第12話-2「北への道」
夕食の後、まだ日の高いうちに、カースは村の静かな様子を少し歩いて見て回ることにした。シークも、黙ってその足音についてきた。
村の中心にある小さな薄暗い広場を通りかかった時、カースは物陰の隅にうずくまっている痩せこけた子どもの姿に気づいた。
誰にも見られていないと思ったのか、懐からそっと取り出したあたたかいパンの欠片を、さりげなく、その子どもの傍らに置くと、何事もなかったかのように素早くその場を立ち去った。
「今のは」
シークが少し離れた建物の影から、その一連の様子をじっと見ていた。
「なんでもない」
「見てた」
「嘘つけ」
シークはそれ以上追及しなかったが、口の端が僅かに柔らかく緩んでいた。
村の外れを静かに流れる清流の小川に差し掛かると、シークはしばらくの間、足を止めた。澄んだ川面を、月光を浴びた銀色の魚の群れが跳ねるように鮮やかに泳いでいく。その光景に、シークは、いつもの無表情のまま、しかし、食い入るようにじっと見入っていた。
「珍しいな、お前がそんな顔するの」
いつの間にか追いついてきたウォルターが、背後からからかうように声をかけると、シークは即座に、いつもの氷のような無表情に戻った。
「別に、見てないから」
「今まさに、穴が開くくらい見てたじゃねえか」
「見てないってば」
シークは意地でも認めようとせず、ぷいとそっぽを向いて、足早に歩き出した。その白い耳の先が、僅かに赤くなっていることにウォルターは気づいていたが、ニヤリと笑うだけでそれ以上、追及はしなかった。
夜が深まるにつれ、周囲の気温は、急速に下がっていった。宿の暖炉の燃えさかる火だけでは、とても足りないほどの厳しい冷え込みに、四人は互いに身を寄せ合うようにして食堂の片隅のテーブルに留まっていた。
「こう寒くちゃ、体の芯まで凍っちまう。おい、親父、なんか温まるもんはあるか」
ウォルターが奥にいる宿の主人に声をかけると、もうもうと湯気の立つ、甘い香りの蜂蜜酒の入った木の器が、四人分運ばれてきた。
「これは」
「体を温めるにゃ、酒が一番だ。まあ、坊主どもには、ちと早いかもしれねえが、今日くらいは大目に見てくれ」
ガルトが、悪戯っぽくニカッと笑いながら、全員に器を配った。
カースもシークも、強い酒を口にするのは、これが生まれて初めてのことだった。あたたかい蜂蜜酒を一口含むと、喉の奥からお腹にかけて、じんわりと熱を持つのがわかった。
いつもよりも柔らかく饒舌になった空気の中、酒の熱で少し酔いが回り始めたのか、シークが、ふらりと視線を誰もいない虚空に漂わせながら、ぽつりと呟いた。
「俺は、人が死ぬのが、嫌いなんだ」
「急に、どうした」
ウォルターが、酒杯を止めて目を丸くした。
「感情がない、と思われてるけどさ。だけど、俺は……あの地下室で、何人もの失敗作が、静かに息を引き取っていくのを、見てきただろ? 何も感じないはずだったのに、今になって、あれが、ひどく嫌な記憶として、残ってるって気付いたの」
その悲痛な独白に、酔いで胸のタガが緩んでいたのか、カースも静かに重い言葉を続けた。
「僕も。もう、誰かが目の前で死ぬのを、見たくない、な」
酒杯を舐めるように飲みながら、小さな声で続ける。
「あの夜も、そうだった。ミミが、トウマが、リタが、チビが……ネロが。僕は、あの日から、誰かを失うことに、心底、うんざりしてるんだ」
その二人の切実な本音に、ウォルターも、ガルトも、しばらくの間、静まり返って黙り込んでいた。
「俺も、似たようなもんだ」
やがてウォルターが、深く息を吐いて静かに口を開いた。
「剣を振るう仕事をしてりゃ、否応なく、人の死には慣れる。だが、慣れるのと、平気になるのとは違う。俺だって、できることなら、もう誰も死なせたくねえよ」
珍しく、重くしんみりとした空気が、小さな食卓に流れた。
「辛気臭え話は、この辺にしとこうや」
