第9話-2「無垢なる光、第一王子」
密談の翌朝、朝日が、白亜の宮殿の尖塔を金色に染め上げていた。
王宮の奥、精霊教会と直結する礼拝の間で、十七歳になったばかりのエリオット・フォン・グラン・ヴェルガリアは、昨夜の重苦しい空気を振り払うように、一人祈りを捧げていた。
まばゆい金の髪は、日の光を浴びるたびに、まるでそれ自体が発光しているかのように輝く。澄み渡ったサファイア・ブルーの瞳は、覗き込む者すべてを吸い込むような深く静かな煌めきを湛えていた。傷一つない、彫刻めいた美しい顔立ち。王族の中でも、精霊に最も深く愛されていると言われる、ずば抜けた美貌の持ち主だった。
この国では、精霊の寵愛の深さと容姿の美しさは比例するとされている。醜きもの、不完全なものを、精霊は決して好まない。だからこそ、エリオットの完璧なまでの美しさは、彼が歴代の王家の中でも、最も濃く、最も純粋な祝福を受けた証と誰もが疑わなかった。
その事実に、当のエリオット自身は、時折、言いようのない息苦しさを覚えることがあった。
自分のこの美しさは、果たして本当に、自分自身のものなのだろうか。それとも、何か、もっと大きなものに、都合よく作り変えられているだけなのではないか。
そんな漠然とした疑念を、しかし彼はまだ言葉にすることができずにいた。
「エリオット様」
祈りを終えた頃、澄んだ声が、礼拝堂に響いた。
振り返ると白と金の刺繍が施されたドレスを纏った少女が、静かに佇んでいた。淡い水色の髪を緩く結い上げ、風のように涼やかな微笑みを浮かべている。
「ロザリア」
エリオットの表情が、ふっと和らいだ。
ロザリア・フォン・エアハルト。風を司るエアハルト家の令嬢であり、幼い頃から婚約者として定められた相手だった。
「今朝も、お加減はいかがですか」
ロザリアはエリオットの傍らに歩み寄ると、心配そうに顔を覗き込んだ。
「昨夜も、遅くまで陳情書に目を通していらしたと、レイフから聞きました」
「大丈夫だ。心配をかけて、すまない」
「心配して、何が悪いのですか」
ロザリアは少し拗ねたように、それでいてどこか愛おしそうにエリオットを見つめた。
「あなたは、いつも民のことばかり。たまには、ご自身のことも労ってさしあげてください」
「君は、優しいな」
エリオットは、静かに笑った。
「僕には、勿体ないくらいに」
「そんなことは、ありません」
ロザリアは、首を横に振った。
「私は、ただ……あなたの隣に立つ者として、ふさわしくありたいだけです」
その屈託のない笑顔に、エリオットの胸には温かいものが広がった。だが同時に、彼女の実家であるエアハルト家が、王家に対してどこか一枚岩ではない振る舞いを見せることがあるという噂を、ふと思い出しもした。もっとも、それは今のロザリアの笑顔とは何の関係もないはずだった。
礼拝堂を出たエリオットは、そのまま王宮の謁見の間へと向かった。
この国の頂点に君臨する国王アーサーと、王妃。二人の姿を目にするたび、エリオットはいつも、言葉にできない、微かな違和感を覚えることがあった。
父王アーサーは、誰に対しても、常に穏やかな微笑みを絶やさない、聡明で慈悲深い名君として民からも慕われていた。だが、その微笑みの奥にある瞳は、いつも何かを冷徹に計算しているかのような、底の見えない静けさを湛えていた。息子であるはずの自分を見る目にすら、時折、値踏みするような色が滲むことにエリオットはまだ気づいていないふりをしていた。
王妃もまた、いつも完璧な淑女の仮面を崩さない。今朝も、扇の陰からエリオットに向かって美しい忠告を口にしていた。だが、その忠告の端々に滲む、有無を言わせぬ圧のようなものにエリオットは時折、寒気にも似たものを感じることがあった。
