第15話-1「裂けた加護」
蠱毒の毒に蝕まれながらもガイアの闘志はなお尽きる気配を見せなかった。
「まだ……まだだ……! 私は家門を守らねばならん……!」
小刻みな連撃が再び四人へと襲いかかる。
カースは既に限界に近かった。呪具の傷、犬神の怨牙を放った反動、それに加え押し寄せてきた守備隊との激戦での消耗。二の腕から流れ続ける血は既に握った拳から滴り落ちるほどの量になっていた。
「カース、無理するな!」
ウォルターが庇うように前に出た。だがその声すらカースの耳にはどこか遠くくぐもって聞こえていた。
視界が白く点滅するように明滅を繰り返す。
(――ここで倒れるわけには。)
その時だった。
懐に提げたネロの呪核がこれまでにない熱をじわりと帯び始めた。
「ネロ……?」
カースは震える指先でその呪核に触れた。
脳裏にまたあの記憶が――いや今度は自分自身の記憶ではない別の何かが流れ込んでくる。
それは遠い昔、聖呪大戦の最中、精霊使いたちに追い詰められた一匹の獣の記憶だった。
その獣はかつて精霊の加護を持ちながらも、人間たちに裏切られ見捨てられた存在だった。仲間だと思っていた人間たちに都合よく利用され、最後には用済みとして切り捨てられた。
(精霊なんて二度と信じるものか。)
(俺を裏切ったあの光をこそ俺は喰らい尽くしてやる。)
その怨嗟が、時を超えてネロの中に静かに眠っていたのだった。
カースの中でその古い獣の記憶とネロ自身の記憶――焼き殺されたあの日の痛みが混じり合い共鳴していく。
「ネロ」
カースは震える声でその名を呼んだ。
「ネロもずっと堪えてきたんだね」
懐から黒く濁った靄が、これまでにない密度で噴き出し始めた。だがその靄は、どこか不安定にちりちりと明滅を繰り返していた。まるでまだ生まれきっていない何かが無理やりこの世に形を成そうとしているかのように。
「な――なんだ、その気配は……! なんだその姿は!」
ガイアが初めて明確な警戒の色を見せた。
噴き出した靄は、瞬く間に巨大な影を象っていく。それに合わせ、カースの髪の隙間から覗く目の周りに黒い模様が現れた。皮膚ににじむように、蔦が根を張るように、模様が大きくなり、顔半分を覆いつくす。呪印の模様が大きくなるにつれ、黒く濁った靄がどんどん形作られ、狼の形になっていく。
それはこれまで見せてきた幻の狼の姿とは明らかに違った。輪郭はより禍々しくより濃密で、まるでこの世の理から外れた何か根源的な存在そのものであるかのようだった。だがその輪郭は完全に定まりきってはいなかった。所々輪郭が崩れまた練り直されるように不安定に脈打っていた。
紅蓮に燃える両の眼だけが闇の中に爛々と光る。
「精霊喰らい」
カースの声は、もはや彼一人のものではないかのように幾重にも重なって響いた。ただ、その声にも僅かな軋みがあった。まだこの力の全容を、カース自身もネロ自身も掴みきれていなかった。
巨大な魔狼と化したネロは、低く地の底から響くような唸り声を上げると、ガイアへと真っ直ぐに突き進んだ。
「金剛の岩壁!」
ガイアは咄嗟に全身の硬化を限界まで高めた。だが。
魔狼の顎がガイアの纏う加護そのものへと深々と食い込んだ。
「な――ぐ、あああああああっ!?」
これまでとは明らかに違う悲鳴だった。肉体への痛みではない。加護そのものが根こそぎ喰らわれていく、精神の根幹を揺さぶられるような絶望の叫びだった。
ガイアの全身を覆っていた鋼の輝きが、まるで内側から溶かされるように急速にその光を失っていった。
「馬鹿な……! 私の加護が……!」
精霊との契約そのものを喰い破られたガイアの体は、もはやただの人間の肉体に過ぎなかった。硬化を失った皮膚に、これまで蓄積されていた蠱毒の毒が一気にその牙を剥いた。
「が――あ……」
ガイアは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
完全に喰らい尽くしたわけではなかった。ガイア一人分の、まだ小さな加護を辛うじて剥ぎ取っただけの粗削りな一撃だった。それでもその代償はカース自身の身にも重く跳ね返っていた。
広間に静寂が戻った。
「ぐ……あ……」
カースの全身から、これまで以上の血が噴き出す感覚があった。頭の芯が焼けるように熱く視界の端から色が失われていく。
「カース!」
シークが真っ先に駆け寄った。だが駆け寄るシークの輪郭すら、既にカースの目には二重にぶれて映っていた。
「大丈夫かよ」
「……ん」