ガルトが努めて明るい大声を張り上げ、重い空気を振り払うように言った。
「今夜くらいは、ゆっくり温まって、しっかり寝ておけ。明日からは、また気の抜けねえ道のりが続く」
その後、宿の狭い一室に戻った四人は、明日に備えて夜番の順番を決めることになった。
「よし、今夜は、賭け事で決めようや」
ガルトが、嬉々として手元の小石をいくつか床に並べ始めた。
「俺が胴元だ。奇数か偶数か、当てた奴から、寝る順番を選べる」
「お前、絶対、自分に有利なようにいかさましてるだろ」
ウォルターが、胡散臭そうに目を細めて突っ込んだ。
「人聞きの悪いこと言うなよ、ウォルター」
結局、いかさまの有無で一悶着ありながらも、最終的には、公平な謎かけ合戦で夜番の順番が決められることになった。カースが最初の見張りを引き当て、シークが二番目、ウォルターが三番目という結果に落ち着いた。
狭い宿の一室、それぞれの硬い寝床に落ち着いた頃、ガルトが、ふと思い出したように言った。
「なあ、せっかくだ。それぞれ、一番怖かった話でも、してみねえか」
「くだらない」
シークが、素っ気なく一蹴して切り捨てたが、ウォルターは面白そうに乗り気になった。
「いいじゃねえか。俺からいくぞ。昔、貴族時代に肝試しで入った廃墟でな……」
ウォルターの怪談は、身振り手振りを交えたそれなりに堂に入ったものだったが、話の最後で自分の大きな足音に驚いて自分で叫んだという情けないオチに、ガルトが腹を抱えて盛大に笑い転げた。
「次は、シークの番だ」
「話すことなんて、ないってば」
「いいから、なんかないのかよ」
ウォルターがしつこく促すと、シークは、しばらく深い沈黙の後、ぽつりと、抑揚のない冷たい声で語り始めた。
「デュベル邸の地下には、失敗した実験体の亡骸が、時々、放置されたままになっていた。夜になると、その亡骸の一つが、微かに、身じろぎするのを見たことがある」
「――」
「まだ息があったのか、あるいは、別の何かだったのか、俺は確かめなかった。それだけだね」
そのあまりに淡々とした語り口に、ウォルターとガルトが、揃って、僅かに顔を強張らせた。
「お前、それ、一番怖い話じゃなくて、実話だろ……」
「事実だけど、何か問題ある?」
「いや、いい。もう、寝よう」
ウォルターが、ゾクッと背筋を寒くしてそそくさと毛布を被り直した。結局その夜、一番の怖い話は、シークの実体験だったということで、静かに幕を閉じた。
翌朝、一行は、静かな村を発ち、再び、北への果てしない道を進み始めた。
しばらくゴツゴツとした岩がちな山道を進むと、道は、やがて緩やかに青々とした森の中へと入っていった。木々の合間を抜けた先、ぱっと開けた斜面に、段々に綺麗に整えられた葡萄畑が広がっているのが見えた。
「葡萄畑、か」
ウォルターが、その景色に目を留めながら、僅かに眉を寄せた。
一見すると、のどかなただの農村風景だった。しかし、よく目を凝らせば、その葡萄の蔓はあちこちで惨めにも萎れ、実る葡萄の房も痩せ細って、色艶に乏しいことがわかった。畑の脇では日に焼けた肌の農夫たちが、覇気のない重い様子で黙々と手入れを続けている。
「酷いもんだな」
ガルトが、手元の地図から目を上げて、その殺伐とした様子を一瞥した。
「見た目だけは繕ってあるが、土そのものが、痩せちまってる。近頃は、この辺りの土地は、軒並みこんな具合らしい」
カースは荷馬車の荷台の隙間から、萎れて力なく垂れ下がる葡萄の蔓を、しばらくの間黙って見つめていた。
豊かに実るはずの土地でさえ、この有様だ。この国の歪みは、思っていたよりもずっと根深く惨状として広がっているのかもしれない。
森を抜けると、道は再び荒涼とした岩がちな厳しい道へと戻っていった。
道中、痩せた斜面でたくましく草を食む山羊の群れを、幾度となく見かけた。荒涼とした厳しい土地であっても、その日を懸命に生きる命の営みは、確かにそこに息づいていた。
