第10話-1「見せしめ」
王都グラン・ヴェルガリアから遥か北。断崖と荒々しい岩山に囲まれた高地に、グルントハルト家の居城はそびえ立っていた。まるで山そのものが異形の形へ変貌を遂げたかのような、冷酷で圧倒的な圧迫感を周囲へ放っている。
当主ゴリアテ・フォン・グルントハルトは、玉座にも似た重厚な石の椅子に深々と腰掛け、届いたばかりの報告書を凝視していた。広間に漂う冷気の中に、彼の放つ怒りがじりじりと満ちていく。
その広間の片隅、太い石柱が落とす暗い影の中に一人の男が佇んでいた。
派手な色合いの道化の衣装。しかし、誰一人としてその存在に視線を向けようとはしない。まるで初めからそこに空気として存在しているかのように、居並ぶ家臣たちの視線は男の上を滑らかに素通りしていく。グルントハルト家に道化師が仕えているという話など、誰も聞いたことがなかったはずだった。それにもかかわらず異変に気づく者すらおらず、怪しむ思考そのものが怪異によって覆い隠されていた。
「王家からの配給が、また減ったというのか」
ゴリアテの低く重い声が、石造りの天井と壁面に重々しく反響した。
「はい。此度の削減は、七大貴族の中でも、特に我が家への割り当てが大きく削られております」
ひざまずいた家臣が、石床に頭を擦り付けんばかりの体勢で、震える声を絞り出した。
「ふざけるな」
ゴリアテの手元で、羊皮紙の報告書が鈍い音を立てて握り潰された。岩のように太い前腕に、怒張した青筋が幾筋も浮かび上がる。
「我が一族は、代々王家に忠誠を尽くしてきた。それを、こうもぞんざいに扱うとは」
「加えてもう一つ、耳障りな噂が」
家臣はさらに言葉を続けるのを明らかに躊躇い、乾いた唇を震わせた。
「申せ」
「はっ。……エアハルト家が、王家に対し、グルントハルト家は近頃、独自に禁忌の力に手を出しているのではないかと、それとなく吹き込んでいるという噂がございます」
「なんだと」
ゴリアテの瞳に、明確な殺意を帯びた怒りの色が宿った。
「あの二枚舌の商人風情が、我が家を陥れようとしているというのか。配給が絞られたのも、まさか――」
「あくまで、噂でございます。ですが、シルヴァン殿は、以前より、王家への取り入り方が巧みで……」
「増長しおって」
ゴリアテが込めた強い力により、石の肘掛けに深い亀裂が走り、パラパラと乾いた粉じんが落ちた。
「風ごときに嗅ぎ回られ、我が家の面目が潰されようとしている。それだけでも、腸が煮えくり返る話だというに」
彼の脳裏に、怒りを煽る別の不快な記憶が鮮明に蘇っていた。
「加えて――」
「はっ。ライハルト家のアルベルト様が、正体不明の呪術師に討たれた一件、そして王家の第一王子殿下が、自ら下層街に赴き、平民どもに施しを与えられた一件。両方とも、七大貴族の威信を、大きく傷つけたと、貴族の間で囁かれております」
「呪術師、か」
ゴリアテは忌々しげに呟き、唾を吐き捨てるように吐息を漏らした。
「あの澄まし顔のアルベルトが、下賤な呪いなんぞにやられたと聞いた時は、いい気味だと思ったものだが……このままでは、我らまで、なめられかねん」
彼はゆっくりと巨躯を立ち上げた。見上げるほどの巨体が広間の灯りを遮り、ひざまずく家臣たちの上に暗く重い影を落とす。
「エアハルトの陰口といい、王家の甘さといい――近頃、この国では、身の程を弁えぬ者が増えすぎている」
ゴリアテの拳が重く握り締められ、骨の鳴る音が周囲に響く。
「王子が平民に慈悲を施し、呪術師が禁忌の力を振りかざす。それを見た者たちが、力ある者に逆らっても構わぬなどと勘違いすれば、やがて国そのものの秩序が崩れる」
「……」
「だからこそ、我々が示す必要がある」
その声には単なる感情的な怒りではない。自らの行いを疑うことすら知らぬ、歪んだ絶対の信念があった。
「力を持つ者が、力なき者を守る。それが、この国の秩序だ」
ゴリアテは広間の奥を深く睨み据えた。
「だが、その力なき者が、禁忌の力を持つ者の庇護を受け、我らの秩序に楯突くのであれば――話は別だ」
「具体的には、いかに」
「呪術師とやらが根城にしているという、骨の街」
ゴリアテの声が一段低くなり、冷徹な威圧感を増す。
「あの男が目にかけているという、平民の子どもらを狩れ」
「な! 子ども、で、ございますか」
「ああ」
ゴリアテは即座に頷いた。
「呪術師が奴らを庇っているのなら、あの子どもたちは、奴にとっての繋がりであり、支えであり、そして民衆にとっての象徴となる」
「……」
「ならば、その象徴を残してはならん」
家臣の顔が恐怖で強く強張る。
「子どもたちも……殺すのでございますか」
「当然だ」
ゴリアテの返答には一片の躊躇もなかった。
