第10話-2「見せしめ」
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
交渉自体は思いのほか長引いた。水路の権利をめぐる細々とした陰湿な駆け引き。互いに一歩も譲らず、じりじりとした押し問答が続いた末に、ようやく双双方納得できる形での折り合いがついた頃には、既に一刻近くが経過していた。
「ったく、疲れる相手だったな」
ウォルターが肩を回しながら、大きく息を吐いた。
「これで、今夜は終わり?」
カースがそう呟いた、その時だった。
――ドン!
夜の静寂を切り裂くように、鈍く重い衝撃音が遠く離れた方角から響き渡った。
骨の街の、あの一角のある方向から。
「今のは?」
カースは弾かれたようにその方角を振り返った。
嫌な予感が、血の凍る冷たさとなって腹の底から急速にせり上がってくる。
「まさか」
ガルトの顔からも一瞬にして血の気が引いた。
「戻るぞ!」
四人は示し合わせるまでもなく、一斉に駆け出した。
路地を抜け、あの一角に近づくにつれ、辺りの空気が明らかに変わっていくのをカースは肌で感じ取っていた。立ち上る焦げた匂い。生臭い血の匂い。そして、あまりにも静かすぎる夜の気配。
辿り着いた瞬間――カースの足は、その場に凍りついた。
さっきまで子どもたちの笑い声が響いていた場所が、悪夢のような廃墟と化していた。
崩れた石壁。踏み荒らされた地面。くすぶる黒煙を上げる家財道具の残骸。そして――地面のあちこちに広がる、黒く変色した血だまり。まだ乾ききっていない血痕は月明かりを鈍く照り返し、この場所で起きた凄惨な狂気を何よりも雄弁に物語っていた。
だが――そこには誰もいなかった。
「な……」
ウォルターの喉から掠れた声が漏れた。
彼はこれまで幾多の修羅場を潜り抜けてきたはずだった。だが、目の前の光景に、その顔から完全に血の気が引いていた。
「なんだ、これは……」
ガルトもまた言葉を失っていた。裏社会の裏の裏まで知り尽くしているはずの男が、口を半開きにしたまま、その場に立ち尽くしている。
シークだけが無言のまま、地面に広がる血だまりへと静かに歩み寄った。感情の薄いその顔にも、僅かに強張ったものが浮かんでいた。血だまりから、何か重いものを引きずったような幅の広い跡が、暗い路地の奥へと続いていた。
「引きずられてる」
シークが低く呟いた。
「複数の跡だ。抵抗した形跡は……ほとんど、ない」
「みんな、どこ」
カースの声が震えていた。
「みんな……! 誰か、いないの……!」
返事はなかった。
カースは瓦礫をかき分け、崩れた小屋の中を覗き込み、必死に名前を呼び続けた。
「トウマ! リタ! ……いや、違う、こっちの名前じゃない――リン! あとは、ああっ、名前を、ちゃんと聞いておけばよかった……!」
自分でも何を口走っているのかよくわからなかった。ただ、この場所にいたはずのあの子どもたちの姿を、一人でもいいから生きて見つけたかった。
「カース、あっちだ」
シークが路地の奥を指差した。
崩れた壁の陰、積み上げられたゴミの隙間に、小さな靴が片方だけ落ちていた。先ほどパンを受け取って喜んでいた、あの少年が履いていたものとよく似ていた。靴の周りにも、小さな血の染みが点々と散っている。
カースは震える手でその靴を拾い上げた。
「嘘、だ」
さらに奥へと進むと、崩れた石材の下に、あの若い母親が使っていたであろう赤ん坊用の産着の切れ端が、ねっとりとした血に染まって落ちていた。その傍らの壁には、爪で引っ掻いて必死にあがいたような幾筋もの生々しい傷跡が残っていた。
カースの息が次第に荒くなっていく。
視界が狭くなっていく。
「みんな、どこ……! お願いだ、返事をして……! リンは?」
以前から通っていた診療所も――潰れていた。
かつて静かな日常があったその場所は、跡形もなく叩き壊され、無残に踏み荒らされていた。診察台は真っ二つに割れ、棚から散乱した薬瓶の破片が、足元で不気味に赤く染まった床に突き刺さっている。壁には黒く焦げた精霊術の爪痕が深く刻まれ、かつて薬草の匂いが漂っていた室内には、焦臭い煙と重苦しい死臭だけが充満していた。
ヴァルクライン家の地下から助け出し、ガルトの手配した古い教会堂へと預けた子どもたち。
両足を失い「もう走れない」と呟いたリンの頭に手を置き、「生きてるだけで十分だ」と伝えたこと。扉越しに交わした「また来る」という約束。
