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カース・オブ・エレニア ~蘇りし呪術師の成り上がり復讐劇~  作者: さかさき まる
第四章 凍てついた誓い

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第18話-1「誰も見捨てはしない」


 王都の朝は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。

 石畳の大通りには仕立ての良い馬車が音を立てて行き交い、露店の店主たちは朝一番の活気ある声を張り上げ、道行く人々はそれぞれの生活の営みへと急ぎ足で消えていく。


 表面的には、このエレニア王国の中枢は、いつの時代も変わらぬ繁栄と平穏を謳歌しているように見えた。


 だが、華やかな大通りから一歩裏手へ入れば、景色は変わった。


 黒ずんだ古びた木造家屋が肩を寄せ合い、冷え切った泥のぬかるむ軒先には、寒さに震える痩せこけた人々が身を縮こまらせている。そして、その一角にある王国直轄の配給所の前には、蛇のようにうねる長い列ができていた。

 エリオットは馬車を降りると、護衛の兵士たちを少し離れた位置に控えさせ、自らの足でゆっくりとその列に近づいていった。


「この辺りの困窮は深刻ですね......。先月と比較しても、配給量が目に見えて減っています」


 エリオットのすぐ後ろを歩く側近・レイフが、低い声で鋭い分析を告げる。


「理由は?」

「今年の農作物の収穫量が例年を下回っていることに加え、王都へ運ぶための輸送費や中継地点でのマージンが増加していることが主な原因かと」


「そうか」


 エリオットは短く応じると、配給を受け取るために静かに並ぶ人々の姿へと視線を向けた。幼子を腕に抱きしめ、凍えた足元を布切れで縛った母親。

 すり減った杖を頼りに、自らの体重を支えるのがやっとの老いた男。

 骨と皮ばかりになり、うつろな目を地面に向けた労働者たち。誰もが、怒号を上げることも、不満を喚き散らすこともしない。ただひたすらに耐え忍ぶことが日常になってしまった者たちの、底知れぬ静けさがそこにはあった。

 ふと、列の端にいた煤けた頭の老婆が前を歩く男に枯れた声で話しかけるのが、エリオットの耳に届いた。


「ねえ、昨日までこの列の前にいた、あの車椅子のじいさんはどうしたんだい?」

「......今朝、冷え込みが厳しかったからよ。もう息を引き取ったそうだ」

「そうかい......みんな、長くないねえ」


 それだけの会話だった。

 そこに悲劇のドラマはなく、ただ淡々と、人が死んでいく日常が横たわっている。死があまりにも生活に溶け込みすぎて、誰もそれを異物だと思わなくなっていた。

 さらに視線をずらすと、数歩離れた軒先で、一人の若い母親が持ってきた布袋を逆さに振るっているのが見えた。

 しかし、袋から落ちてきたのは、まとまった穀物などではない。乾いた底に残っていた、ほんの一握りの黒ずんだ雑穀だけだった。


「これだけ......?」


 母親の足元にしがみついていた幼い子どもが、不安そうに大きな目をしばたたかせる。


「お母さん、これ、今夜のごはん、みんなで分けるの?」

「......そうよ」


 母親は、我が子を安心させようと必死に口角を上げたが、その頬の筋肉は恐怖と疲労で引きつり、見るに堪えない歪んだ笑みになっていた。


「あったかいスープにして、みんなで美味しく食べましょうね」


 そのあからさまな嘘の優しさを、エリオットは数歩離れた場所から、まぶたの裏に焼き付けるようにじっと見つめていた。

 冷たい風が吹き抜けるたび、エリオットの胸の奥が、まるで氷の刃で抉られるように鋭く痛む。その列の最前線では、王国から派遣された地方役人が、無造作に麻袋から穀物をすくい上げ、人々に配るふりをして横流しの仕分けを行っていた。


「......」


 エリオットの足が、ぴたりと止まる。


「少し、様子を見てくる」

「殿下?」

 レイフが声をかけるより早く、エリオットはすでに配給所のカウンターへと歩き出していた。


「――っ! 殿下!?」


 カウンターの奥で不正な袋詰めをしていた役人が、高貴な衣をまとった若き王子の姿を認めるやいなや、顔面を真っ青にして飛び出してきた。その額からは、冷や汗が滝のように流れ落ちている。


「こ、これは、わざわざこのような下々の吹きだまりに! ここは殿下がお越しになられるような場所ではございません! ご案内いたしますので、どうか宮廷へお戻りを......!」

