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カース・オブ・エレニア ~蘇りし呪術師の成り上がり復讐劇~  作者: さかさき まる
第三章 土に埋もれた忠誠

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第11話「崩れた歯止め」

【注意】

本作品はダークファンタジー・復讐劇です。

物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。

また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。

作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。

苦手な方は閲覧にご注意ください。

 


 カースの右腕に絡んだ呪鎖が、飢えた野獣が獲物に食らいつくように、皮膚へと深く沈み込んでいった。

 肉が削ぎ千切られる、生々しく湿った音。鎖の固い隙間から、赤黒い血が幾筋も勢いよく噴き出し、冷たい石畳の地面へと滴り落ちていく。

 ポタポタと落ちる血の音は重く響いていたが、カース自身はそれに気づいてすらいないようだった。絶望に沈み、俯いたその顔は乱れた漆黒の前髪の奥に隠れ、表情はほとんど窺えない。


 ただ、その隙間から覗く目の周囲には、これまでにないほど濃く、黒い呪印の紋様が浮かび上がる。毒々しい蔦のように絡み合いながら、その呪印はカースの顔を覆っていった。そして、その奥に宿る瞳の光は、これまで誰も見たことのない、濁り切った昏いものだった。


 膝の上に横たえられた黒猫の小さな亡骸――その力なく横たわる毛皮の表面を、まるで濃い墨を垂らしたかのような、重く粘性を持った黒い靄が、ゆっくりと這い始めていた。

 靄は猫の体の鋭い輪郭をなぞるように広がり、毛根を抜け、皮膚の下へと、じわり、じわりと染み込んでいく。まるで亡骸そのものが、内側から塗りつぶされていくかのような、不気味で背筋が凍るような浸食だった。


「カース」


 シークが、その眼前に広がる異様な光景に、僅かに息を呑んだ。感情を絶たれたはずの顔をわずかに強張らせ、慎重に一歩、距離を詰めようと足を前に踏み出す。


 その瞬間だった。


 カースの周囲に乱雑に散らばっていた瓦礫の欠片――崩れ落ちた石材や、朽ち果てた木の破片が、かたかたと、乾いた音を立てて震え始めた。次いで、それらの固い表面にも、あの不吉な黒い靄が糸のように細く伸びて、絡みついていく。


「――ッ、下がれ!」


 ウォルターが、極限の緊迫感の中で咄嗟にシークの肩を強く掴み、強引に後方へと引き戻した。

 次の瞬間、黒い糸に絡め取られた重い瓦礫や木片が、まるで見えない巨大な手に持ち上げられるように、ふわりと地面から浮き上がった。宙に浮いたそれらは、ぎこちなく、しかし確かな狂気の意思を持っているかのように、ふらふらと不気味に揺れ動いている。


「な――なんだ、これは……!」


 ガルトが、目を見開いた。裏社会を生き抜いてきた百戦錬磨の男でさえ、その光景には戦慄を隠せない。


 そして、カースの膝の上の黒猫の体が――ぴくり、と、微かに動いた。


 完全に生命の途絶えていたはずの、その小さな四肢が、不気味な糸に引かれる操り人形のように、かくん、かくんと、あり得ない角度に不自然に跳ねる。閉じられたままのはずの瞼の隙間から、薄っすらと、恐ろしい黒い光のようなものが漏れ始めていた。


「やめろ」


 シークが、低く、鋭い声を上げた。張り詰めた空気を切り裂くような声だった。


「カース、それ以上は――」


「みんなを」


 カースの声は、これまで聞いたことのない、地の底から響くような、重く二重の響きを帯びていた。人間のものではない何かが混ざった、おぞましい残響。


「みんなを、返せ」


 その歪んだ言葉と共に、猫の体に絡んだ黒い糸が、さらに圧倒的な密度を増していく。もはや、猫の小さな輪郭が、周囲を覆う黒い靄そのものと見分けがつかなくなるほどに。小さな体が、糸に吊るされた壊れかけの人形のように、がくがくと激しい痙攣を繰り返した。