翌日、片腕の少年と木片で家を作りながら、リンと笑い合って重ねた二つ目の約束。「約束が増えているな」と呆れるシークに「黙ってて」と返した、あの温かな時間。
その全てが与えられていたはずの場所が、今は暴力と絶望の残骸に変わり果てていた。
(あの子たちは、どうなったんだ。あの約束はどうなるんだ。)
ウォルターとガルトも、それぞれ手分けして瓦礫の下や崩れた家々の中を探し回っていた。二人とも探すたびに言葉少なになっていった。目にするものすべてが、あまりにも口にするのが憚られる惨劇の痕跡ばかりだったからだ。
だが見つかるのは、誰かが確かにそこにいたことを示す断片的な遺品ばかりだった。
そして――カースは一角の隅、小さな路地の突き当たりで、それを見つけた。
あの黒い野良猫が、地面に力なく横たわっていた。
少し前、カースの足に甘えるように擦り寄ってきた、ネロによく似たあの猫。シークを威殺して、ウォルターに笑われていたあの猫。
その体は、既に冷たくなっていた。
「――あ」
カースの喉から掠れた声が漏れた。
膝から力が抜けていく。
猫の亡骸の傍らにへたり込むように座り込みながら、カースは震える手を伸ばし、その小さな体に触れた。
まだ微かに残る温もりが、急速に冷たさへと変わっていくのが掌を通して伝わってくる。
この一角にいたはずの人々は、誰一人として見つからなかった。子どもたちも、あの若い母親も、赤子も。まるで最初から誰もいなかったかのように、この場所から綺麗に消え去っていた。
だが、この小さな亡骸だけが、確かにここで凄惨な暴力が起きたことを突きつけていた。
「連れて、いかれたのか」
シークが感情の抜け落ちた声で、地面に落ちていた金属の旗印の欠片を拾い上げながら呟いた。
「グルントハルト家の紋章だ」
「連れていかれた……? どこに……!」
カースの声が裏返った。
「わからない。だが、この様子だと――生きて連れていかれたとは、思えない」
シークの冷酷な言葉が、カースの中の最後の希望を静かに打ち砕いた。カースは猫の冷たくなった体を、両腕でそっとすくい上げた。
この子だけは。この子の骸だけは、せめて。
そう思った瞬間――喉の奥から、堰を切ったように絶叫が迸った。
「あああああああああああああっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫が、夜の骨の街に激しく響き渡った。その瞬間――カースの意識の奥深くで何かが弾けた。
視界が暗転する。
代わりに奔流となって流れ込んできたのは、自分のものではない、見知らぬ誰かの凄惨な記憶だった。
炎に包まれる、見知らぬ村。
精霊使いたちの冷酷な手によって、一人、また一人と屠られていく悲鳴を上げる人々。老人も、女も、そして幼い子どもたちさえも容赦なく切り刻まれる。
その惨劇の片隅で、一人の呪術師が絶望に膝をついていた。彼の目の前には、彼が愛した一族の――家族の、見るも無残な亡骸が山となって折り重なっていた。
彼は涙も涸れ果てた血走った目でその亡骸たちを見つめながら、静かに、しかし確かな声で誓っていた。
(お前たちを、二度とあいつらの好きにはさせない。)
(お前たちの体は、これから先も俺と共に、あいつらへの復讐を果たす。)
ドス黒い呪力が亡骸たちに絡みつく。動くはずのない体が不気味な糸に引かれるように、ゆっくりと、異様な音を立てて起き上がっていく。
それは絶望の果てに辿り着いた最後の手段だった。愛する者たちの亡骸を二度と朽ちさせず、憎き敵を屠るための道具として蘇らせる――呪詛にも似た、狂気と執念の技。
その記憶が、強烈なフラッシュバックとなって幾度も、幾度もカースの脳裏を駆け巡った。
(お前だけじゃない。)
(お前だけが、大切なものを生きたまま失ったわけじゃない。)
名も知らぬ遠い昔の呪術師の慟哭が、カースの絶望と重なり合っていく。
「う、あ……」
カースは震える両手を地面についた。膝の上に横たえた猫の小さな亡骸だけは、決して離さなかった。
右腕に絡む呪鎖がこれまでにない激しさで脈打ち、彼自身の肌に強く食い込んでいく。皮膚が引き裂かれ、鮮血が滴り落ちる。だが、その痛みすら今のカースにはほとんど感じられていなかった。
「――カース?」
シークが異変に気づいて後ずさった。
「シーク、離れてろ!」
ウォルターが咄嗟に叫び、シークを引き寄せる。
カースの体から溢れ出す黒い呪力が、これまで見たこともないほどの密度で渦を巻き、周囲の空間と空気を軋ませていた。
(第11話「崩れた歯止め」へ続く)




