第96話 排除
午後10時ちょうど――
福岡市博多区の、とある高架下。
街灯も疎な薄闇の中、1人の女がスマホを耳に当てていた。
全身を黒で統一した服装は、そのまま闇へ溶け込んでいる。
「人を殺しました。晴明女子高の生徒会室――そこに死体があります」
女の声は、ボイスチェンジャーのアプリを通ることで、通話の向こうでは金属がひずんだような機械音に変わっていた。
だが、この場で実際に響いているのは、澄んだ女の声だった。
通話を切る。
女は、わずかに口元を緩めた。
遠くの街灯の光が、その端正な横顔を淡く照らしている。
その時――
「いよいよ、あなた自身が手を下したわけですか」
低い男の声が、背後から落ちてきた。
女は驚いた様子を見せなかった。
むしろ、その声がかかることを最初から知っていたかのように、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、黒いキャソックを纏った長身の男だった。
後ろで結ばれたシルバーの長髪が、夜風を受けてわずかに揺れる。
そして、片方の瞳だけが深い青を湛えていた。
青山功貴。
――ケセド。
「ここ数か月、あなたたち“セフィラ”の気配がちらついていたのはわかっていました」
女は目を細める。
「私たち“殻”と呼ばれる存在は、あなたたちと表裏一体のはず。なのに、なぜ邪魔をするのです?」
その言葉に、ケセドは薄く笑った。
「表裏一体?」
声は静かだった。
「何の冗談ですか。私たちは、あなたたちのように災厄を糧にする存在ではありませんよ」
わずかに間を置く。
「――リリス」
その名を呼ばれた瞬間、女の表情が一瞬だけ強張った。
だが、すぐにまた口元が緩む。
「まあ、いいでしょう」
リリスは肩を竦めるように言った。
「私の使命は、“依頼主”の依頼に応えること。それだけです」
「では、その依頼主とやらは誰です?」
ケセドの問いは短かった。
「あなたに答える義務はありません」
リリスの拒絶は早い。
冷たい風が、高架下を吹き抜けていった。
細い三日月だけの夜は暗く、空そのものが底なしの穴のように見える。
ケセドは、リリスを見据えたまま言う。
「いずれにしても、あなたはこの先も同じことを繰り返す」
その声には怒りも高ぶりもなかった。
あるのは、何度も考えた末に、もう引き返さないと決めた人間の重さだけだった。
「“セフィラ”の名において――」
ケセドは一歩、前へ出る。
「あなたを排除します」
だが、リリスは笑みを崩さない。
「あなた1人で?」
白い歯を覗かせる。
「私はもう、十分すぎるほど力を得ました。人々の嫉妬、怨嗟、絶望……そういう負の感情に触れるたび、私は満たされ、成熟してきた」
ケセドの表情は変わらない。
数秒の沈黙が、闇の中に落ちる。
やがてケセドは、キャソックのポケットへ手を入れた。
取り出したのは、3枚の護符。
青。
灰。
緑。
それぞれ異なる地色に、複雑な金糸の刺繍が施されている。
ケセドはそれらを右手で持ち上げ、顔の前で扇のように開いた。
その瞬間だった。
リリスの表情が、はっきりと変わる。
「……なぜ」
唇が引きつる。
「なぜ、護符が3枚も……?」
「他のセフィラが、私に託してくれました」
ケセドは淡々と言った。
「その顔を見る限り……やはり、そこまでは読めていなかったようですね」
リリスが一歩退く。
さらにもう一歩、後ずさる。
「この3枚が揃えば、“慈悲の柱”を発動できる」
ケセドの声は低い。
「これで、あなたを完全に排除します」
リリスの瞳に、初めて明確な動揺が浮かんだ。
高架下の空気が、ほんの一瞬だけ静止したように感じられた。
「終わりです」
その言葉と同時に、3枚の護符がふわりと宙へ浮き上がった。
青。
灰。
緑。
3色の光が淡く重なり合い――
次の瞬間、ひとつの衝撃となってリリスの胸元へ走る。
「……う」
鈍い呻き声が漏れた。
リリスの体が大きくのけぞる。
口元から泡が溢れ、全身が細かく痙攣し、そのまま地面へ仰向けに倒れ込んだ。
「ご、誤算……でした……」
見開かれた目が、夜の闇の中で不自然に光る。
リリスは震える唇で、最後の力を絞るように言った。
「だけど……依頼は達成した……」
呼吸が途切れそうになる。
「スカートは……“あの人”に――」
そこまでだった。
瞬きが止まる。
痙攣も、ゆっくり収まっていく。
高架下の闇が、その亡骸を静かに覆っていった。
ケセドは大きく息を吐いた。
「……終わりました」
誰かに報告するようでもなく、ただ自分に言い聞かせるような声だった。
周囲に人の気配はない。
ここで起きたことを知る者は、誰もいない。
ケセドはもう一度だけ、リリスの亡骸へ視線を落とす。
その青い瞳に浮かんだ感情が何だったのか――
彼自身にも、分からなかった。
やがて踵を返す。
黒いキャソックの裾が、夜風にわずかに揺れる。
ケセドはそのまま、闇そのものに溶けるように姿を消した。