「カース、正気に戻れ!」


 ウォルターが、喉を張り裂かんばかりに怒鳴るように叫んだ。粗暴な声が、夜の静けさを破る。


「そいつは、もう死んでるんだ!  無理やり動かしたところで、生き返るわけじゃない!」


「――うるさい」


 カースの声に、初めて、明確な拒絶の色が混じった。刺すような冷たさを含んだ叫びだった。


「うるさい、うるさい……!  お前らに、何がわかる……!」


 その叫びと共に、周囲に浮いていた巨大な瓦礫が、ぐらりと大きく揺れ、ばらばらと、四方八方へと崩れ落ちた。尖った破片の一つが、ガルトのすぐ横を風を切ってかすめ、石畳の地面に深く突き刺さる。


「わかるさ」


 ウォルターは、降り注ぐ瓦礫の雨を身をかわして避けながらも、カースへと、一歩、また一歩と着実に踏み出した。ブーツが瓦礫を踏みしめる音が響く。


「俺だって、大事なものを、目の前で奪われたことがある。だがな、坊や。死んだ者を、無理やり引きずり戻そうとすることが、正しい弔いだとは、俺には思えねえ」


「黙れ」


 カースの右腕が、猫の亡骸へと、ゆっくりと伸ばされていく。その指先からも、新たな黒い糸が、まるで体内の血管のように幾筋も伸び始めていた。


「これ以上、こいつを、道具にするな!」


 ウォルターが、腰の剣の柄に強く手をかけながら叫んだ。だが、その手は僅かに躊躇い、震えていた。斬りつければ、目の前にいる傷ついた少年を、直接傷つけることになる。


 その一瞬の躊躇いの隙間に、シークが飛び込んだ。


「――ッ!」


 ウォルターの制止の声も聞かず、シークは鋭く地を蹴った。


 無数に伸びゆく黒い糸の只中へ、迷いなく、自らの華奢な体を投げ出す。


 カースの振り上げられた右腕に、無数の黒い糸が、恐ろしい蜘蛛の巣のように絡みつこうとしていた。まさにその瞬間――シークは、両腕でその腕ごと、正面から強く抱き締めた。


「――ッ、シーク!」


 ウォルターの悲鳴じみた叫び声が響き渡った。


 凶悪な黒い糸の何本かが、シークの腕にも鋭く絡みついていく。ジジジと皮膚が焼け焦げるような、赤黒い不吉な痕が刻まれていくのが見えた。熱と衝撃。

 だが、シークにその耐えがたい痛苦は、一切伝わっていなかった。感情も感覚も希薄な自分が、感じるはずのない痛みを、今このとき、彼は初めて、少しだけ「感じてみたい」とすら思った。それだけの並々ならぬ覚悟で、どんな衝撃にも腕を離さなかった。


「離れろ」


 カースの声が、低く、危険に警告するように響いた。


「離さない」


 シークは、細い腕にしがみついたまま、びくとも動かなかった。感情の薄いはずのその声に、初めて、はっきりとした必死さが深く滲んでいた。


「お前が、これ以上、自分を壊すのを――見てられない」


 カースの右腕に絡んでいた黒い糸が、行き場を失ったように、じわじわと不気味に蠢いている。振り解こうと強く力を込めれば、容易く振り解けたはずだった。だが、カースの腕は、そのまま動かすことができず、固まったように動きを止めていた。


 カースの歪んだ視界は、まだ、正常に働いていなかった。目の前にいるはずのシークの輪郭が、あの日、無残に焼き殺されたミミの幻影と、幾度も幾度も重なり、入れ替わる。

 誰かの悲痛な声が、自分の胸の内側と外側の、両方から渦を巻いて聞こえてくる。もう、何が目の前の現実で、何が過去の惨劇の記憶なのか、境界線が完全に溶けてなくなっていた。


「離せ……! 離してよ……!」


 カースは、途切れ途切れの掠れた声で、何度も繰り返した。だが、その声は、拒絶の命令というより、ほとんど哀れな懇願に近かった。


「離さないと、また……また、僕は……」


 言葉が、溢れる感情と共に途中で崩れる。呼吸が、浅く、速くなっていく。胸が激しく上下し、まるで不快な水の中で溺れかけてもがいているかのように、彼の意識そのものが、わずかな酸素を求めて、必死にあがいていた。


