第99話 正体
午後5時――
真田瑞希と小早川陽介は、筑紫通沿いにあるマンスリーマンションの510号室の前に立っていた。
小早川がインターフォンを押す。
ほどなくして、由良の声がスピーカー越しに返ってきた。
「どうぞ。鍵は開いています」
前回ここを訪れた時とは、まるで違う応対だった。
もう、2人を試すような気配はない。
少なくとも今は、味方として部屋に入れるつもりなのだとわかる。
玄関を抜けると、由良自らが出迎え、そのままリビングへ案内した。
テーブルの上には、前回と同じ缶コーヒーが3本並んでいる。
妙に生活感のない部屋だった。
人が暮らしている場所というより、必要な時だけ使う“待機所”のような空気がある。
由良は2人と向かい合う位置に腰を下ろし、すぐに口を開いた。
「今回の宇都宮の内偵協力、感謝します」
低く、抑えた声だった。
「こちらでも、いくつか掴めたことがあります」
由良は缶コーヒーの蓋を開ける。
だが、口をつける前に続けた。
「宇都宮は、この地域一帯の不法滞在者を束ねる人間と繋がっていたようです。陰でいろいろ使っていた形跡がある」
そこで初めてコーヒーを一口飲む。
真田は由良から目を逸らさずに訊いた。
「具体的には?」
「例えば――」
由良は缶を静かに置いた。
「まずは、犯行に使用された盗難車両の準備。それに、君たちが追っていた被疑者の自宅アパートが、不審火で焼けただろう。あれも、宇都宮の指示で動いた可能性が高い」
「やっぱり、そうだったか……」
小早川は低く唸った。
缶コーヒーの蓋を開け、苦い液体を一口流し込む。
あれは偶然ではなかった。
捜査の先回りだった。
それが改めて裏打ちされた。
由良はさらに続ける。
「それと――真田くんが追っていたラウンジ嬢の“リリス”だが」
そこで一瞬だけ間を置いた。
「正体が判明した」
その言葉に、真田と小早川は同時に身を乗り出した。
「本名は、関谷美奈子」
由良がはっきり告げる。
「晴明女子高の教師だ」
2人は一瞬、言葉を失った。
晴明女子高。
あまりにも近い。
夜はラウンジ「アスール」の女。
昼は女子高の教師。
頭では理解できても、すぐには像が結ばれない。
だが、その“結びつかなさ”自体が、逆に背筋を冷やした。
数秒後、先に口を開いたのは小早川だった。
「……まだ、晴明女子高には勤務してるんですか?」
「いや」
由良は首を横に振る。
「今朝、真田くんと会った後で学校へ確認に行きました。昨日付で退職している」
そう言いながら、1枚の写真を差し出した。
真田は受け取ると、すぐに自分のスマホを取り出した。
保存していた“リリス”の画像と見比べる。
化粧の濃さと髪型の差はある。
だが、骨格も目元も一致していた。
同一人物――
そう考えてまず間違いない。
その時だった。
「……ん?」
小早川の喉から低い声が漏れた。
鞄から業務用のタブレットを取り出し、何枚かの画像を表示する。
今朝、博多区の高架下で発見された、身元不明女性の現場写真だった。
由良の表情が硬くなる。
「これは……」
真田も声を震わせた。
「じゃあ……甲斐瑠璃子を殺したのは、リリス――」
小さく息を呑む。
「いえ、関谷美奈子……?」
その言葉で、部屋の空気がまたひとつ冷えた気がした。
正体には辿り着いた。
だが、その正体はもう、生きた証言としてはどこにも存在しない。
写真の中の死体だけが、その答えを持っている。
小早川が由良へ顔を向ける。
「関谷の住まいは?」
声は鋭かった。
「学校へ提出していた住所には行きました」
由良は短く答える。
「だが、本人は住んでいない。おそらく身分証自体が偽造です」
そこまで聞いて、小早川は小さく舌打ちした。
住所不定。
本人死亡。
線は繋がった。
だが、そこで途切れた。
正体には辿り着いたのに、その先を追う足場がない。
それがいちばん厄介だった。
*
真田と小早川がマンスリーマンションを出たのは、午後6時を回ってからだった。
エントランスを出たところで、小早川のスマホが鳴る。
表示された名前は、曽我稔彦。
小早川はすぐに応答した。
「もしもし。どうだった?」
真田は隣を歩きながら、黙って耳を澄ませる。
通話は数分続いた。
やがて小早川が電話を切る。
「やはり」
真田の方を見た。
「甲斐瑠璃子のスマホにも、例の写真は送られていたそうです。時刻も、これまでと同じ16時13分。それに、彼女の名前も“T塾出身者リスト”に名前があったそうです」
真田の目が細くなる。
「やっぱり……」
「ただし」
小早川は一拍置いた。
「彼女自身は、そのメールに気づいていなかった可能性が高い」
「気づいていない?」
真田が眉を寄せる。
「かなり几帳面な子だったみたいです」
小早川は歩きながら言う。
「それに、ITスキルも高かった。メール設定を細かくいじっていて、怪しいものはほとんど自動で迷惑メールフォルダに振り分けられるようにしていたみたいです。そのまま、削除も早かったらしい」
吐いた息が、冷えた空気の中で白く滲む。
正体はわかった。
だが、その人物が最後に狙った瑠璃子本人は、肝心の“写真の恐怖”を知らないままだったのかもしれない。
真田はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……知らないうちに送られて、知らないうちに消えていたんですね」
「ええ」
「だとしたら」
真田は前を見たまま続けた。
「あの写真が届いた時の恐怖を味わわずに済んだだけ、彼女はまだ、少しましだったのかもしれません」
小早川はすぐには答えなかった。
2人はそのまま、博多駅の方へ歩いていく。
夕方の人の波。
信号待ちの群れ。
雑多な街の音。
なのに、小早川には街全体が少し歪んで見えた。
空は深い青に沈み始めていた。
ひとつ、またひとつと星が浮かぶ。
吹き抜ける晩秋の風が、2人の頬を静かに撫でていった。




