第7話-4「第一の惨劇」(第1章完結)
【注意】
本作品はダークファンタジー・復讐劇です。
物語の性質上、流血・殺傷・暴力・虐待・拷問・人体実験・死亡・差別・残酷な描写などが含まれます。
また、子どもや動物が被害に遭う描写、主人公による復讐・報復描写があります。
作中の非道な行為や思想はフィクション上の表現であり、現実における行為や価値観を肯定・推奨するものではありません。
苦手な方は閲覧にご注意ください。
喉元に迫る刃の冷たさすら、もはや感じなかった。
その瞬間、カースの脳裏にあの日の光景が鮮烈に蘇った。
ミミの最後の声。トウマとリタの悲鳴。震えながら頬を寄せてきた、ネロの最期の温もり。
(――あいつが、全部奪った。)
(僕から、僕らの世界の全てを、笑いながら奪った。)
燃え上がる憎悪が、カースの内側で、堰を切ったように溢れ出した。
その瞬間――カースの右腕に絡みついていた呪鎖が、意思を持ったかのように、彼自身の肌へと深く食い込んでいった。
「――ぐ、ああっ……!」
鎖の先端についた歪んだ釘が、幾本も、カースの二の腕に突き刺さっていく。皮膚が裂け、赤黒い血が、鎖を伝って滴り落ちた。
だが、その痛みと引き換えに、体の奥底から、これまでとは比較にならないほど濃密な呪力が、噴き出すように溢れてきた。
髪の隙間から覗く、カースの目の周囲に――黒い紋様が、まるで生きているかのように、すうっと浮かび上がっていく。蔦のように絡み合う、禍々しい呪印。
「な――なんだ、その姿は……!」
アルベルトが、初めて明確な狼狽を見せた。
カースの瞳は、以前よりも昏く深く沈んだ色に染まっていた。だがその奥には、消えることのない烈しい光が宿っていた。
「僕の呪いは」
カースの声が、二重に響くような、異様な深みを帯びていた。
「僕が失ったものの分だけ、強くなる」
彼は血を流し続ける右腕を、静かに掲げた。
「お前を殺すためなら、僕は――この身が朽ちるまで、いくらでも強くなれる」
再び振るわれた呪鎖は、先ほどとは明らかに異なる速度と重さを纏っていた。アルベルトは咄嗟に加護を強化して受け止めたが、その衝撃に初めて体勢を崩された。
鎖の先端が掠めた床の石材が見る間に赤黒く変色し、まるで数百年の時が一瞬で流れたかのように、ぼろぼろと崩れ落ちていく。触れたものすべてを朽ち果てさせる、その呪われた感触に、アルベルトの背筋を冷たいものが走った。
「ば、馬鹿な……! 僕の加護が、押し負けるだと……!?」
「お前が奪ったものは」
カースは静かに、しかし確かな怒りを滲ませながら、一歩、また一歩と前へ進んだ。呪鎖が肌に食い込むたび新たな血が流れ、それと同時に目の周りの黒い紋様がさらに濃く、広く、輪郭を広げていく。
「二度と、戻らない」
彼は懐に隠していた、ネックレスにしたネロの呪核を取り出しそっと握りしめた。焼け焦げた首は、今もなお、変わらぬ姿でそこにあった。まだ牙を剥く時ではない。まずは、この手で、あの日の全てを返してやる。
「や、やめろ……! やめてくれ……!」
アルベルトの悲鳴は、もはや貴族の余裕を微塵も残していなかった。
その声を聞いた瞬間、カースの中で、あの日の光景が鮮烈に蘇った。
い、いや、いやあああ! にいちゃん、たすけ……!