「離せって、言ってるでしょ」


「嫌だ」


 シークは、カースの腕に顔を深く埋めるようにして、さらに強く力一杯に抱きついた。乱れた灰銀色の髪がサラサラと揺れ、いつも冷徹で感情を見せないはずのその綺麗な顔が、今は、はっきりと、苦痛と必死さで歪んでいた。


「お前は、俺を、道具のままにしておきたくないと、言った」


 その声が、微かに震えていた。これまで、どんな血生臭い死線や激しい戦いの最中でも決して揺るがなかったはずの声が、今は、明らかに、感情の波によって乱れていた。


「なら、俺も、お前を、化け物のままにはしておきたくない」


 シークの澄んだ目の縁に、じわりと、温かい水の膜が張っていくのが見えた。生まれつき感情を知らないはずの少年が、自分でもその涙の正体をわからないまま、涙腺だけを、勝手に緩ませていた。


「わからない……こんな気持ちは、知らなかった。だけど――嫌だ。お前が、これ以上、壊れていくのは、嫌だ」


 その、あまりにも不器用な、しかし偽りのない紛れもない本音の叫びが、周囲で荒れ狂う呪力の激しい奔流の中、カースの混濁した意識の、ほんの僅かな部分に確実に届いた。


 右腕に禍々しく絡んでいた黒い糸が、ぴたり、と、不自然に動きを止めた。


 猫の小さく冷たい亡骸に絡みついていた黒い靄も、ゆっくりと、その禍々しい勢いを弱めていく。カースの目の周りに深く刻まれていた黒い呪印も、その濃さを、僅かにだが確かに、薄めていった。


「――うるさい」


 カースの声から、僅かに、険しい力が抜けた。


「うるさい……うるさいんだよ……!」


 だが、その「うるさい」という絞り出すような言葉には、もう、先ほどまでのような拒絶の刃はなかった。


 それでも、身体の深層、奥底から勢いよく噴き出す呪力そのものは、完全には収まりきらなかった。指先の糸から溢れ出す黒い靄が、周囲の重苦しい空気をギチギチと軋ませ、遠くにある崩れかけた家屋の割れ残った窓ガラスが、禍々しい波動に共鳴するように、ピシリ、ピシリと音を立てて罅割れていく。


「このままじゃ、あいつ自身が、持たねえ」


 ウォルターが、額に汗を浮かべ、歯を固く食いしばりながら低く呟いた。


 その時だった。


「どけ、坊主ども」


 低く、しかし腹に響くような力強い声が、夜の静寂の中に響いた。


 ガルトが、なおも荒れ狂うカースの目の前に、堂々と真正面から進み出た。


「ガルト、危ねえ!」


 ウォルターが、慌てて手を伸ばして止めようとしたが、ガルトは、片手を軽く挙げてそれを静かに制した。


「カース」


 ガルトは、身体を殴りつけるように噴き出す呪力の暴風の中、微動だにせず、鋭い眼光でまっすぐにカースを見据えた。


「よく聞け」


 その声は、決して大きくはなかった。だが、不思議なほど通り、はっきりと、カースの鼓膜に届いた。


「お前が今、感じてる怒りは、正しい。あの子どもたちを、お前が命に代えても守りたかったって気持ちも、正しい。それを、否定するつもりはねえ」


「なら」


「だがな」


 ガルトは、静かに、しかし確かな大人の重みを持って、言葉を重重しく続けた。


「その怒りを、こんな場所で、自分自身を食い潰すためだけに使うのは――間違ってる」


「――」


「お前は、俺に言ったよな。誰も、道具として使い潰されたままにしたくないってな」


 ガルトは、地面に無惨に散らばる、あの一角にいたはずの子どもたちの、断片的な惨劇の痕跡――泥にまみれて落ちていた小さな靴、ねっとりとした血に染まった産着の布切れを、力強い視線で示した。


