第9話-3「無垢なる光、第一王子」(第2章完結)
「呪術師潜伏の調査、ですって」
ガルトが持ち込んだ情報に、ウォルターが片眉を上げた。
「精霊王家が、直々に調査団を出したのか。それも、下層街に?」
「ああ。しかも、団長として直々に赴くのが第一王子、エリオット・フォン・グラン・ヴェルガリア様だ」
その名を聞いた瞬間、酒場の空気がわずかに張り詰めた。
「王家の第一王子が、自ら下層街に足を運ぶって?」
ウォルターが、珍しく本気で驚いたような声を出した。
「あの連中は普段、俺たちみたいな平民の生活する場所になんぞ、足も踏み入れねえのが常だぜ」
「噂じゃあの王子は、他の貴族どもとは毛色が違うらしい」
ガルトが、煙草をふかしながら言った。
「私財を投じて、下層街に施療院を建てただの、飢饉の年に自ら食料を配って回っただの……眉唾な話も混じってるだろうが、まったくのでたらめでもなさそうだ」
カースは、その話を黙って聞いていた。
王子――その言葉が、胸の奥の、まだ塞がりきっていない場所を静かに撫でていく。
かつて丘の向こうに見えた光。清く、正しく、僕らを守ってくれるはずの存在。あの理想は、アルベルトの手によって粉々に踏みにじられた。
だが、もし、あの理想が、まだどこかに残っているのだとしたら。
(僕はそれを、この目で確かめずにはいられない。)
その日の夕方、エリオットの一行は骨の街の外れへと降り立った。
護衛の兵たちは、馬車を降りた瞬間から、あからさまに顔をしかめていた。
「なんという、悪臭だ」
誰かが口元を布で覆いながら、小さく呟いた。
ゴミと汚水の入り混じった、饐えた匂い。ぬかるんだ地面には、割れた瓶や朽ちた木材が無造作に転がり、そこかしこに、痩せ細った野良犬や、当てもなくうずくまる人々の姿があった。壁という壁には、修繕もされないままの亀裂が走り、崩れかけた掘っ立て小屋が、折り重なるように連なっている。
「殿下、どうか、お足元には十分にお気をつけを」
護衛の一人が、顔をしかめたまま、エリオットの前に回り込んで道を確かめようとした。
「大丈夫だ」
エリオットは、静かにそれを制した。
彼の目には、他の護衛たちのような嫌悪の色は、微塵も浮かんでいなかった。ただ、この光景を、一片も見逃すまいとするかのように、じっと見つめていた。
施療院には、既に多くの民が列をなして待っていた。傷を負った者、病に倒れた者、飢えに苦しむ子どもたち。誰もが皆、痩せ細り、あるいは体のどこかに、癒えることのない傷を抱えていた。
その中に、深い傷を負った少年がいた。転落事故で足を潰され、まともに歩くこともできなくなっていた少年。医者に見せる金もなく、家族は絶望した顔で寄り添っていた。
「見せてくれるか」
エリオットは、少年の傷を優しく検分した。それから、静かに目を閉じ両手を傷口へとかざした。
「聖浄化の光輪」
その言葉が紡がれた瞬間だった。
エリオットの手のひらから、柔らかく暖かい、真珠色の光が溢れ出した。光は、まるで意思を持った生き物のように、彼の周囲へと円状に広がっていく。それは、破壊のための炎とはまるで違う、癒しのためだけに存在するかのような、この上なく優しい輝きだった。
列をなしていた者たちの間から、思わず、感嘆のどよめきが上がった。
「な――」
その光は、少年一人だけに留まらなかった。真珠色の輝きは、施療院全体を包み込むように広がり、居合わせた病人や傷ついた者たち全員を、等しく優しく照らし出していった。
咳の止まらなかった老人の呼吸が、穏やかになる。膿んでいた傷口が、見る間に塞がっていく。栄養失調で震えていた子どもの頬に、僅かながらも赤みが差す。
この技は、王家の中でも、エリオットただ一人にしか使えないと言われていた。歴代の精霊王と契約を交わした、始まりの精霊そのものの祝福を受け継いだ者にしか発動し得ない奇跡の光。それが今、まるで、この骨の街全体を祝福するかのように静かに降り注いでいた。
