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102/105

第102話 90年の雪辱

11月9日、月曜日。

夕方――


福岡市早良区の一角に、その屋敷はあった。


重厚な和風の門をくぐると、広い庭が目に入る。


玉砂利は隅まで丁寧に敷き詰められ、磨かれたような黒い置き石が、ところどころに異様な艶を放っていた。


手入れの行き届いた庭だった。

整いすぎていて、かえって息苦しいほどに。


ガン!

ガン!


その庭の隅で、1人の少女が無表情のままハンマーを振り下ろしていた。


右手に握った鉄塊が、容赦なく叩きつけられる。


その先にあるのは――

黒いスマホ。


瑠璃子が殺される前、水曜日の休み時間に生徒会室から回収した。

彼女が机のいちばん下の引き出しに隠していたことを、その少女は把握していた。


あの子に送る時だけは、別の端末を使わせていた。

それももう、ここにはない。


今、手元にあるのは5台。


1台、また1台と原形を失っていく。


ガラスが割れ、外装がへこみ、内部の部品が剥き出しになる。

破片が庭石の上へ散るたび、夕方の光が鈍く反射した。


「何をしているんだ?」


不意に、背後から声が落ちる。


振り返ると、紺の作務衣を纏った初老の男が立っていた。

痩せた体つきだが、立ち方には妙な品がある。


「証拠隠滅」


少女は振り向きもせず、短く答えた。


男は小さく笑った。


「ふふ……美樹は、亡くなったママに似て用心深いな」


“美樹”と呼ばれた少女は、小柄で地味な印象の外見とは裏腹に、目つきだけが鋭かった。


その男は、美樹の父親だった。


「いよいよ、今日だな」


父が言う。


「うん」


美樹も短く返す。


それ以上の言葉はない。

けれど、2人の間にはそれで十分な確信があった。



庭に面した縁側の奥、座敷に置かれた大きな柱時計が、重い音を5回鳴らした。


その直後だった。


玄関の呼び鈴が鳴る。


「はーい」


美樹は急に、年相応の高い声を出した。

そのまま玄関へ走っていく。


しばらくして、大きな包みを抱えて戻ってきた。


縁側に腰かけていた父親の隣に座り、受け取った包みを膝の上へ置く。


表書きには、こうあった。


安部美樹さまへ


右下には、小さく――


リリスより


本人はもう死んでいる。

だが、今日届くよう手配していたのだろう。


それを見た瞬間、美樹の口元がわずかに緩んだ。


父は、庭の景色を見たままぽつりと言う。


「パパは少し、ひやひやしていたぞ」


視線は前を向いたままだ。


「おまえが、少し欲張ったからな」


「“予告電話”のこと?」


「そうだ」


美樹もまた、父の顔は見ずに庭を見ていた。


「だって」


美樹は肩を竦めるように言う。


「ただ同じことをなぞるだけじゃ、つまらないでしょ」


父は小さく息を漏らした。


「でも、欲しいものはちゃんと届いたし」


美樹はそこで初めて、父の方を見た。


「ママも、ご先祖さまも、私を“一人前”だって認めてくれるかな?」


その言葉に、父はようやく美樹の頭を撫でた。


「もちろんだとも」


声は、思いのほか優しかった。


「おまえは、あの女をうまく使った。途中で死んだのは惜しかったが……」


わずかに間を置く。


「感謝だけは、忘れるな」


「わかってるよ」


美樹は頷く。


「“リリス”としても、“関谷先生”としても、すぐそばで手伝ってくれたんだもん。瑠璃子の口から、必要なことはちゃんと聞き出してくれたし」


その声は神妙なのに、目だけがどこか笑っていた。


「それに――」


美樹は包みへ視線を落とした。


「お金、ずいぶん使わせちゃったね」


父は涼しい顔で答えた。


「おまえの成長のための投資だ」


即答だった。


「惜しいとは少しも思わない」


秋の風が庭を横切り、立派な松の枝先を揺らす。


父はその揺れを見ながら、さらに言った。


「うちは、昔からあの学校と縁が深い。そう簡単に困りはしない」


少しだけ目を細める。


「花江さまにも、感謝しないとな」


その名が出た瞬間、美樹の頬が吊り上がった。


彼女は包みを乱暴に破る。


中から現れたのは、5枚のスカートだった。


美樹はそれを1枚ずつ取り出し、裾の裏地に入った刺繍を確かめる。


ERIKA SAITOU

ANNA MITAMURA

RIHO SANO

AZUSA NAKABAYASHI

RURIKO KAI


指先は執着深く文字をなぞる。

だが、布地そのものには愛着の欠片もなかった。


「……ちゃんと“5音”は完成してる」


美樹は低く言った。


その目には、満足と執着が入り混じった光があった。


「これで、90年前に果たせなかったことを、ようやくやり返せた」


小さく笑う。


「花江さまの雪辱は、私が晴らしたんだよ」


父は大きく息を吸った。


「美樹――よくやった」


その言葉に、美樹は白い歯を見せた。


けれど次の瞬間、表情はすっと冷えた。


「パパ」


「ん?」


「これ、燃やしていいよね?」


美樹は5枚のスカートを見下ろしたまま言う。


「気持ち悪いんだよね」


声に、嫌悪が混じる。


「死んだ人間の持ち物って」


父は一瞬だけ目を丸くした。

だが、すぐに穏やかな笑みに戻る。


何も言わず、小さく頷いた。


それで十分だった。


美樹はスカートを包装紙ごと抱え上げると、庭先の小さな焼却炉へ向かった。


躊躇はない。


蓋を開ける。

中へそれらを押し込む。

脇に置かれていた灯油をかける。


そしてマッチを擦った。


小さな火を、焼却炉の中へ放り込む。


次の瞬間、火が一気に燃え上がった。


赤い炎が布を舐め、黒い煙が煙突から夕空へ吸い込まれていく。


美樹はしばらく、その煙を見上げていた。


暮れかけた空の中へ、黒が細く伸びていく。


その横顔には、薄く、満ち足りたような笑みが浮かんでいた。


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