第98話 完成した5音
須賀と矢野が執務室を出ていった後――
小早川は椅子に座ったまま、唐突に清水へ声をかけた。
「なあ、清水――」
一拍、間を置く。
「今回の一連の事件、おまえはどう思う?」
清水は自席に座ったまま、顔だけを小早川の方へ向けた。
「そうですね……」
少し考えてから言う。
「あれだけ規則的に犯行を繰り返していた連中が、最後の最後だけ急にイレギュラーを起こした――そこが、いちばん引っかかります」
小早川は軽く頷いた。
清水の言葉は、まさに自分の中にある違和感そのものだった。
数秒の沈黙。
執務室の空気はまだ落ち着かない。
別班の慌ただしい気配も、壁越しに伝わってくる。
「もしこれが“儀式”に則って行われていたのなら」
小早川はゆっくり言った。
「被害者の名前で“エアリアル”を完成させること自体にも意味があったはずだ。だが今回は――」
そこで、不意に懐かしい声が割って入った。
「私は、“成功”したと思います」
小早川も清水も、はっとして振り返る。
真田瑞希だった。
2人とも会話に気を取られていて、彼女が執務室に入ってきたことに気づくのが遅れた。
「真田さん!」
小早川が思わず声を上げる。
「戻ったんですね」
清水もすぐに立ち上がり、表情を明るくした。
真田は2人の前まで来ると、静かに頭を下げた。
「先ほど手続きを済ませて、1週間の休暇を終えました。不在の間、いろいろとご負担をおかけしました」
淡々とした口調だった。
だが小早川の意識は、その丁寧な挨拶より先に、さっきの一言へ向いていた。
「……その“成功した”っていうのは、どういう意味です?」
真田はすぐに答えた。
「“エアリアル”の5音は、完成しています」
清水が眉をひそめる。
「でも……最後のターゲットは城戸谷さんじゃなかったんですか?」
真田は首を横に振った。
「そこが、私たちの見誤りだったんだと思います」
声は静かだったが、芯があった。
「今回の事件で使われた“5音”は――」
そして、指で机の上を軽く叩きながら整理するように口にする。
「斉藤恵梨香の“エ”」
「三田村安奈の“ア”」
「佐野里穂の“リ”」
「中林梓沙の“ア”」
一拍置く。
「そして――甲斐瑠璃子の“ル”です」
「あっ……」
小早川と清水の声が、ほとんど同時に漏れた。
エ・ア・リ・ア・ル。
きれいに揃っている。
つまり、5人目のターゲットは最初から城戸谷留美ではなかった。
甲斐瑠璃子だったのだ。
では、留美に送られてきた“青い写真”は何だったのか。
攪乱。
あるいは、最初から警察の意識を“5人目候補”へ固定させるための囮。
少なくとも、そう見た方が今の流れには合う。
小早川の背筋を、冷たいものが走る。
「甲斐瑠璃子にも、同じ写真が届いていた可能性が高いです」
真田は言う。
「少なくとも、私はそう見るべきだと思います」
「わかりました」
小早川は即座に頷いた。
「甲斐瑠璃子の遺留品にあったスマホの解析を急がせます」
声に、さっきまでの鈍さはなかった。
ひとつ歯車がはまった感覚があった。
その時になってようやく、真田はわずかに笑った。
「もっとも、小早川さんの“うっかり”のおかげで、休暇中もずいぶん情報共有はさせていただきましたが」
その一言に、小早川は視線を逸らし、ぼさぼさの前髪へ手をやった。
清水が小さく吹き出す。
重かった空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
だが真田は、すぐに表情を戻した。
「それと――」
「さっき玄関口で、由良管理官に声をかけられました」
その名前が出た瞬間、小早川の表情が変わった。
由良。
それは、ただの報告では終わらない予感を伴う名前だった。
「小早川さんと私に、報告したいことがあるそうです」
真田は落ち着いて言う。
「今日の午後5時に、“例の場所”へ来てほしいと。場所は、小早川さんならわかるだろうと言われました」
小早川はすぐに察した。
筑紫通のマンスリーマンション。
510号室。
そこへ呼ぶということは、由良が何か掴んだのだ。
それも、今この段階で自分たちにだけ渡したい種類の情報を。
小早川の全身に、薄い電流のような緊張が走った。
午後5時。
筑紫通。
マンスリーマンション510号室。
そこでまた、事件の輪郭に手が届くかもしれない。
壁の時計へ目をやる。
午前11時を少し回ったところだった。
午後5時まで、あと6時間あまり。