光に包まれた少年の傷が、ゆっくりと、しかし確かに癒えていく。潰れていた足の骨が、正しい形へと戻っていくのを見て、少年の母親は声を上げて泣き崩れた。
「あ、ありがとうございます……! 殿下、本当に、ありがとうございます……!」
「礼を言うのは、私のほうだ」
エリオットは、少年の頭を優しく撫でながら微笑んだ。
「この国を、あなたたちが生きて支えてくれている。その事実に、私はもっと早く気づくべきだった」
傍らで見守っていたレイフが、感動に打ち震えていた。
「殿下は、やはり……真の正義そのものだ」
その様子に続いて、エリオットは傷ついた老婆にも自ら膝をついて声をかけていた。
「お怪我をされているのですね。すぐに手当てを」
周囲の護衛が慌てて止めようとするのを、彼は柔らかく手で制した。
「構わない。この方は、私よりよほど、この国のために生きてこられた方だ」
少し離れた路地の陰から、カースはその光景を、じっと見つめていた。
胸の奥が、ざわついていた。
それは、単純な喜びではなかった。だが、ただの羨望とも、違った。もっと醜く、もっと身勝手な感情が、腹の底から、じわじわと這い上がってくる。
(お前は、今更、何をしている。)
あの日、僕らが泥の中で死にかけていた時、お前はどこにいた。ミミが焼かれ、ネロが死んでいったあの瞬間、お前のその手は、一体、何を守っていたんだ。
(助けてほしかった。)
あの時こそ、助けてほしかった。
それなのに、今になって、こんな見ず知らずの子どもたちには、迷いなく手を差し伸べるのか。
筋の通らない身勝手な八つ当たりだということは、カース自身、わかっていた。エリオットが、あの日の惨劇を知る由もなかったことも、わかっていた。それでも、その理不尽な怒りは、一度湧き上がると簡単には収まってくれなかった。
(なぜ、あの時じゃなかった。なぜ、今更。なぜ、僕らじゃなかった。)
「なあ、坊や」
少し離れた場所から、ウォルターが声を潜めて話しかけてきた。その顔からいつもの飄々とした余裕は、すっかり消え失せていた。
「あれは……本物、なのか」
カースは、すぐには答えなかった。
「俺はな、貴族なんてもんは、上から下まで、腐りきった連中だとばかり思ってた。だが……あの光景が、もし本物だとしたら」
ウォルターは、珍しく言葉を選びかねているようだった。
「あんな人間が、本当にこの世に存在するっていうのか。だとしたらある意味、あれは、奇跡みたいなもんだ」
「もし、演技だったら?」
シークが感情の薄い声で、静かに口を挟んだ。
「あれだけの数の目を欺きながら、あそこまで自然に振る舞えるとしたら、それこそ、末恐ろしいね」
ウォルターは、シークの言葉に、僅かに身震いした。
「やめてくれ。想像したくもねえ」
シークだけは、二人とは違う静けさで、その光景を見つめ続けていた。羨望にも、憎しみにも、感嘆にも呑まれず、ただ、あるがままの光景として王子の姿を映していた。
「お前、随分と静かに見てるな」
ウォルターが、ふと、シークの顔を覗き込んだ。
「まさか、お前まで、見惚れてるんじゃねえだろうな」
「別に」
シークは素っ気なく答えながらも、視線はエリオットではなく隣に立つカースの横顔へと向けられていた。
「見てるのは、王子じゃない」
「あ?」
「なんでもない」
ウォルターは、片眉を上げたが、それ以上は追及しなかった。
カースは、その光景をなおも歯を食いしばりながら見つめていた。
(本物、なのかな。)
あの王子の一挙一動には、演技の匂いがしない。汚れた老婆の手を汚いものだとは思わず、ごく自然に取っている。かつて自分が信じていた「貴族様」の姿が、そこには確かにあった。
なのに、カースの胸は、喜びよりも先に、憎しみに近い痛みを覚えていた。