そんな山羊の群れが、遠く霞んで見えなくなった頃、街道は再びそびえ立つ岩塔の一つの麓へと差し掛かった。
街道沿いに設けられた広い石造りの広場に、黒い人だかりができていた。
「あれは」
カースが不吉な胸騒ぎを感じてその方向へ、視線を向けた。
広場の中央に高く組まれた無骨な木の絞首台。そこに一人の貧しい身なりの男が、力なく虚ろに吊るされていた。既に完全に事切れているのか、その体は、風に揺れるだけでぴくりとも動かない。傍らに立てられた擦り切れた木の板には、乱雑な黒い文字で何かが書き殴られていた。
「どういうこと、これは」
カースの声が、恐怖と憤りで僅かに掠れた。
通りすがりの老婆が、その凄惨な様子を見て重い溜め息交じりに呟くのが聞こえた。
「またかね……あの若いの、飢えた子どもに、パンの一つでも食わせてやりたかったんだろうさ」
「盗みを、働いたの?」
カースが思わず老婆に尋ねた。
「ああ。パン一つ盗んだだけだよ。それだけのことで、見せしめに、ああして三日も吊るされ続けるのさ。ゴリアテ様のご領地じゃ、盗人には、情け容赦なんてものはないからね」
老婆はそう言うと、慣れた様子で寂しげにその場を離れていった。
カースはその場に固まったように立ち尽くしたまま、怒りで拳を強く強く握りしめていた。旅の手袋の下、短い爪が掌に強く食い込んでいく。
「カース」
シークが静かに、その握られた手に優しく触れた。
「血が、出てる」
カースは言われて初めて、自分の手袋から、じわりと赤い血が滲んでいることに気づいた。
「大丈夫」
カースは短く静かにそう答えると、吊るされた絞首台に背を向けた。
「あいつらが、次に叩き潰されるべき理由が、また一つ増えただけだから」
その声は静かだったが、その奥底には、決して消えない抑えきれない怒りが沸々と確かに揺らめいていた。
馬車が、さらに先へ進み、グルントハルト領の中枢――無数の岩塔に囲まれた堅牢な城塞都市の麓に位置する、絢爛豪華な貴族街へと近づいていく頃には、周囲の景色は、まったく違う異様な様相を見せ始めていた。
美しい石畳の大通りは綺麗に整備され、色とりどりの派手な旗や豪華な垂れ幕が、通りの両側に華やかに飾り立てられている。
賑やかな市場には、山と積まれた新鮮で色鮮やかな果物や、金糸の刺繍が豪華に施された布、高価な宝飾品を扱う露店がずらりと軒を連ね、贅沢に着飾った人々の上品な笑い声や、楽団の奏でる陽気な旋律が、通りいっぱいに響き渡っていた。
それは、まるで、切り立った無機質な岩山の麓に、忽然と現れた、狂った祝祭の街のようだった。
「ここが、貴族街か」
ウォルターが荷馬車の隙間から、その光景を見つめながら、吐き捨てるように低く呟いた。
彼の目には、これまでの酷い荒野の光景と、目の前の華やいだ無神経な賑わいとの、あまりにも極端な落差が、はっきりと焼き付いていた。
「はっ……胸糞悪いな」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、ただ、溢れ出る怒りとともに小さく吐き捨てられた。
カースは何も言わなかった。ただ、先ほど目にした虚しい絞首台の光景と、今、目の前に広がる何も知らない華やかな街並みとを、静かに、脳裏で重ね合わせていた。
パン一つ盗んだだけで、酷く見せしめに吊るされる者がいる一方で、この街では、誰もが何の憂いもなく、笑い、歌い、着飾っている。
その理不尽なまでの残酷な断絶こそが、この国の――いや、七大貴族という存在そのものの、恐ろしい正体なのだと、カースは、改めて思い知らされていた。
「目的地は、もう少し先だ」
ガルトが、手元の地図を慎重に折り畳みながら、静かに告げた。
「ここからは、慎重に動くぞ。派手に目立つような真似は、極力避けろ」
四人は、旅装束の襟を深く引き上げ、祝祭に沸く街の中を静かに進んでいった。
(第13話「岩山の裁定」へ続く)