この国を治める精霊信仰では、王家は、精霊王と最も強く結ばれた、神聖な血筋とされている。精霊教会は、その神聖さを民に説き、王家の統治の正当性を保証する役目を担っていた。荘厳な大聖堂に安置された、精霊王を象るとされる巨大な像。その前で枢機卿が民に語る教えは、いつも同じだった。
王家は、精霊王の意思を代弁する、この世で唯一の存在である、と。
王家に逆らうことは、精霊そのものに背くことである、と。
エリオットは、幼い頃からその教えを疑うことなく信じてきた。だが最近になって、ふと、その教えのどこかに、うっすらとした違和感を覚えるようになっていた。
「下層街に、私自らが赴きます」
王宮の謁見の間に、エリオットの声が静かに、しかしはっきりと響いた。
玉座に座す国王は片眉を上げ、しばしの沈黙の後、低く笑った。
「エリオット。お前は今、何を言っているのか、わかっているのか」
「呪術師潜伏の報告が入っています。ならば、その調査に、王家の人間が赴くのは当然のことかと」
「調査団を派遣すればよいだけの話だ。何もお前自身が、あのような不浄の地に足を運ぶ必要はない」
傍らに控えていた大臣の一人が、呆れたように口を挟んだ。
「殿下、恐れながら……下層街など、汚穢と病に満ちた場所です。万が一にも、殿下のお体に何かあれば」
「その汚穢と病の中で、この国の民が、今この瞬間も苦しんでいます」
エリオットは、臆することなく言い返した。
「私たちが目を背けてきたその場所にこそ、この国の本当の姿があるはずです。そこから目を逸らしたまま、玉座に座ることに、一体どんな意味があるというのでしょうか」
謁見の間に、しばしの静寂が落ちた。
居並ぶ貴族たちの中でも、年嵩の重鎮たちは苦々しげに口を閉ざしていた。彼らにとって、エリオットの理想論は、決して嘲るべきものではなかった。むしろ、正しすぎるがゆえに厄介だった。長年、見て見ぬふりを続けてきた自分たちの生き方そのものを、あの若さで真っ向から突きつけてくる殿下の姿に、後ろめたさにも似た苦さを覚えずにはいられなかったのだ。
一方で、若い貴族たちの間からは、まったく違う種類のざわめきが漏れていた。
「殿下は、本当に、お変わりにならない」
まだ二十歳前後の若い伯爵家の子息が、感嘆したように呟いた。
「あの聖浄化の光輪、私も一度、遠目に拝見したことがある。歴代の王家の中でも、殿下ほど純度の高い光を操れる方は、そういらっしゃらないと聞く」
「精霊獣との契約も、十二歳という異例の若さでしたね。エルシードほどの高位の精霊獣に選ばれる方など、そうはいない」
別の若い令息が、憧れを隠しきれない声で続けた。
「それほどの力をお持ちでありながら、驕ることも、見下すこともなさらない。私は、殿下のようなお方こそ、真に精霊様に選ばれた王の器だと思っています」
「まったくだ。あの美しさと、あの清らかな御心――どちらも我々凡人には、到底真似のできるものではない」
その声には、皮肉の色は微塵もなかった。ただ純粋な、心からの敬愛だけがあった。
「またあの青くさい理想論か、などと陰口を叩く年寄り連中の気持ちも、私にはわかりません。殿下ほどのお方が仰ることに、間違いなどあるはずがないのに」
その声は、決して小さくはなかった。エリオットに聞こえるほどの大きさで、若者たちの称賛が広間に響く。だがエリオットは、その称賛にも、嘲笑と同じように眉一つ動かさなかった。
「母上は、いかがお考えですか」
エリオットが、玉座の隣に座す王妃へと視線を向けた。王妃は、扇で口元を隠しながら、ため息交じりに応じた。
「エリオット。あなたの理想は、美しいと思いますよ。でも、この王宮という場所では、時にその美しさが、あなた自身を傷つける刃にもなるのです。私は、あなたにそんな傷を負ってほしくはありません」
それは母としての、精一杯の忠告だった。だがエリオットは、静かに、けれど揺るぎない声で答えた。