答えようとした声は、掠れ途中で途切れた。
膝から力が抜ける。目の前が真っ白に染まりそして闇に落ちていく。
カースの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。その下に彼自身の体から流れ出た、大量の鮮血が静かに広がっていく。
「カース!」
シークが震える手で肩を抱き起こし、生死を確かめようとその首筋に指先を放置させた。
「かすかに脈はある」
シークの声が掠れていた。
「だけどこのままじゃまずい。すぐに止血をしないと……!」
「わかってる!」
ガルトが懐から止血薬と包帯を素早く取り出した。カースの二の腕――呪具から離れた傷口からはまだ絶え間なく血が溢れ出ていた。顔を覆っていた呪印は弱くなる鼓動に合わせて、薄墨のように消えていく。
「布できつく縛って応急処置だけでもしておくぞ! 詳しい手当ては宿に戻ってからだ!」
ウォルターが周囲へと鋭い視線を巡らせた。
「ここに長居するのは自殺行為だ!」
守備隊との大規模な戦闘の跡、ガイアとの死闘で崩れた床、積み重なった亡骸。この惨状を見ればいつ王家の追手がやってきてもおかしくなかった。
「行くぞ」
ガルトが短く告げると、シークは力強く頷いた。カースの体をしっかりと抱え直し立ち上がる。その足元に痛々しい血が一滴、冷たい石畳へと落ちた。
三人は床に倒れ伏したガイアのことなど、既に意識の外へと追いやっていた。精霊の加護を失い、ただの敗者となった貴族に構っている余裕はもはやなかった。
カースの命を救うことが何よりも優先だった。
シークが事前に確保していた退却用の隠し通路へと足早に向かい、激闘の名残を色濃く残すグルントハルトの城を静かに、そして素早く後にしたのだった。
死闘に敗れ敗北の烙印を押されたガイアを一人残して。
カースたちが城を脱出してから、どれほどの時間が経っただろうか。
静まり返った城の回廊の遠くから、無数の足音が無骨な石畳を震わせて響いてきた。規則正しく重い足音が津波のように押し寄せ、死闘の惨劇が残る城の空気をじわじわと塗り替えていく。
硬質な鎧が擦れ合う金属音、抜き身の剣が触れ合う微かな音、そして冷徹な号令の声が幾重にも重なりながら広間へと近づいてきた。
「精霊騎士団だ! 全員その場を動くな!」
頑丈に閉ざされていた扉が、激しい衝撃音とともに内側から蹴破られた。純白のマントを纏った精霊騎士たちが、隊列を崩さぬまま次々と城内へと雪崩れ込んでくる。
松明の炎に照らされたその数は優に五十を超えていた。整然と磨き上げられた甲冑、迷いのない統率された足並み、守備隊の寄せ集めとは明らかに異なる王家直属の精鋭部隊の威容だった。
「グルントハルト家の者を捜せ! 生死は問わん、確保が最優先だ!」
先頭に立つ隊長格の騎士が、血塗られた広間を一瞥し鋭く号令を飛ばした。
「はっ!」
騎士たちの白いマントが一斉に翻る。城中の扉が次々と荒々しく蹴破られていく音が、遠く近く幾重にも響き渡った。カースたちによって既に破壊し尽くされていたこの城は、この白い軍勢の手によって完全にその息の根を止められようとしていた。
やがて広間の中央へと足を踏み入れた数人の騎士が、冷たい床に倒れ伏しているガイアを発見した。
「隊長、ここに目標を発見しました」
「生きているのか」
「確認します」
一人の騎士が足音を立てずに近づき、ガイアの冷え切った首元にそっと指を当てた。
「……微かに息があります」
「ならば拘束しろ。逃がすな」
「はっ」
その冷徹なやり取りが、ぼんやりとしたガイアの耳に届いた。ガイアの指先が痙攣するようにわずかに動く。
「……う……ぐ……」
昏睡の底から意識が、無理やり引きずり出されるように浮かび上がってくる。全身が鉛のように重い。
先ほどまで肉体を頑なに覆っていたはずの、絶対的な硬化の感覚が完全に消え失せていた。体内に巡るべき精霊の気配すらもうどこにもない。それでも聴覚だけは次第に鮮明になっていく。
「グルントハルト家、当主ゴリアテについての身柄確保は?」
「すでに王都へ急報が届いています。あちらでもすでに拘束が完了したとのことです」
「そうか」
ガイアは痛むまぶたを重そうに持ち上げ、薄く目を開けた。
「……王都……?」
喉の奥から絞り出すような掠れた声が漏れる。無理に声を絞り出したせいで胸が激しく痛み、ゴボッと黒い血が込み上げた。その生々しい咳き込みの音に気づき、騎士たちが視線を向ける。
「意識が戻ったか」