(どうしてだろう。僕はあの光景を見て、嬉しいはずなのに。)
それなのに、どうしてこんなにも、腹の底が煮えたぎるように熱いんだ。
あの光に照らされて、次々と癒えていく人々の顔。安堵の涙。喜びの声。それはまさに、幼いノアが、いつか自分もああなりたいと、心の底から焦がれていた光景そのものだった。
もし、カースがまだノアのままだったら。あんな風に、迷いなく、誰かの傷に手を伸ばせていたら。ミミも、トウマも、リタも、チビも――誰も、失わずに済んだのだろうか。
(いや、違う。僕が欲しかったのは、そんな「もしも」じゃない。あの日、僕らのところにも、誰かが――例えば、あの王子のような誰かが、駆けつけてくれていたら。それだけで、良かったんだ。)
叶わなかった「もしも」が、憎しみと羨望の両方の色を帯びて、胸の奥で、疼き続けていた。
カースの視線が、あまりにも長く、あまりにも動かないまま、エリオットの姿に注がれ続けていた。
シークが、そんなカースの横顔を、静かに見つめていた。
「なあ」
シークが、ぽつりと口を開いた。
「あいつは、確かに眩しい。俺の目にも、そう見える」
「――」
「だけどさ」
シークは感情の薄い声のまま、それでも、いつになく丁寧に言葉を選んでいた。
「俺を、地獄から引きずり出したのは、あの王子じゃない」
カースが、僅かに、シークへと視線を向けた。
「お前だ」
「――」
「あの光がどれだけ綺麗でも、俺には関係ない。俺を助けたのは、その汚れた傷だらけの手だ」
シークは、カースの右腕――呪鎖の絡んだ、その腕を、じっと見つめながら続けた。
「それだけで、俺には、十分だ」
その、あまりにも不器用な慰めの言葉に、カースはしばらく何も言えなかった。
だが、腹の底で煮えたぎっていた熱が、ほんの少しだけ、和らいでいくのを感じた。
(僕の優しさは、あの人のものとは、違う形をしてる。)
カースは、自分の両手を見下ろした。呪鎖が絡みついた、もう二度と元には戻らない、この手を。
「綺麗じゃない。それでも……」
カースは首にかけていた、懐のネロの呪核に、そっと手を添えながら絞り出すように呟いた。
「それでも、僕はまだ、誰かに優しくありたいと思ってる自分が、いるんだ」
シークは、しばらく黙ってカースを見つめていた。
「知ってるって」
やがて、そう短く呟いた。
そのとき王子が、ふとこちらへ視線を向けた。
路地の陰に潜んでいたはずのカースと、一瞬、視線が交差した。
王子は、驚いたように目を見張った。だが、恐怖でも、警戒でもなく――むしろ、純粋な好奇心を宿した目で、カースを見つめてきた。
「君は」
王子が、こちらへ足を向けようとした瞬間、カースは踵を返し、その場を後にした。
「今日のところは、退くよ」
「わかった」
路地を抜けながら、カースの心臓は、まだ早鐘を打っていた。
あの光を、完全には憎めなかった。
あの光に、複雑な羨望と、身勝手な怒りの両方を抱いたことも、否定できなかった。
だけど、それ以上に――あの光を目にしたことで自分の中に眠っていた何かが、静かに疼き出したのを、カースははっきりと感じていた。
優しかったノアは、死んだはずだった。
なのに、あの王子を見た瞬間、胸の奥で、まだ息をしていたその欠片が確かに震えた。
「やめろ」
カースは、誰にともなく呟いた。
「思い出すな。あの頃の、僕を」
(思い出すな。あの頃の僕を……)
歯を食いしばり、自分に言い聞かせる。
あの王子の持つ傷のない無垢な優しさは、この泥と血に塗れた世界で、いつまでその美しさを保っていられるだろうか。
いずれあの清らかな光も、世界の醜悪さに触れて苛まれ、泥に塗れる時が来る。
その時、あの王子が何を選ぶのか。カースは不穏な予感を胸の底に沈めながら、暗がりの中へ消えていった。
(第10話「見せしめ」へ続く)




