第8話-1「闇の覇権とスラムの影」
アルベルトとの死闘から、三日が過ぎていた。
カースはガルトの店の裏部屋で、粗末な寝台に横たわっていた。重く長い黒髪が、汗で額に張り付いている。二の腕には、鎖と釘が食い込んだ生々しい傷跡が幾筋も走り、白い包帯の上からでも、うっすらと血が滲んでいるのがわかった。動くたびに、その傷が疼き、顔をしかめさせる。
「大人しく寝てろって、言っただろうが」
軋む扉を開けて入ってきたウォルターが、体を起こそうとしたカースを見て、呆れたように言った。無精髭の生えた顎を掻きながら、寝台の傍らに置かれた椅子に、どかりと腰を下ろす。
「呪印だの覚醒だの、派手にやらかした代償ってやつは、そう簡単には抜けねえんだよ」
「もう、平気だよ」
カースはそう言いながらも、二の腕に走った鋭い痛みに思わず息を詰めた。前髪の隙間から覗く目元に、微かな疲労の色が浮かんでいる。
「平気そうには、まるで見えねえけどな」
ウォルターはそう言いながら、懐から布に包んだ何かを取り出した。
「ほれ、見舞いだ。貰い物だけどな」
布を開くと、中には素朴な焼き菓子――丸いクッキーが、幾つか並んでいた。ほんのりとバターと蜂蜜の甘い匂いが、狭い部屋に広がっていく。
その匂いに、部屋の隅、壁にもたれるようにして座っていたシークの肩が、僅かにしかし確かに動いた。
灰銀色の長い髪を、後ろで一つに束ねている。アイスバイオレットの瞳が、クッキーの包みへと、ちらり、ちらりと向けられていた。感情の起伏を映さないはずのその瞳の奥に、隠しきれない好奇心のようなものが微かに揺れている。
「なんだ、シーク。お前もいたのか」
「……いた」
シークは、素っ気なく答えながらも、視線だけは、クッキーの方から離せずにいた。
「ん? もしかして、お前も欲しいのか?」
「別に」
シークは、そう言いながらも、視線を逸らせずにいた。
その時シークの目が、寝台に横たわるカースの包帯の巻かれた二の腕に、ふと留まった。
「それは、痛むのか」
カースが僅かに驚いたように、シークを見た。
「呪具が食い込んだ、その傷だ」
シークは感情の薄い声のまま、しかし、はっきりとした興味を滲ませて続けた。
「俺には痛みというものが、わからないんだ。カースが顔をしかめるたび、その『痛い』というのが、どういう感覚なのか、知りたくなる」
「変な奴」
カースは、苦笑しながら答えた。
「痛いのは……そうだな、まるで、肌の下を熱い針で何度も縫われてるみたいな感じだ。あまり、味わいたいものじゃない」
「ふうん」
シークは、その説明を、じっと噛み締めるように聞いていた。それから、自分の手のひらを、しげしげと見下ろした。
「俺の体にも、傷は同じように残る。だが、その熱い針というものを、俺は一度も感じたことがない」
「羨ましくなんかないよ、そんなの」
カースが、少しぶっきらぼうに言うと、シークは、僅かに首を傾げた。
「羨ましいだろ? とは、言ってないよ」
「そう」
その微妙に噛み合わないやり取りに、ウォルターが、小さく肩を揺らして笑った。
「遠慮すんな。ほら」
ウォルターが、からかうようにクッキーを一枚、シークへと差し出した。
シークはしばらくの間、それをじっと見つめていた。灰銀色の前髪の隙間から覗く目が、警戒するように、けれど確かな期待も滲ませながら、クッキーとウォルターの顔とを交互に見比べる。それから、恐る恐る指先で摘み上げると、一口齧った。
その瞬間、シークの表情が、ほんの僅かに――だが、確かに緩んだ。口の端が、微かに持ち上がる。
「どうだ?」
「――別に、美味しくないし」
シークは、そう言いながらも、残りのクッキーを、素早く自分の懐へとかき集めてしまった。
「お、おい! それ、カースの見舞いに持ってきたやつだぞ!」
「美味くないなら、いいだろ。俺が、責任を持って処分してやる」
「理屈が滅茶苦茶だ!」
ウォルターが、思わず声を上げて笑い出した。
「はっはっは! 美味くないとか言いながら、その顔、蕩けてるじゃねえか!」
「蕩けてないし」
シークは、頬を微かに紅潮させながら、懐に隠したクッキーを、守るように抱え込んだ。
「うるさい」
その様子を、寝台の上から見ていたカースは、思わず、小さく笑ってしまった。
アルベルトを討ち、離宮を燃やしたあの夜から、まだ体の芯には鉛のような疲労と痛みが残っていた。二の腕に刻まれた呪具の傷跡は、これから先も消えることなく残り続けるのだろう。