ガイアはゆっくりと頭を持ち上げた。視界の先には、王家直属の純白の紋章を掲げた精霊騎士たちが整然と並んでいる。それを見た瞬間、絶望の淵にあったガイアの胸に微かな、しかし確かな安堵の光が灯った。
(王家が来てくれた。これで助かる。)
自分たちは今まで、王家のために忠実に戦ってきたではないか。北部の険しい領地を守り抜き、私財を投じて軍を維持し、王宮からの理不尽な命令にも一切背かず従ってきた。今回の事態だって、王家が事情を汲み取り自分たちを救ってくれるはずだ。
「……王都から……私を救いに来てくれたのか……?」
「そうだ」
「ならば……!」
ガイアは血に染まった唇をかすかに震わせながら、すがるような思いで尋ねた。
「……父上は……ゴリアテはどうなった……?」
問いかけられた騎士の一人は感情の色を一切削ぎ落とした事務的な声で答えた。
「ゴリアテ・フォン・グルントハルトは王都にて既に拘束下にある」
「……そうか」
ガイアは小さく安堵の息を吐こうとした。だが何かが決定的に引っかかった。
拘束。
(――? なぜ「救出」ではなく「拘束」なのだ。)
騎士たちの瞳に宿る冷ややかな光。それは助けに来た者のそれではなかった。むしろ完全に敵を品定めし、排除する対象を見定める者の目だった。
「……私はこれからどうなる」
恐怖混じりの問いかけに、騎士は一瞬だけ口をつぐんだ。そして非情な事実を淡々と告げた。
「グルントハルト家は王命により本日をもって解体される」
「…………」
「領地、私財、私兵団。そのすべてが王家の直轄地として接収される」
ガイアの目が信じられないものを見るように限界まで見開かれた。
「……何を……ふざけたことを言っている……!」
「ゴリアテ・フォン・グルントハルトは、王国秩序を著しく乱した大罪人として処刑がすでに決定している」
「待て……!」
ガイアの声が、怒りと恐怖で激しく震えた。
「待ってくれ……! 父上は……我が家はすべて王家のために尽くしてきたのだぞ……!」
騎士は、それ以上の言葉を持たなかった。
「我々は上層部からの命令を受けて、ここへ来ただけだ。それ以上でも以下でもない」
冷たい金属音のようなその一言が、静まり返った広間に重く落ちた。
ガイアはしばらくの間呼吸を忘れ、ただその場で凍りついたように動けなかった。
王家のために戦った。
王家の絶対の命令に従い続けた。
王家から与えられた荒涼とした北部を、命がけで守り抜いた。
それなのに。今自分の目の前に立っている王家の精霊騎士たちは、自分を救うためではなく――グルントハルト家という存在を、この世界から完全に消し去るためにやってきたのだ。
「……私たちは……一体……」
ガイアのかすれた声が虚しく空気に溶けていく。
「……王家に……必要とされていたのではなかったのか……?」
誰も答えようとはしなかった。その重苦しい沈黙こそが、何よりも雄弁に現実を物語っていた。
ガイアの脳裏に、走馬灯のように過去の記憶が蘇ってくる。父ゴリアテが誇らしげに王家への忠誠を誓った幼き日の玉座の間。王家のために冷たい北部の雪原で軍を率いて血を流した幾多の日々。王宮から届いた理不尽な要求に歯噛みしながらも、一度たりとも背かなかった無数の夜。
その栄光だと信じていた、すべての忠誠が急に遠い空虚なものに感じられた。
「……そうか」
ガイアは乾いた唇を無理やり歪ませて力なく呟いた。
「……そういうことだったのか……」
自分たちは、守られてなどいなかった。ただ王家にとって都合の良い道具として、必要な間だけ使い捨てのように使われていただけなのだ。
そしてその道具が少しでも傷つき、あるいは不要になれば――こうして容赦なく切り捨てられる。
「……馬鹿な……」
ガイアは自嘲的な笑いを、乾いた喉から絞り出した。
「私はいったい……何のために人生のすべてを捧げて……」
その魂の叫びに答える者は、広間のどこにもいなかった。
精霊の加護を完全に失った肉体は、もはや自分の意志で指一本動かすことすらできない。放置されていた体内に、体表から侵食した蠱毒の毒素が再び一気に牙を剥き、内側から激しく蝕み始める。
ガイアは虚ろな目を限界まで見開いたまま、冷え切った天井を見上げた。そこには希望の光など微塵もなく、ただ冷徹にそびえる石の天井があるだけだった。
「……王家のために……命を懸けて戦ってきたのに……」
最期の問いかけに、答える者は誰もいない。
やがてガイアの虚ろな瞳から最後の光がスッと消え失せていった。
(第15話-2「裂けた加護」へ続く)




