、ただの「法を犯した哀れな罪人」でしかないことを悟ったからだ。
「殿下......! 殿下ぁっ、お慈悲を......!」
両脇を固める衛兵に両腕を掴まれ、床を引きずられるようにして連行されていくオズワルドの絶叫が、広い部屋にむなしく反響した。
その背中が遠ざかり、重厚な扉がガチャン、と音を立てて冷たく閉まった。
完全に、遮断された。静寂。広大な執務室には、エリオット一人だけが取り残されていた。エリオットは、机の上の書類を見つめたまま、彫像のように微動だにしない。
その両手は、今や見たこともないほど激しく、小刻みに、制御不能なまでに震えていた。
「......殿下」
傍らに控えていたレイフが、いたたまれそうに、絞り出すような声をかける。
「本当に、それで......よかったのですか」
「......よくないよ」
か細く、掠れた声だった。
「ならば、なぜ......!」
「だけどね、レイフ」
エリオットが、ゆっくりと顔を上げた。
その頬には、乾ききらない涙の跡が痛々しく残っていたが、その眼差しは、常軌を逸した狂気の輝きを帯びていた。
「ここで僕が情に流され、彼を許せば......また別の場所で、別の誰かが不正の犠牲になり、飢え、泣くことになる」
エリオットは、震える拳を机の木目に叩きつけた。
「そうなれば、僕は何のために王族の血を引いているのか......何のために、民の痛みに涙を流しているのか。......僕の正義とはいったい何なのか、わからなくなるじゃないか」
「......」
「僕は......誰も、見捨てたくないんだ」
その言葉は、悲鳴に似ていた。誰一人切り捨てたくないという純粋すぎる理想が、逆に、目の前の大切な人間を自らの手で容赦なく切り捨てるという、あまりに残酷な矛盾を産みだしてる。
レイフは、その歪みきった美しさと、あまりに巨大な自己矛盾に、背筋が凍るような恐怖を覚えた。
「――その優しさは、いつかあなた自身を殺します」
レイフの低い声が、静まり返った部屋に重く落ちた。
「誰よりも他人のために泣けるあなたが......その痛みに耐えかねて、自分が大切にしてきた人間まで、すべて自分の手で切り捨てる」
レイフはエリオットをまっすぐに見据え、痛切に言い放つ。
「それは、もはや優しさなどではない。......狂気です、エリオット様」
(第19話「道化師たちの盤上」へ続く)




