第100話 セフィラたち
真田と小早川たちが、夕闇に沈みかけた筑紫通を歩いていた頃――
浄水通の教会、その一室。
6畳にも満たない狭い部屋の中央には、簡素な間仕切りが置かれていた。
間仕切りを挟み、両側に1人ずつ、男が腰を下ろしている。
互いの顔は見えない。
“告白”のための部屋だった。
扉の奥に座っているのは、青い瞳の神父・青山功貴。
手前に座る若い男が、間仕切りの向こうへ口を開いた。
「私の優柔不断のせいで……1人の少女が死にました」
30歳手前ほどの、端整な顔立ちの男だった。
だが、その声には明らかな疲労が滲んでいる。
何日も眠れていない人間の声だった。
「優柔不断、とは?」
青山は静かな口調で問う。
「その子は……私に気があることを、たぶん自分でも隠しきれていなかったと思います」
男は言葉を探すように、いったん呼吸を整えた。
「もしあの時、私に少しでも彼女の気持ちに応える勇気があれば……」
そこで、喉が詰まる。
しばらくして、ようやく続けた。
「せめて、あの夜……彼女を1人にしないで済んだのかもしれません」
青山は急かさない。
ただ、間仕切りの向こうで相手の言葉を待つ。
やがて、再び問いかけた。
「あなたは、その女性を愛していたのですか?」
男の返答は早かった。
「はい」
迷いのない声だった。
「愛していました」
言葉ははっきりしていた。
嘘をついている響きではない。
青山にも、それはすぐにわかった。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
やがて男は、まるで別の決意を口にするように言った。
「神父さま」
少しだけ声が強くなる。
「私を、この教会で働かせていただけないでしょうか」
間仕切りの向こう側で、青山が目を細める気配がした。
「ここで働くということは、俗世から離れるということです」
青山の声は穏やかだったが、甘さはなかった。
「神の名の下に欲望を捨て、誘惑を断ち切り、自らを他者のために捧げる――」
そこで一度、言葉を切る。
「あなたに、その覚悟がありますか?」
厳しい問いだった。
再び、沈黙。
だが今度は、先ほどより長くは続かなかった。
「はい」
男は低く、しかし力強く答えた。
「本日付で、今の職場を辞めてきました」
正面を向いたまま続ける。
「どうか、前向きにご検討ください」
青山は、間仕切りの向こうで静かに頷いた。
「……わかりました」
短く言う。
「明日の午後5時、もう一度ここへ来なさい」
そこで、青山は最後に尋ねた。
「お名前は?」
男は答える。
「藤原圭吾と申します」
*
藤原圭吾が去った後――
青山は教会内部の自室へ戻った。
時刻は、午後6時ちょうど。
扉を閉めると、藤原の「愛していました」という声が、まだ耳の奥に残っていた。
青山はテーブルの上へ右目の“偽装”を静かに置く。
本来の左の青い瞳だけが、深い海の底のような色を宿している。
室内の奥には、背もたれの高い、奇妙な意匠の椅子がある。
青山はそこへ腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じた。
数秒後――
椅子全体が淡い青に発光し始める。
優しい光が、青山の輪郭を包む。
そして次の瞬間、彼の意識は別の場所へ移っていた。
*
無機質な正方形の会議室。
温度も匂いもない、人工的な空間だった。
円卓を囲むように、さまざまな色の人影が座っている。
その静かな会議で交わされる言葉のひとつひとつが、当の本人たちは知りようもないまま、城戸谷留美たちの運命の輪郭を外側から閉じていくようでもあった。
青山――ケセドの右隣には黒。
そこから反時計回りに、灰、白、紫、橙、黄。
左隣には赤。
黒と黄は、女の輪郭。
それ以外は男に見える。
その中で、ただ1人だけ輪郭が明瞭な人物がいた。
白い席の主の左隣に立つ、水色のスーツに銀縁眼鏡の女性。
落ち着きのある秘書然とした佇まいで、静かにその場に控えていた。
ケセドは、ふと1つの席へ目を向けた。
橙と黄の間。
そこには人影がなかった。
背もたれのパネルだけが、緑に点滅している。
「ケセド――今回のリリスの件、大変ご苦労でした」
白い席の主が、最初に口を開いた。
「あなたのおかげで、さらなる災厄を回避できたことを嬉しく思います」
続けて、灰色の席の主が言う。
「心から感謝します」
ケセドは、灰色の席へ視線を向けた。
「あなたが護符を届けてくれたおかげです」
静かに答える。
「ありがとうございます、コクマ」
“コクマ”と呼ばれた灰色の席の主は、小さく頷いた。
そしてケセドは、今度は白い席へ向き直る。
「ところで――」
一拍置いた。
「本日は“ネツァク”の姿が見えませんが」
視線は、緑に点滅する空席へ落ちる。
「彼女にも、護符を託してくれた礼を言いたかったのですが……」
その言葉に、白い席の主はすぐには答えなかった。
無機質な空間の中へ、薄い沈黙が広がる。
やがて、白い席の主がゆっくり言う。
「ネツァクにも……思うところがあるのでしょう」
静かな声音だった。
だが、その静けさがかえって含みを感じさせた。
ケセドは一瞬だけ目を伏せる。
それでも、追及はしなかった。
「余計な詮索をするつもりはありません」
淡々と言う。
「いずれ、また会う機会もあるでしょう」
その返答を受け、白い席の主は円卓全体を見渡すように言った。
「では、皆さん――この1年、大変ご苦労でした」
わずかに間を置く。
「各自、“旅立ち”の準備を」
その言葉が終わった瞬間、会議室の輪郭が青く揺らいだ。
*
ケセドが再び目を開けると、そこは教会の自室だった。
彼を包んでいた青い光は、ゆっくりと薄れ、やがて完全に消える。
ケセドは椅子から立ち上がり、スマホを手に取った。
短い呼び出し音の後、電話が繋がる。
「司祭長ですか?」
ケセドは静かに口を開いた。
「明日の午後5時に、当教会へ“藤原圭吾”という青年が訪ねてきます」
相手の返答を待つ。
そして最後に、はっきりと言った。
「彼を――採用でお願いします」
通話を切る。
誰もいない室内で、声の余韻だけが一瞬残った。
ケセドはそのまま外へ出る。
群青色へ沈んでいく空に、無数の星が瞬き始めていた。
その光はどこか遠く、まるで、もう手の届かないもののように見えた。