「情をかければ、また同じことが起きる。ひとりを見逃せば、次は二人。その二人を見逃せば、やがて十人、百人となる」
彼は低く息を吐いた。
「我々が恐れているのは、あの子どもたちそのものではない。呪術師を頼れば、この国の秩序に逆らえる――そういう考えが、民の中に広がることだ」
ゴリアテは拳を握り締める。
「だから、見せしめにする。呪術師の庇護を受けた者が、どこへ行き着くのかをな」
「……御意」
家臣は震えを押し殺しながら頭を垂れた。ゴリアテは、その姿を見下ろしながら静かに言った。
「これは私怨ではない。我が家の誇りのためでもない。秩序を守るためだ」
その言葉に、彼自身は微塵の疑いも抱いていなかった。
「王子が慈悲を掲げるなら、我々は力を示す。呪術師が禁忌を掲げるなら、我々は恐怖を示す。この国の秩序を揺るがす者には――その代償を払わせる」
ゴリアテの双眸が冷たく光った。
「子どもであろうと、例外はない」
「御意」
家臣たちの揃った声が、重い石壁に反響した。
冒頭からずっとそこに佇んでいた、あの道化の衣装の男が、まだ同じ場所に立っていた。誰にも気づかれることなく、不気味な笑みを口元に浮かべたまま、その男はゴリアテの言葉を一言一句聞き逃さなかった。
宮廷道化師、名前はトール。派手な化粧をほどこした、だが印象の薄い顔立ちは、この広間にいる誰の記憶にも、なぜかまともに残っていなかった。
「ふぅん」
小さく、囁くような声が漏れる。
「グルントハルト家が、勝手にエアハルト家を疑って、勝手に頭に血を上らせてくれる、か」
トールはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「都合のいいことだ。僕は、ほんの少し、噂を囁いただけなのに。あとは、こうして、あちらから勝手に踊ってくれる」
その歪んだ存在に、ゴリアテも、家臣たちも、誰一人として気づいていなかった。
その日の夕方、骨の街の一角では、いつもと変わらぬささやかな時間が流れていた。沈みかけた夕陽が傾いた屋根の隙間から細い斜光となって差し込み、宙に舞う小さな埃の粒を金色にキラキラと揺らしている。路地の奥からは、どこか遠くで誰かが鍋を洗う金属音や、風が擦り切れた布カーテンを揺らす微かなため息のような音が混じり合って届いていた。
「はい、今日はこれで最後だよ」
カースは最後の一つになったパンと干し肉を、痩せた少年の手に優しく握らせた。パンの表面に残るかすかな温もりと、固く干された肉の質感が、少年の小さな手のひらに確かな重みとして伝わる。
「にいちゃん、ありがとう!」
少年は嬉しそうに顔をほころばせ、薄汚れた着物の裾をひらめかせながら、裸足に近い足取りで石畳を蹴って走り去っていった。その元気に跳ねる足音が、夕暮れの路地に小さくこだまする。
この半月ほど、カースはこの一角に密かに足を運ぶようになっていた。雨風を凌ぐだけの崩れかけた土壁に囲まれ、身寄りのない子どもたちが肩を寄せ合う小さな集落。ガルトの伝手で回してもらった余りものの食料を届けるのが、いつしかカースの心安らぐ日常となっていた。荒んだ街の空気の中で、この場所と療養所だけが彼にとって荒んだ呼吸を整えられる唯一の場所だった。
「抱いてみるかい」
傍らにいた若い母親が、ふと腕の中の赤子をカースへと差し出した。使い古された布にくるまれた小さな包みが、目の前に差し出される。
「え……」
カースは思わず眉を跳ねさせ、自分の両手を泳がせるように宙で迷わせた。
「大丈夫だよ。優しい兄さんだって、みんな言ってるからね」
母親の和やかな笑みに背中を押され、戸惑いながらも、カースはおずおずと息を詰めて赤子を受け取った。自分の薄汚れた服や荒れた手が小さな皮膚を傷つけやしないかと、背筋を硬直させながら慎重に指先を添える。
軽く、そして驚くほど温かかった。胸のあたりから伝わってくる小さな命の脈動が、一定の規則正しいリズムでカースの掌をトントンと揺らす。すやすやと眠るその小さな寝顔を見つめていると、胸の奥に何とも言えない柔らかな感情が込み上げてくる。まるで冷え切っていた心の奥底に、小さな小さな灯火が一つぽっと灯ったかのようだった。
「重いね」
カースはぽつりと呟いた。自身の声すらも、赤子の眠りを妨げないように掠れさせる。
「命が、ちゃんと詰まってる重さだ」
言葉にすることで、腕の中の温もりがより一層尊いものとして心に染み込んでいく。
その様子を少し離れた場所から見ていたウォルターが、からかうように口笛を吹いた。ヒューという軽い音が夕暮れの空気に溶けていく。
「おいおい、坊やに子守りの才能があったとはな」
ウォルターは太い腕を組み、壁に背を預けたまま、どこか目を細めてその光景を眺めていた。
「うるさいな」