「あの子たちの死を、お前の怒りを爆発させるためだけの、ただの燃料にするな。それこそ、あの子たちを、二度、道具として使い潰すことになる」


 カースの混濁していた瞳に、初めて、大きな動揺の色が滲んだ。


「なら、僕は――」


「その怒りは、しまっておけ。だが、絶対にな、消すな」


 ガルトは、静かに、しかし二度と動かない岩のように力強く告げた。


「そして、正しい相手に、正しい場所で、ぶつけろ」


「正しい、場所」


「グルントハルト家だ」


 ガルトの声が、初めて、隠しきれない重厚な怒気を強く帯びた。


「あいつらは、おそらく、王子の施しだのに対抗して、力による秩序とやらを、見せびらかしたかったんだろうよ。だったら、こっちも見せてやろうじゃねえか。連中が調子に乗って踏みにじった、その報いってやつをな」


「――報い」


「これは、もう、私怨なんかじゃねえ」


 ガルトは、カースの揺れる目を、まっすぐに見据えた。逃げ場を与えない眼光だった。


「これは、宣戦布告だ。あの子どもたちの死を、お前一人の悲しみで終わらせるな。あの一族丸ごとを叩き潰す、その理由にしろ」


 その一切のブレのない言葉が、荒れ狂っていたカースの呪力の中心に、静かに、しかし確かに、深く届いた。


 周囲に禍々しく渦巻いていた黒い靄が、スーッと少しずつ、その勢いを弱めていく。猫の亡骸に深く絡みついていた不気味な呪力も、ゆっくりと、その手を緩めて解けていった。


「――」


 カースは、未だ小さく震える両手で、二度と動きをみせない猫の亡骸を、そっと愛おしむように胸に抱き直した。


「ごめん」


 彼は、夜の闇に向かって、誰にともなく、ぽつりとそう呟いた。


「お前を、こんな風に使おうとして、ごめん」


 猫の温もりを失った体は、二度と動くことはなかった。だが、その静かな命の重みだけが、カースの腕の中に、確かに残っていた。


「カース」


 シークが、なおも震える膝を抑えながら、そっとカースの隣に膝をついた。


「大丈夫か」


「――わからない」


 カースは、かすれて途切れそうな声で答えた。


「僕は、また、大事なものを、守れなかった」


「今度は」


 シークが、静かに、だが確固たる響きで言った。


「今度は、俺たちがいる」


 カースは、そのまっすぐな言葉に何も返せなかった。ただ、俯いたまま、猫の亡骸をいつまでも抱き続けていた。


 ウォルターは少し離れた場所で、月明かりの下に佇むその光景を見つめながら長く深い息を吐いた。


「ガルト。よく、あんな真正面から言い切れたな」


「ハッタリだよ」


 ガルトは、強ばった額に滲み出た大量の冷や汗を拭いながら、力なく苦笑した。


「内心じゃ、正直、生きた心地がしなかったぜ」


「そうは見えなかったけどな」


「見せかけだけは、うまいのが取り柄でな」


 ガルトは、そう言って小さく笑った。しかし、その険しい目は、まだ震えているカースへと、静かに向けられていた。




 その夜、惨劇の残骸が漂う廃墟の中で、四人は、静かに、これからのことを話し合った。


「行こう」


 しばらくの重苦しい沈黙の後、カースが、静かに口を開いた。


 その声には、先ほどまでの、制御を失いかけた激しい激情は姿を消していた。だが、代わりに宿っていたのは、より深く、より冷たく研ぎ澄まされた、揺るぎない決意の色だった。


「グルントハルト家を、根絶やしにする」


「――望むところだ」


 ウォルターが、腰の剣の柄に、静かに力強く手をかけた。


「俺も、行く」


 シークが感情の薄い声で、しかしはっきりと殺意を告げた。


「情報は、任せろ」


 ガルトが、力強く頼もしく頷いた。


 骨の街の冷え込む夜空の下、四人の視線が、北の彼方――凄惨な断崖と荒々しい岩山に囲まれた、グルントハルト家の巨大な居城へと、静かに向けられていた。


(第12話「北への道」へ続く)

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