ミミの、あの絶叫。
「――やめてくれ、か」
カースの声は、静かで、けれど地の底から響くように冷え切っていた。
「ミミも、同じことを言ってた」
カースは呪鎖の先端を、アルベルトの右腕へと突き立てた。黒い呪力が、皮膚の下を這うように広がっていく。
「ぎゃああああああああっ!!」
「腕の次は、足だ」
カースは、あの日、アルベルト自身が口にした言葉を、そのまま返した。
「さて、どちらの声がより甲高いか、聞き比べてみようか」
「な、なぜ、僕の言葉を……!」
アルベルトが、恐怖に顔を歪めながら叫んだ。
「お前が、忘れたはずがない」
カースは呪力を、アルベルトの左足へと這わせた。
「お前は、あの日、ミミの腕を、足を、一本ずつ焼きながら、笑ってた。まるで、ネズミでも嬲り殺すみたいに、うっとりとした顔で」
「や、やめ……許してくれ……!」
「必死だな」
カースは、静かに、しかしはっきりと、あの日と同じ言葉を口にした。
「だが、順番は守ってもらう」
アルベルトの絶叫が、離宮の広間に響き渡った。それはあの朝、骨の街に響いたミミの悲鳴と、驚くほどよく似ていた。
カースは、その声を、最後まで、一言も聞き逃さなかった。
だが、そこにあったのは、憎しみを晴らす快感ではなかった。ミミの悲鳴と、目の前の男の悲鳴が重なるたび、カースの胸の奥は切り刻まれるように痛んだ。それでも、彼は、その手を止めなかった。
だが。
絶叫の中、アルベルトの目に、一瞬、正気の光が戻った。
「ま、まだ……! まだだ……! 僕は、七大貴族の跡取りだぞ……! こんな、下賤な呪いなんぞに……!」
彼は、腕と足に呪力を纏わりつかせたまま、震える手で剣の柄を握り直した。
「もう、なりふりなど、構っていられるか」
アルベルトは剣を投げ捨てると、両腕を大きく広げた。その皮膚の下、血管という血管が、まるで炉の中の熾火のように、赤々と発光し始める。
「小煉獄・自焔葬……! これが、我が家に伝わる、禁じられた奥義だ……!」
絞り出すような詠唱と共に、アルベルトの全身から炎そのものが爆ぜるように噴き上がった。それは精霊の加護による美しい聖炎ではなかった。己自身の血肉と生命力を直接炎に変換する、自らを喰らう禁忌の業火だった。彼の肌がみるみるうちに焼け爛れ、それと引き換えにこれまでの余裕綽々とした聖炎とはまるで違う、破滅的な密度の炎が、広間中に吹き荒れた。
燃え広がった炎は、瞬く間に、広間の柱や調度品に燃え移り、四方を、逃げ場のない紅蓮の壁へと変えていった。
「――ッ! 囲まれる!」
カースは迫る火の壁を避けようと、咄嗟に、呪鎖を天井の梁へと投げ放った。鎖に引かれるまま、燃え盛る床から飛び上がり辛うじて直撃を免れる。
だが、宙に逃れたカースへ向けて、アルベルトが両手から新たな炎の奔流を放った。
「――ッ!」
カースが反応するよりも早く、爆発的な炎の奔流が彼の体を真正面から呑み込んだ。
「かはっ……!」
カースは後方へと吹き飛ばされ、広間の壁に叩きつけられた。全身を焼けるような激痛が貫く。呪具の傷とは比較にならない、正真正銘の火傷が、腕や頬に刻まれていた。
「ぐ……あ……」
膝が、崩れ落ちそうになる。視界が、白く霞んでいく。
二の腕から流れ続ける血は、既に、袖口から滴り落ちるほどの量になっていた。頭の芯が、燃えるように熱く、思考が、途切れ途切れになっていく。意識の輪郭が、ぼやけて溶けていくような感覚があった。
「はは……! ざまあ、みろ……! 所詮、その程度の、力……!」
アルベルトは片膝をつきながらも、勝ち誇ったように笑った。彼自身もまた、この最後の技に残された力の全てを注ぎ込んでいた。焼け爛れた皮膚から立ち上る焦げた臭いが、彼自身の体からも漂い始めていた。
