第95話 想定外
午後9時30分――
福岡県警5班の執務室。
大塚隼人の事情聴取を終えた小早川陽介と安山潤一郎は、それぞれ自席に腰を下ろしていた。
捜査本部の責任者が、一連の事件の被疑者だった。
県警始まって以来の不祥事と言っていい。
その事実だけで、執務室の空気はどこかざらついていた。
間仕切りの向こうでは、別班の動きが慌ただしい。
宇都宮浩太郎の身柄を確保するため、近隣に非常線を張り、行方を血眼になって追っている。
だが、小早川の意識は別の一点にも向いていた。
中洲の高級ラウンジ――アスール。
須賀修一と矢野一哉には、そこへの聞き込みを命じていた。
リリスがまだ出勤している可能性がある。
いや、もう店を辞めている可能性のほうが高いかもしれない。
それでもいい。
本名でも、住所でも、何かひとつでも手がかりが拾えれば――
そんなわずかな期待を残しながら、小早川は2人の帰りを待っていた。
*
午後10時少し前――
須賀と矢野が戻ってきた。
「“リリス”という女性は、アスールに在籍していました」
矢野がそう切り出す。
小早川も安山も、無言で続きを待った。
「……小早川さんの読み通りでした」
矢野は一拍置いた。
「昨日付で退職しています」
小早川は腕を組んだまま、ゆっくりと目を閉じた。
安山が舌打ち混じりに言う。
「他に何かねえのか? 本名でも、住まいでも、身元に繋がる物証でも」
「水商売の世界では、まともな履歴書は取っていないようです」
須賀が答える。
「唯一の連絡手段だった携帯番号も、すでに解約済みでした」
「くそっ……」
安山は机を右拳で叩いた。
「リリスの本名も、居場所もわからねえ。これじゃ、手がかりが丸ごと煙になったようなもんだ」
その時だった。
小早川のポケットの中で、スマホが鳴った。
小早川は反射的に取り出し、耳に当てる。
同時に、壁の時計へ視線を向けた。
午後10時を少し回っている。
「もしもし……また、おまえか。いい加減に――」
そこまで言いかけたところで、小早川の顔からみるみる血の気が引いた。
安山、須賀、矢野の3人が、一斉に身を乗り出す。
電話を切った後も、小早川はすぐに言葉が出なかった。
「……まさか」
安山が震えた声で問う。
小早川はゆっくり頷いた。
「その、まさかです」
そう言うと、今度は自分から電話をかける。
相手は、城戸谷留美の警護に当たっている清水楓だった。
コールはほとんど鳴らなかった。
「はい、清水です」
「清水! 城戸谷留美は無事か?」
小早川の声が、執務室全体に響いた。
電話の向こうで、清水が一瞬息を呑む。
「えっ? ぶ、無事も何も……今ちょうど、私の目の前にいます。お母さんも一緒です」
少し早口になる。
「駐車場で痛めた腕と腰が少し腫れていたみたいで、薬剤師のお母さんが湿布と薬を用意してくれて……そのままリビングにお邪魔していたところです」
その言葉を聞いて、小早川は小さく息を吐いた。
「……そうか」
安堵の色が、ほんの一瞬だけ戻る。
「じゃあ、今回の連絡は本当にいたずらかもしれん」
「どういうことです?」
清水の声が怪訝そうに変わる。
「ついさっき、例の後輩からまた電話があった」
小早川は低く答える。
「晴明女子高に死体がある、と」
電話の向こうで、短い沈黙。
「ですが、城戸谷留美は無事です」
清水が言う。
「間違いなく、今ここにいます」
「わかった」
通話を切る。
だが、安堵したはずなのに、胸の奥のざらつきだけは消えなかった。
むしろ、もっと嫌な形に変わって残った。
3人の方へ向き直ると、小早川ははっきり言った。
「晴明女子の生徒会室に死体があるという連絡だ」