カースは赤子を起こさないよう、小声で言い返した。呆れたように視線だけをウォルターに向け、すぐにまた愛おしそうに腕の中へ視線を落とす。その時、一匹の黒い野良猫が、するりとカースの足元に現れ、甘えるように体を擦り寄せてきた。擦り寄るたびに、カースの裾がかすかに揺れる。
「――あ」
カースは思わず目を細めた。西日に照らされた毛並みも、しなやかな体の大きさも、あの日共に生きたネロによく似ていた。もちろん別の生き物だとわかっている。あの子はもうここにはいないのだと、胸のどこかがツンと痛む。それでも足元に感じるそのぬくもりに、カースはしばらくの間、愛おしそうに目を離せずにいた。
猫は赤子を抱いたままのカースの足に満足したのか、今度は少し離れた場所に立っていたシークの方へと、するすると近づいていって足元へ頭を寄せる。気まぐれな足取りで、影のように静かに移動していく。
「来るな!」
シークが無表情のまま僅かに身を引いた。いつものように気配を極限まで殺し、石像のように佇んでいた彼の足元に、無警戒な生き物が近づいたことで、わずかに眉間が寄る。猫は構わず、シークの足に頬を擦り寄せようとした。
「ふしゃあっ!」
シークが反射的に猫を睨みつけた。その視線の鋭い殺気に驚いたのか、猫の方が逆に威嚇するように毛を逆立て、小さく悲鳴のような声を上げた。猫の全身の毛が立ち上がり、背中が丸く跳ね上がる。
「な……なんで、威嚇されるんだ」
シークが珍しく本気で戸惑った声を上げた。鋭い眼光のまま、しかしどこか見えないものに襲われたかのように腕を浮かせ、去っていく猫の背中をポカンと見送っている。
「そりゃあ、お前のその目が、獲物を狙う獣そのものだからだろうよ」
ウォルターが盛大に笑い声を上げた。豪快な振動が彼の大きな胸を揺らす。
「はっはっは! 天下の暗殺人形様が、猫一匹に嫌われるとはな!」
「笑うな」
シークの冷ややかな声が落ちるが、ウォルターの笑い声は止まらない。
「無理言うなよ」
ウォルターは笑いながら、シークの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。大きな手が、シークの整った髪を躊躇なくくしゃくしゃにかき乱す。
「まあ、お前もこうしてりゃ、可愛げのあるガキに見えるってもんだ」
「やめろ」
シークは乱された髪を手で押さえながら、ウォルターの手を勢いよく振り払った。パシッと乾いた音が響く。
「触るな」
眉をひそめ、不機嫌さを露わにしながら髪を直すシーク。
「はいはい」
ウォルターはまったく懲りた様子もなく、笑いながら両手を上げた。カースはその光景を眺めながら、腕の中の赤子にそっと視線を戻した。賑やかなふたりのやり取りが背景に溶け込み、心地よい温もりとなって耳に届く。
(こんな、何でもない時間がいつまでも続けばいいのに。)
夕闇が静かに街を包み込んでいく中、この穏やかな時間が永遠であればと、カースは心の中で静かに祈った。
そう思った、その矢先だった。
「おい、お前ら三人とも、ちょっと面貸せ」
ガルトが少し離れた路地から、大きな声で呼びかけてきた。建物の影から姿を現した彼の外套が、暮れなずむ風に揺れている。
「水路の縄張りの件で揉め事が起きてな。向こうの元締めが、直接顔を見て話をつけたいとかぬかしてやがる。数で押し切られると面倒だ、三人まとめて来てくれ」
「今すぐ?」
カースが僅かに眉を寄せた。腕の中の温もりを手放さなければならない一瞬の寂しさが、胸を掠める。
「善は急げだ。向こうさん、気が短くてな。今夜のうちに話をつけとかねえと、明日には縄張りごと持っていかれかねねえ」
ガルトはどこか焦りを滲ませた手つきで、ポケットの中の煙草入れをいじりながら言った。
ウォルターが大きく伸びをしながら、背中の剣を担ぎ直した。金属同士が擦れ合うカチリとした冷たい音が響く。
「まあ、しゃあねえな。坊や、行くぞ」
「俺も、行くのか」
シークが面倒くさそうに聞いた。視線だけをガルトへと向ける。
「相手がどんな手を使ってくるかわからねえ。お前の目は、あった方がいい」
ガルトが真剣な声で言った。その目の奥には、いつもと違う重苦しいものが宿っているようにも見えた。
カースは名残惜しそうに、赤子を母親へと返した。手元からぬくもりが離れていく寂しさを噛みしめながら、そっと布の端を整える。
「またな」
「にいちゃん、また来てね!」
遠くから走ってきた子どもたちが手を振り、無邪気な声が夕暮れの路地に響き渡る。子どもたちに見送られながら、カースはシークとウォルター、そしてガルトと共に、その一角を後にした。伸びていく四人の影が、薄暗い石畳の上でゆっくりと一つに重なり合っていった。
(第10話-2「見せしめ」へ続く)