「傷つくことを恐れて、目を背け続けるほうが、私にとってはよほど恐ろしいことです」
彼は、深く一礼した。
「どうか、お許しください。これは、次の王として、私が最初に果たすべき責務だと思っています」
国王は、しばらく息子の顔を見つめていたが、やがて深いため息と共に、片手を軽く振った。
「好きにするがいい。だが、護衛は最低限つけよ。それだけは譲らんぞ」
「ありがとうございます、父上」
謁見の間を後にするエリオットの背中を、居並ぶ貴族たちは、様々な感情の込もった目で見送っていた。憐憫、嘲り、そして――ほんの一部の者だけが宿す、静かな敬意。
外廷に出たエリオットを、一人の若い騎士が待ち構えていた。
「殿下! 本当に、行かれるおつもりですか」
護衛騎士の一人、レイフだった。エリオットより三つ年上の、二十歳を迎えたばかりの若者。年下の主君に仕えることに気負いなど微塵もなく、その目には、疑いようのない純粋な敬愛の光が宿っていた。
「もちろんだ、レイフ」
「なりません! あの場所がどれほど危険か……! 殿下に何かあれば、私は――」
「レイフ」
エリオットは、穏やかに、けれどはっきりと騎士の言葉を遮った。
「僕はお前たち護衛の忠義に、いつも感謝している。だがその忠義に甘えて目を背け続けることは、僕にはできない」
「殿下は、いつもそうだ……」
レイフは悔しげに、それでいてどこか誇らしげに、拳を握りしめた。
「わかりました。私も、共に参ります。殿下の御身は、必ずこの命に代えてもお守りします」
「大袈裟だぞ、レイフ」
エリオットは、小さく笑った。その笑顔には、王族特有の気取りは微塵もなく、ただ純粋な親しみだけがあった。
「殿下のその笑顔を見られただけで、私は今日も忠誠を尽くす価値があると思えます」
レイフの言葉には、少しの誇張もなかった。彼にとってエリオットは、盲目的に信じるに値する、絶対の主だった。その視線の中には、疑いという言葉すら存在しないかのようだった。
(だが、それでいいのだろうか。)
エリオット自身は、時々、そんな漠然とした不安を覚えることがあった。自分を無条件に信じ、崇める者たちの視線が、時に重く、そして少しだけ恐ろしくもあった。
自分は、彼らが信じるほど、本当に清らかで、正しい人間なのだろうか。その問いに、彼はまだ、はっきりとした答えを持っていなかった。
王宮の裏庭、精霊獣舎へと向かうと、そこには一頭の白い翼を持つ馬が静かに佇んでいた。
「エルシード」
エリオットが名を呼ぶと、その精霊獣、ペガサスは、大きな翼をふわりと広げ、嬉しそうに鼻先を彼にすり寄せた。純白の被毛は、朝の光を受けて、まるで自ら光を放っているかのように輝いている。その気高い佇まいは、まさに精霊王家の守護獣と呼ぶにふさわしい、神々しさを湛えていた。
エルシードは、エリオットが十二歳の時、精霊の祝福によって彼のもとへ舞い降りた、唯一無二の相棒だった。王族の中でも、これほど美しい高位の精霊獣と契約できる者は稀だと言われている。契約を交わして以来、エルシードは、まるで言葉を交わすかのように、エリオットの心の機微を敏感に感じ取ってきた。彼が悲しめば、翼を力なく垂れさせ、彼が怒りを覚えれば、蹄で地を強く踏み鳴らす。
「今日は、少し遠くまで飛んでもらうぞ」
エリオットがそっと背に跨がると、エルシードは軽やかに嘶き、地を蹴った。純白の翼が大きく広がり、王宮の上空へと舞い上がっていく。
空から見下ろす王都は、いつ見ても美しかった。だが、その美しい景色の外側――外郭の向こうに広がる、灰色の街並みを見るたび、エリオットの胸には静かな痛みが走った。
あの場所にも、自分と同じように生きて、笑って、悲しんでいる人々がいる。
なのに、自分たちは、あまりにも、その事実から目を背けすぎてきた。
(第9話-3「無垢なる光、第一王子」へ続く)




