第94話 依頼は成功した
午後8時過ぎ――
福岡県警の取調室には、淡い蛍光灯の光だけが落ちていた。
その白っぽい光が、大塚隼人の憔悴しきった顔を照らしている。
目の下には濃い隈が浮き、唇は乾いていた。
ほんの数時間前まで福岡タワーにいた人間とは思えないほど、顔色が悪い。
テーブルを挟んで向かい合うのは、小早川陽介と安山潤一郎だった。
原口和人が腹違いの兄であること。
宇都宮とリリスに接触したこと。
そして、その後で受けた指示の数々。
隼人は、途切れそうになる息を継ぎながら、ここまでを淡々と語っていた。
言葉の端々には、後悔の色が滲んでいる。
だが、表情そのものに迷いはなかった。
もう隠せる段階は過ぎたのだと、自分でも理解している顔だった。
「すると――」
小早川が低く言った。
「君は中林梓沙さんを、午後6時に●●立体駐車場の4階へ呼び出したんだな?」
「……はい。間違いありません」
隼人は俯いたまま答える。
「君自身は、そこへ行ったのか?」
今度は安山が問う。
「いいえ」
隼人は首を横に振った。
「その後で宇都宮さんから連絡があって……午後8時に、自分が同じ場所へ来るよう言われました。車で待っているからって、車種とナンバーを教えられて……」
小早川と安山は、黙って耳を傾けていた。
「車に乗ると……後部座席に、梓沙がいました」
そこまで言って、隼人の喉が詰まる。
「もう……死んでました」
取調室の空気が、わずかに重くなる。
「そのまま地図を渡されて……“この場所に遺体を置いてこい”って」
隼人の声は掠れていた。
「それで、午後10時ぴったりに110番へ通報しろと……」
そこまで言ったところで、隼人の頬を涙が伝った。
拭おうともしない。
ただ、ぽたりぽたりとテーブルに落ちていく。
4件目の事件の輪郭が、ようやく供述として繋がった瞬間だった。
小早川はしばらく黙っていたが、やがて静かに身を乗り出した。
「もうひとつだけ聞く」
隼人は答えないまま、肩を小さく震わせている。
「中林さんの遺体を、あそこまで“丁寧に”扱ったのは……」
小早川は目を細めた。
「君なりに、思うところがあったからだな?」
「……」
隼人は俯いたまま、何も言わなかった。
長い沈黙の後、掠れた声だけが落ちた。
「……あのままには、できなかったんです」
それで十分だった。
小早川にはわかった。
隼人の中には、梓沙に対する一抹の情がたしかに残っていたのだと。
少なくとも、ただ命じられるままに死体を運んだだけではない。
その時、扉がノックされた。
「失礼します」
須賀が入ってくる。
いつもより少し硬い表情だった。
須賀は小早川の耳元へ身を寄せ、小声で何かを伝えた。
小早川の顔つきが、そこでわずかに変わる。
須賀が部屋を出ていくと、今度は小早川が安山に短く伝えた。
安山も、無言でひとつ頷く。
数秒の沈黙が落ちた。
蛍光灯の鈍い唸りだけが、3人の耳をかすめていく。
やがて小早川が、ゆっくりと口を開いた。
「……君のお兄さん、原口和人は」
一拍置く。
「先ほど、息を引き取ったそうだ」
隼人は弾かれたように顔を上げた。
目が大きく見開かれる。
その目から、さっきとは比べものにならない勢いで涙が溢れ始めた。
声にはならなかった。
ただ、喉の奥で何かが崩れるような音だけがした。
取調室の中で、ひとつの供述が固まり、ひとつの血縁が切れた。
そして、その同じ夜の別の場所で、もうひとりの男もまた切り捨てられようとしていた。
*
その頃――
糸島市・井原山駐車場。
人の気配は、どこにもなかった。
夜の闇に沈んだ駐車場の片隅で、黒いミニバンだけがぽつんと停まっている。
車内では、宇都宮浩太郎がスマホを耳に当てていた。
相手は――リリス。
フロントガラス越しに漏れる小さな光だけが、車内の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。
「すまない」
宇都宮は低く言った。
「“依頼”は失敗だ。城戸谷留美は拘束できず、大塚隼人もおそらく警察側に確保された」
声は微かに震えていた。
怒りか、焦りか、それとも別の何かか。
だが、電話の向こうのリリスは、ひどく柔らかい声で答えた。
「いいえ。“依頼”は成功しました」
宇都宮は言葉を失った。
冷え切った車内で、その一言だけが妙に鮮明に響く。
「こちらが欲しかったものは、もう私の手にあります」
宇都宮の喉が、わずかに動いた。
その返答で、ようやく理解した。
城戸谷留美を拘束することも。
大塚隼人を利用することも。
自分にとっては目的だった。
だが、リリスにとっては違ったのだ。
「宇都宮さん……今までご苦労さまでした」
通話が切れた。
その瞬間、宇都宮は理解した。
自分は最初から、ただの駒だったのだと。
六本木署長時代。
リリスと出会ったあの日から、何かが狂い始めた。
リリスに執着する男たちを、自殺に見せかけて処理した時には、もう後戻りできなかった。
人を魅了し、操り、必要がなくなれば切り捨てる存在。
リリスとは、そういう女だった。
宇都宮に、不思議と後悔はなかった。
残っていたのは、ひとつだけだ。
自尊心を破壊されたことへの怒り。
それだけだった。
だが、もう遅い。
宇都宮は内ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
赤い火点が一瞬だけ灯り、すぐに車内へ薄い煙が広がっていく。
「……リリス」
宇都宮は、低く呟いた。
「今度おまえと会うのは、地獄だろうな」
煙を吐く。
「先に行って、待っているぞ――」
その数秒後だった。
ボンッ!
爆音が、井原山の静寂を切り裂いた。
黒いミニバンは一瞬で炎に包まれる。
赤い火が車体を舐め、黒く濁った煙が空へ吸い込まれていった。
誰もいない駐車場で、炎だけがしばらく揺れ続けていた。