「倉庫の中を見せてください」

「し、しかし――」


「帳簿も、今すぐここに」


 エリオットの唇には、いつもの上品で穏やかな笑みが貼り付いていた。

 だが、その微笑む瞳の奥には、冷たい色が広がっていた。役人はその凄まじい威圧感に気圧され、喉の奥まで出かかった言い訳を飲み込むしかなかった。

 暗い倉庫の奥へ引っ張り出され、山積みの麻袋と、差し出された最新の帳簿を照らし合わせる。


「......合いませんね」


 エリオットが、微塵も狂いのない指先で、帳簿の数字をなぞる。


「そ、それはですね、いくつかの拠点で一時的な保管の不手際が......」

「帳簿の上では、この倉庫にあと三日分の備蓄が残っていることになっています。ですが、実際の在庫は影も形もない」

「い、今ちょうど、別の地区へ輸送中でございまして......!」

「では、その輸送記録と、受け渡しの受領書を見せてください」 

「............」


 役人の両膝がガタガタと盛大に震え始めた。

 しばらくの沈黙の末に差し出された記録用紙には、誰の目にも明らかなインクの改竄跡が残されていた。

 エリオットは、ゆっくりと、音を立てずに帳簿を閉じた。


「君が、やったのですか」

「......っ」

「答えてください」


「......は、い」

「どこへ流したのですか」


「し、知人の商人に......」

「売ったのですね」


「............はい」

「その金の使い道は」


「わ、私の生活費と、家族の今後の蓄えに......」

「生活費?」


 エリオットが、一歩、役人の懐へと踏み込んだ。


 その足音が、冷たい倉庫の床に乾いた響きを立てる。


「民が飢え、路地裏で赤子が死に絶えているというのに......君は、その口に入るはずの血肉を売り払い、自分の生活の足しにしていたと、そう言っているのですか」


「も、申し訳ありません、魔が差したのです! 二度とこのような真似は......!」

「君が掠め取ったその数袋分の穀物で」


 エリオットの声から、完全に温度が失われた。まるで雪の底から湧き出すような、肌を刺す冷気が倉庫の空気を支配する。


「今日、この寒さの中で、何人の人間が飢え死にするか、想像したことがありますか」

「......っ!」


「君にとっては、ただの帳簿の端数、あるいは小銭に換わる便利な穀物でしょう」


 エリオットは、閉じた帳簿を役人の胸元へと、容赦なく、重く突きつけた。


「しかし、ここで命を削って順番を待っている者たちにとっては違う。それは明日への生命線であり、この過酷な冬を越えるための唯一の希望なのだ」


 一冊の紙の束。

 そこに並ぶ、機械的なインクの数字。

 その数字の裏側には、確かな体温を持った人間が生きている。


「君が盗んだのは、穀物ではありません」


 エリオットの双眸が、鋭利な刃のように細められる。


「彼らが今日を生き延びるための、かけがえのない.....時間です」

「殿下!」


 事態の大きさにようやく追いついたのか、同行していた担当役人が青い顔で割って入ってきた。


「これは確かに言語道断の不祥事ではありますが、あくまで地方の末端役人一人の独断による汚職にございます! 処罰や今後の対応につきましては、私ども宮廷の法務局に一任いただき......」


「いいえ」


 エリオットは、担当役人の弁明を一切の猶予もなく遮った。


「今すぐ、この者のこれまでの不正による被害額をすべて洗ってください」

「し、しかし殿下、被害の規模があまりに大きく――」


「この者の私財、隠し財産も含め、すべての資産を今この場で差し押さえなさい。足りない分は、一族の財産から補填させなさい」


「なっ......! そこまで厳罰に処すのは、さすがに法度を超えておりますぞ! この者の家族が路頭に迷うことになります!」

「構いません」


 エリオットの声には、揺るぎない絶対の狂気が宿っていた。


「被害を受けた者たちへ、一厘残らずすべて返還する。一人ひとりの受給記録を照らし合わせ、今日中に必ず実行しなさい」


 担当役人は、目の前に立つ若き王子の背中に、底知れぬ恐怖を見た。そこに慈悲はない。あるのは、狂おしいほど純粋で、だからこそ一切の妥協を許さない「正義の鉄槌」だけだった。

 担当役人はもはや言葉を失い、ただ青ざめた顔で頭を垂れるしかできなかった。エリオットはそれ以上、言い訳を聞こうともせず、冷徹に役人の身柄の拘束と連行を命じた。


 配給所の重苦しい空気を背にして外に出たところで、エリオットの足がふと止まった。


「......殿下?」


 数歩先を歩いていたレイフが振り返る。エリオットの視線は、配給所のすぐ脇にある、ゴミと汚泥にまみれた行き止まりの路地裏に向けられていた。一人の女性が、そこに崩れ落ちるように膝をついている。