須賀と矢野の表情が強張る。
「前に話したはずだ」
小早川は続ける。
「遺体遺棄場所が“5の目”の形になっているという話を。俺たちは城戸谷留美の警護に意識を取られすぎて、中央そのもの――晴明女子高を完全にノーマークにしていた」
安山がすでにコートへ腕を通しながら言う。
「行って確認するしかねえな」
その声には、苛立ちと祈りの両方が混じっていた。
「いたずらであってほしいが……そう思ってる時ほど、外れる」
小早川は黙って頷いた。
*
午後11時前――
小早川は、矢野を留守番として県警に残し、安山と須賀を伴って晴明女子高の正門前に到着した。
夜の空気は冷たい。
校舎は、巨大な黒い塊のように静まり返っている。
正門の解錠は、事前に警備会社へ依頼してあった。
中へ入ろうとしたその時――
「小早川さん」
後ろから声がした。
振り返ると、清水が立っていた。
その隣には、留美の姿がある。
「どうしても来るって聞かなくて……」
清水が言いづらそうに口にする。
留美の顔色は悪かった。
それでも、怯えているというより、何かを確かめずにいられない目をしていた。
「私じゃなくて……誰か、殺されたんですか?」
小さな声だった。
小早川は数秒だけ留美を見つめ、それからきっぱりと言った。
「まだわからない」
声は低い。
「だが、ここから先は危険だ。君は清水と一緒に車内で待機してくれ」
留美は反論しかけたが、小早川の顔を見て飲み込んだ。
その表情には、今は一切の余地がなかった。
*
小早川たちは、留美と清水を車に残し、校内へ足を踏み入れた。
夜の学校は、昼間とはまるで別の場所だった。
冷えた空気の中で、建物の影だけが黒く浮かび上がっている。
生徒会室は、北校舎1階のいちばん奥。
その情報を頼りに、3人は進む。
誰もいないはずなのに、誰かが見ているような気配だけが纏わりつく。
北校舎の扉は、施錠されていなかった。
目の前に、薄暗い廊下がまっすぐ伸びている。
小早川はペンライトを点灯させた。
その細い光が、床と壁を撫でる。
歩くたび、床の軋む音が闇の中に響いた。
やがて、いちばん奥の扉の上に取り付けられた小さなプレートへ光を当てる。
「生徒会室」
小早川の手が、じわりと汗ばむ。
ノブを回す。
ここも、施錠はされていない。
扉を押し開けると、まず甘い香水の匂いが鼻をついた。
闇の中に、それだけが妙に濃く残っていた。
小早川は壁際のスイッチを探り当て、思い切って押す。
蛍光灯が一瞬ちらつき、部屋全体に白い光が満ちた。
その次の瞬間――
「あっ……!」
小早川の口から、思わず声が漏れた。
「な、何てこった……」
安山も後ろで息を呑む。
部屋の中央に、少女の遺体があった。
ツインテール。
ピンクの眼鏡。
生前は愛らしかったはずの顔は、今は白目を剥き、醜く歪んでいる。
首筋には、細く紫色の索状痕が残っていた。
上半身はきちんと制服を着ている。
だが、下半身にはスカートがない。
剥き出しになった脚とショーツの上へ、蛍光灯の白い光が容赦なく降り注いでいた。
「……同じだ」
須賀が低い声を漏らす。
「これまでの遺体と……」
小早川は一歩だけ足を止めた。
それでも、止まっているわけにはいかなかった。
「地域課へ連絡だ! 鑑識も呼べ!」
小早川が鋭く言う。
須賀と安山が動き出す。
その時、小早川の視界の端に、ひとつ引っかかるものがあった。
机の脇に置かれた、大きめの金庫。
しかも――扉が開いている。
小早川はゆっくり近づいた。
中を覗き込む。
何もない。
空っぽだった。
そこには、鈍い金属の光を返す空洞だけが、口を開けていた。