それでも、こうして他愛のないやり取りに笑わされている自分がいることに、カースは、どこか不思議な安堵を覚えていた。
「笑ってねえで、坊やも、ちったあ食っとけ」
ウォルターがシークの懐から、強引にクッキーを一枚取り返すとカースの枕元に置いた。
「体が資本だ。特に、お前みたいに無茶ばっかりする奴はな」
「返せ」
シークが奪われた分を惜しむように、むっと唇を尖らせた。灰銀色の前髪の下、眉が僅かに寄せられ、いつもの無表情からは考えられないほど、はっきりと不貞腐れた顔になっている。
「駄目に決まってんだろ。お前一人で全部平らげる気だったのか」
「減るもんじゃない」
「減るんだよ、クッキーの数がな」
ウォルターが呆れたように言うと、シークは口を尖らせたまま、そっぽを向いた。腕を組み壁にもたれかかる仕草には、これまで見せたことのない年相応の子どもっぽさが滲んでいた。
「ありがとう」
カースは素直にクッキーを受け取った。
窓の外から差し込む、柔らかな午後の光。三人だけの、静かな部屋。
こんな時間もまた、カースがこれまで知らなかった、新しい「日常」の一つだった。
それから数日、カースは寝台の上で、じっと体を休め続けた。
最初のうちは二の腕の傷が疼くたびに、じっとしていることそのものが、もどかしくて仕方がなかった。だが日を追うごとに、包帯の下の傷が少しずつ塞がっていくのがわかった。ウォルターは毎日のように顔を出しては、剣の手入れの仕方や、他愛のない世間話を聞かせていった。シークもまた、何をするでもなく、部屋の隅に座り込んでは、カースの様子を、じっと見守っていることが多かった。
「退屈じゃないのか、そんなところにずっといて」
ある日カースがそう尋ねると、シークは感情の薄い声で、しかし、はっきりと答えた。
「退屈より、気になることがある方が優先されるんだよ」
「気になること?」
「お前が、ちゃんと治るかどうかだ」
その素っ気ない、けれど確かな気遣いに、カースは何と返せばいいのかわからなくなった。
そうして、療養の日々は静かに、しかし確かに過ぎていった。
二の腕の傷は完全には塞がらないまでも、日常の動作に支障がない程度にまで回復し、寝台の上で強張っていた体もようやく思い通りに動くようになっていった。
そんなある朝、ガルトが、いつになく真剣な面持ちで店の奥へとカースたちを呼び集めた。
「坊主、体の具合はどうだ」
「もう、平気だよ」
カースが答えると、ガルトは満足そうに頷いた。
「なら、ちょうどいい。話しておきたいことがある」
ライハルト家の離宮が灰になった夜から、王都の裏側は静かに、しかし確実に様相を変え始めていた。
「アルベルト・フォン・ライハルトが管理してた賭博場、密輸ルート、それに闇の金貸し業――ざっと三つの縄張りが、丸ごと空いた状態だ」
ガルトが酒場の奥で地図を広げながら、指先で王都の裏路地をなぞっていく。
「普通なら、他の裏組織同士でぶんどり合いになるところなんだがな。噂を聞いた連中は、揃って震え上がって手を出してこねえ」
「そりゃそうだろ」
ウォルターが椅子にもたれながら、口の端を上げた。
「壁一面に、血文字で己の名前を刻んで、屋敷ごと燃やしちまう化け物だぜ。まともな神経してりゃ、その縄張りに手を出そうなんて誰も思わない」
「ってわけで――」
ガルトはカースへと視線を向けた。
「これは、労せず転がり込んできた獲物だ。どうする、坊主。取るか?」
「取る」
カースの返答に、迷いはなかった。
「あいつらの利権が、あいつら自身を守ってきた。なら、その利権を根こそぎ奪う。金も、情報も、人脈も――全部、次の標的を潰すための武器にする」
「話が早くて助かるぜ」
ガルトは満足げに頷くと、テーブルに新しい紙を広げた。
「賭博場は、そのまま俺たちの手駒として運営を続ける。ただし、あそこで行われてた見世物興行――人を殺し合わせる、あの悪趣味な催しは今日限りで終わりだ」
「もちろん」
カースは即答した。
「それと、密輸ルートは情報収集に使う。金貸し業は……」
ガルトが言い淀む横で、ウォルターが軽い調子で口を挟んだ。
「金貸し業は俺に任せてくれや。貴族の連中がどこにどれだけ借金してるか調べりゃ、面白いくらいに弱みが転がり出てくるぜ」
「頼む」
こうして、たった一晩のうちに、王都の裏社会に、新たな勢力図が描かれ始めた。
(第8話-2「闇の覇権とスラムの影」へ続く)