カースは、その場に崩れ落ちそうになる体を、必死に、その場に押し留めた。
(ここで、倒れるわけにはいかない。)
脳裏に、また、あの光景が過った。
ミミの、燃える手足。トウマとリタの、崩れ落ちる体。ネロの、最後の温もり。
そして、今日、この手で守れなかった、無数のもの。
(僕は、まだ、終われない。)
「――お前が奪ったものは」
カースは震える足で、もう一度立ち上がった。視界の端が、赤黒く滲んでいる。立っているだけで地面が揺れているような、奇妙な感覚があった。それでも彼は、倒れなかった。
「二度と、戻らないって言ったでしょ。それを、お前にわからせるまでは……僕は、倒れない」
右腕の呪鎖が、まるでその決意に応えるかのように、これまで以上に深く肌に食い込み、新たな血を溢れさせた。焼け爛れた皮膚の上を、黒い紋様がさらに濃く広がっていく。
「な――」
アルベルトが、驚愕に目を見開いた。
「ま、まだ、動けるだと……!? あれだけの、直撃を受けて……!」
燃え盛る炎は、なおも広間を舐め尽くすように燃え広がり続けていた。行く手を阻む火の壁を前に、カースは、呪鎖を横一文字に薙ぎ払った。呪力を纏った鎖が、炎そのものを叩き潰すように吹き飛ばし、僅かな道を切り開く。
その道を、カースはふらつく足取りで、それでも真っ直ぐに前へと進んだ。
「もう、いいでしょ」
カースは、懐で握りしめたままだったネロの呪核を、静かに掲げた。焼け焦げた首は、今もなお変わらぬ姿でそこにあった。
その手は、小刻みに震えていた。失った血の量は、既に立っていられるのが不思議なほどだった。視界は、白く霞んだり赤黒く滲んだりを繰り返し、アルベルトの姿すら二重にぶれて見えていた。それでも、カースは、意識だけは、決して手放さなかった。
「二度と、戻らない」
「犬神の怨牙」
その言葉と共に闇そのものが凝縮するように、黒い狼の姿がカースの影から浮かび上がった。かつての温もりを宿したまま、それでいて、この世のものとは思えない禍々しさを纏った獣。その輪郭は、以前カースが放った時よりも、遥かに大きく濃密な瘴気を纏っていた。
幻の狼は、地を蹴った。
まるで生きているかのように四肢に力を込め、低く唸りながら、アルベルトの展開する光の防壁めがけて真っ直ぐに跳躍する。
アルベルトは残った力の全てを注ぎ込み、最大出力の加護を展開したが、それすらも憎悪を糧に膨れ上がった呪術の奔流の前には、紙同然だった。
幻の牙が光の防壁に食らいつき、まるで薄い硝子でも噛み砕くように粉々に打ち破る。着地と同時に狼はもう一度、アルベルトの喉元へと飛びかかった。カースはその勢いに合わせて、呪鎖の先端をまっすぐにアルベルトの胸へと突き入れた。
あの夜、ミミたちを焼き殺した、この世の誰よりも憎む相手、――アルベルトは崩れ落ちた。
少し離れた場所で、最後の敵を斬り伏せたウォルターが、肩で息をしながら、その光景を目にした。
「……なんだよ、あの姿は」
彼の視線の先で、カースの目の周りに浮かんだ黒い紋様が、静かに、しかし確かに、その輪郭を保ち続けていた。二の腕からは、まだ血が滴り落ちている。
「呪いが、あいつ自身を、内側から食い荒らしてる……」
シークもまた、荒い息を整えながら、その光景を見つめていた。
「お前の言った通りだったな。あの呪術は、代償が大きすぎる」
だが、そこにあったのは、勝利の高揚感ではなかった。
カースはゆっくりと膝をつき、事切れたアルベルトの死体を、しばらくの間、無言で見下ろしていた。右腕に食い込んだ鎖と釘が、今もじくじくと血を流し続けている。目の周りの黒い紋様は、少しずつ、しかし確かに、薄れ始めていた。