 その腕には、小さな包みが抱かれていた。


 だが、その包みはあまりにもぐったりとしており、生き物の持つ微かな躍動感が微塵も感じられなかった。


「......」


 吸い寄せられるように吸い寄せられるように、エリオットは足音を殺してその路地へ歩を進めた。

 冷え切った突風が、路地の泥と悪臭を巻き上げる。

 女性の手は過酷な労働と寒さですべての潤いを失い、ひび割れた指先からは痛々しい血がにじんでいた。そのボロボロになった両腕で、母親は、もう二度と目を覚ますことのない我が子を、まるで世界でたった一つの宝物であるかのように必死に、痛いほど強く抱きしめ続けていた。


「その子は......?」


 女性が、うつろで焦点の合わない目をゆっくりと上げた。

 目の前に立つ人間が高貴な身なりをしていることに気づき、恐怖に歪んだ顔で慌てて頭を地面にすりつけようとする。


「そのままでいいです。頭を上げなさい」


 エリオットは制止するように手を伸ばし、自らの肩を覆っていた上質な毛皮で仕立てられた外套をそっと外した。


 そして、凍りついた小さな体を、その温かな布で包み込む。


「......昨日まで、元気に泣いていたんです」


 女性の声は、すり切れた糸のようにか細く、震えていた。


「昨日の夜から、お乳も出なくて......何も食べさせてあげられなくて......。でも、泣き疲れて眠ったんだって、そう言い聞かせて......」


 エリオットは黙って、動かない赤子の青白い顔を見つめた。


「朝になったら、配給がもらえるから。そしたら温かいお粥を食べさせられるって......そう思って、歯を食いしばって朝を待ったんです」


 女性の腕が、激しい痙攣を起こすように震えた。


「なのに......夜が明けたときには、もう体が冷たくなっていて......私、私がもっと早く何とかしていれば、間に合わなかった、間に合わなかったんだ......っ!」


 女性の喉から、声にならない絶叫が絞り出される。エリオットは、何も言わなかった。


 言葉を紡ぐための声が、喉の奥で凍りついていた。


 彼は、自らの両膝を、汚れきった泥の地面へと容赦なく落とした。


「殿下!」


 レイフが息を呑み、制止しようと一歩踏み出したが、エリオットの背中から発せられる尋常ならざる気配に圧され、その場で足が止まった。


 エリオットは、泣き崩れる母親とまったく同じ高さまで、自らの体を低く落とした。王族として贅沢に仕立てられた純白の衣装の裾が、足元のドブ泥にまみれて汚れていくことなど、彼の意識には一ミリも入っていなかった。


「......寒かったでしょう」


 震える手で、赤子の冷たい頬にそっと触れる。

 その肌は、生きている人間のそれではなく、まるで石のように冷たかった。


「......名前を」

「え......?」


「その子の、名前を教えてください」

「......ミア、です」


「ミア......」


 エリオットは、噛みしめるように、その幼い名前を何度も繰り返した。


「綺麗な名前ですね」


 その言葉を合図にしたように、母親の目から堰を切ったような大粒の涙があふれ出した。


「ごめんなさい、ミア......ごめんなさい、お母さんが貧乏で、何も食べさせてあげられなくて......!」

「謝らないでください」


 エリオットは、狂ったように何度も首を横に振った。


「あなたが謝る必要などない。......謝るべきなのは、この国をこういう仕組みのまま放置してきた、私たち統治者だ」


 そして、再び動かない赤子の顔を見つめる。


「......まだ何も悪いことなんてしていないのに。この世界に生まれてきたこと以外、何も罪を犯していないのに」


 声が激しく震え、軋んだ。


 エリオットの頬を、一筋の温かな涙が伝い落ちる。

 彼はそれを乱暴に拭おうともしなかった。拭うことすら、自分に対する罰であるかのように、ただ溢れるままにさせていた。


「こんなに小さいのに......まだ春の暖かさも、美味しいものの味も、何も知らないまま......」


 もう一度、涙が落ちて地面の泥に吸い込まれる。

 母親の慟哭と混ざり合い、寒々しい路地裏に悲痛な息がこだました。


 エリオットはただそこに膝をつき、世界で一番無力な人間の顔をして、その場に留まり続けた。王族としての誇りも、国を背負う者としての威厳も、すべてかなぐり捨てて。ただ、目の前の小さな命を救えなかった一人の人間として、その死の重みを全身で受け止めていた。


「......ミア」


 その名を、もう一度、祈るように呼びかける。


「私は、あなたのことを絶対に忘れません。あなたがこの世で味わった理不尽も、奪われた時間も......そして、この世界が犯し続けているすべての罪も。いつか必ず、私がこの手ですべて終わらせます」


 それは、誰に命じられたわけでもない、自らの魂をすり潰すような血塗られた誓約だった。


(第18話-2「誰も見捨てはしない」へ続く)

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