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第101話 次の場所へ

JR山手線・田町駅の地下深く。


“セフィラ”たちが集う空間――


青い席の主・ケセドからの報告が終わり、白い席の主・ケテルの短い号令で会議は閉じられた。


無機質な正方形の部屋に、再び沈黙が落ちる。


円卓を囲む席には、もう誰の気配もなかった。

背もたれに埋め込まれた8色のパネルだけが、静かに明滅を繰り返している。


その場に残っているのは、白い席の主・ケテルと、葛木加奈子だけだった。


葛木は、いつものようにケテルの左隣に立っていた。

水色のスーツ。

銀縁眼鏡。


ケテルはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「葛木さん――」


一度、小さく息を整える。


「あなたも、この1年、本当にご苦労さまでした」


その言葉が耳に入ると、葛木は視線を下ろしてケテルを見た。


「あなたがいてくれなければ、私はここまでうまく立ち回れなかったかもしれない」


そう言って、ケテルが左手側に立つ葛木を見上げた。


白い左目の虹彩が、彼女の顔を静かに射抜く。


「恐れ入ります」


葛木は表情をわずかに和らげ、ケテルへ軽く頭を下げた。


そして、ためらうような間の後、ぽつりと口にする。


「……ネツァクさまが不在だった理由を、考えていました」


ケテルの白い左目が細くなる。


「ネツァクさまは、“ネツァク”である前に“緑川陽真里”なのですね」


意味深な響きを残す言葉だった。


さらに葛木は続けた。


「そして、あなたも――“ケテル”である前に“白石翔流”なのだと思います」


その言葉に、ケテルはすぐには答えなかった。


ゆっくりと天井を見上げる。

鈍い光沢を放つ無機質な天井。


それは、他のセフィラたちの前では決して見せない、白石翔流としての表情に近かった。


「私が……いつでも、あなたをお支えします」


葛木の声は、こんな場所には不釣り合いなほど澄んでいた。


静かなのに、まっすぐだった。


だが、その後がすぐには続かなかった。

口を開きかけて、閉じる。

指先が、わずかに震える。


それでも、今ここで言わなければ、二度と届かない気がしていた。


「……私は」


葛木は一歩、前へ出る。


「私は、いつまでもあなたのそばにいたい。支えたいのです」


その言葉で、ケテルは目を閉じた。

受け止めるように、長く息を吐く。


「ありがとう……ですが――」


その先の言葉に、彼自身が覚悟を要しているのがわかった。


「葛木さん」


ケテルはゆっくりと言った。


「あなたとは、ここでお別れです」


その瞬間、葛木の顔がはっきりと変わった。


これまでどんな時も崩れなかった冷静さが、初めて揺らぐ。


「なぜです?」


声が掠れた。


ケテルは静かに立ち上がった。

背後では、白いパネルが明滅を繰り返している。


彼は葛木の方へ向き直った。


「我々は、ここに長く留まれません」


声は穏やかだった。


「同じ場所に居続けてはいけないのです。だから、次の場所へ旅立たなければならない」


葛木は、すぐには言葉を返せなかった。


その沈黙の中で、ケテルは彼女を強く抱き寄せた。


突然のぬくもりに、葛木の肩が震える。


「我々と接触した人間は……」


ケテルは葛木の髪に触れるでもなく、そのまま言った。


「もうじき、我々の存在を完全に記憶から失います」


その言葉を聞いた瞬間、葛木の指先が彼の服を掴んだ。


ケテルの目から、一筋の涙が零れ落ちる。

頬を伝い、葛木の髪に落ちた。


葛木は彼の腕の中で顔を上げた。


眼鏡の奥の目にも、涙が溜まっている。


「ケテルさま……」


掠れた声だった。


「もう、お会いすることは叶わないのでしょうか」


ケテルは静かに首を横へ振る。


「いいえ」


その声だけは、不思議なくらい確かだった。


「また、きっと会えます」


そして、ほんの少しだけ微笑む。


「今度は――もっと違った形で」


その言葉は、葛木に向けた約束であると同時に、ケテル自身の祈りのようにも聞こえた。


その言葉が耳に届いた瞬間、葛木の意識はゆっくりと遠のき始めた。


視界が白く揺れる。


最後に見えたのは、涙で滲んだレンズの向こうにある、ケテルの白い左目だった。



葛木加奈子は、寝室のベッドの上で目を覚ました。


壁の時計が差していた時刻は、午前8時。


カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


葛木はしばらく天井を見つめたまま動かなかった。


何か大事な夢を見ていたような気がした。

だが、その輪郭は指先から溢れる水みたいに、もう掴めない。


ふと目元に違和感を覚え、ベッド脇の鏡を手に取る。


頬には、はっきりと涙の跡が残っていた。


悪い夢でも見たのだろうか。


いや――不思議とそうは思えなかった。


苦しい夢ではなかった。

けれど、ひどく大切な何かを失ったような感覚だけが残っている。


葛木はゆっくりと身を起こした。


会社の激務で体調を崩し、心療内科へ通い始めて約1年。

最近はようやく体調も戻りつつあった。


それでも時折、数時間分の記憶が曖昧になることがある。

薬の影響かもしれない。

そう考えるしかなかった。


ベッドを降り、窓辺へ歩く。


賃貸マンションの窓の向こうには、ビルの谷間に切り取られた青空が見えていた。

白く眩しい光の、その向こう側に。


葛木はしばらく、その青を見つめていた。


なぜだか、わからない。

ただ、胸の奥だけが、ひどく静かに痛んでいた。


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