(これで、終わったのか。)
いや、違う。終わったのではない。始まりの一つが、ようやく閉じられただけだ。カースは、懐からネロの呪核をそっと取り出し、両手で包み込むように抱いた。
「ネロ」
彼は、静かに囁いた。
「やったよ」
その声には、勝利の歓喜ではなく、深い喪失を噛み締めるような、静けさがあった。まるで、失った者たちの墓標の前に立っているかのような。
「ネロを、ミミを、トウマを、リタを、チビを――誰も、忘れてないよ」
周囲では、シークとウォルターが最後の抵抗を制圧し終えていた。だが二人とも、カースのその様子を見て、声をかけることをしなかった。ガルトもまた、離れた場所で、静かにその背中を見守っていた。
これは、儀式だった。
誰かに見せるための復讐ではない。ただ、失ったものたちに、報告するための静かな弔いだった。
カースは立ち上がると、事切れたアルベルトの傍らに膝をつき、床に流れたその血に、ゆっくりと指先を浸した。
そして、広間の白い壁に、一文字ずつ、確かめるように、その名を刻んでいった。
C U R S E
温かかった血は、壁を伝いながら、ゆっくりと乾いた赤黒い色へと変わっていく。それは、貴族の美しい離宮に刻まれた、たった一つの、消えない汚点だった。
「これは、宣戦布告だ」
カースは、血の滲んだ壁を見上げながら、静かに呟いた。
「七大貴族、国王――お前たちが積み上げてきた栄華を、僕は一つ残らず灰にする」
その言葉を刻みつけるように彼は懐にネロの呪核をそっと収めると、「呪鉄の黒くびき」を軽く振るい、燭台の火を呼び寄せた。それは聖炎とは似ても似つかない、赤黒く、陰惨に燃え広がる炎だった。
血で刻まれた「カース」の文字を舐めるように、離宮全体が、瞬く間に炎に包まれていく。豪華な調度品も、金の装飾も、貴族たちの栄華の象徴だったものすべてが、その名を焼き付けたまま、灰へと変わっていった。
「行こう」
カースが振り返ると、ウォルターとシーク、そしてガルトが、それぞれの表情で頷いた。
「七大貴族の一人目、片付いたわけだ」
ガルトが、燃え上がる炎を見上げながら、静かに言った。
「全員ぶっ潰すなら――まだまだ、先は長いぜ」
「わかってるよ」
カースは、燃える離宮に背を向け、夜の闇の中へと歩き出した。
王都の空に、離宮の火が、赤々と立ち上っていく。
その光は、遠く骨の街からも見えたという。
貧しい者たちは、その炎を見て囁き合った。
「呪術師が現れた」と。
「貴族どもに、天罰が下った」と。
誰もその名を知らなかった。だが噂は瞬く間に、王都の隅々にまで広がっていった。
闇の中に一人の呪術師が生まれ、貴族社会の絶対的な秩序に、初めての亀裂が入った夜だった。
そしてこの夜こそが、後に「カース・オブ・エレニア」と呼ばれる、長い長い成り上がりと復讐の物語の、確かな第一歩となるのだった。
――だが、この炎を目にしたのは、貧しい者たちだけではなかった。
王都の中心、白亜の宮殿の一室からも、燃え盛る離宮の炎は、はっきりと見えていた。
その光を見つめる、一人の少年の姿があった。
金色の髪を持つ、まだ若い王子。彼はしばらくの間、無言でその炎を見つめ続けていた。その瞳に浮かんでいたのは、恐怖でも、怒りでもなかった。
ただ、これまで彼が信じてきた世界の在り方そのものを、根底から揺さぶられるような、静かな衝撃だった。
「――呪術師、か」
その呟きは、誰に届くこともなく、夜の静寂に、静かに溶けていった。
この時、まだ、カースも、その少年も、互いの存在を知らなかった。
だが、この夜を境に、二つの運命は、確かに、交わり始めていた。
(第8話-1「闇の覇権とスラムの影」へ続く)




