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第93話 アスール

10月24日、土曜日。

午後9時――


大塚隼人は、中洲の一角にある雑居ビルの前で立ち尽くしていた。


見上げた先、4階の店名表示だけが、電光板の青い光を滲ませている。


アスール。


その文字は、夜の中洲の喧騒から少しだけ浮いて見えた。


身なりの整った中年の男たちが、次々とビルの中へ吸い込まれていく。

香水の匂い。

革靴の硬い音。

低い笑い声。


それだけで、隼人はここが自分のような人間の来る場所ではないとわかった。


ここ数日、何度も迷った。


行くべきではない。

そんなことはわかっていた。


だが――


兄・原口和人が女子高生連続殺人の実行犯だという言葉。

兄を助けられるかもしれないという、薄く頼りない希望。

そして宇都宮が最後に残した、脅迫めいた忠告。


それらが何度も頭の中で反芻され、結局、隼人をここまで連れてきた。


もう、自分に“選ぶ”権利はないのかもしれない。


そう思い込むことでしか、ここへ来た自分を支えられなかった。


隼人は1階のエントランスへ入り、エレベーターの前に立つ。


閉じた扉に映る自分の顔は、思った以上に強張っていた。


箱が来る。

乗り込む。

震える指で4階のボタンを押す。


扉が閉まると、狭い空間の中で心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。



4階に着き、扉が左右に開く。


右手の奥に、「アスール」の看板が見えた。

淡い青の照明に照らされ、文字そのものが水の中に沈んでいるように見える。


隼人は汗ばんだ手でノブを握り、ゆっくりと扉を押した。


中は、青かった。


天井から落ちる光が、店内全体を薄い水底の色に染めている。

手前にカウンター席。

奥には、いくつかのボックス席。

空気そのものが、どこか湿って感じられた。


その時、黒いスーツを隙なく着こなした体格のいい中年男が、隼人の姿に気づいてこちらへ歩いてきた。


「いらっしゃいませ」


低い声だった。


「どなたかとお約束でしょうか?」


礼儀正しい言葉遣いだったが、目つきは鋭い。

なぜおまえがここにいる、と無言で問われているようだった。


「あ、あの……」


隼人は喉の渇きを覚えながら言う。


「宇都宮という人に、来るよう言われて……」


宇都宮。


その名を聞いた瞬間、男の表情が変わった。


視線の険が抜け、すぐに頭を下げる。


「大変失礼いたしました。どうぞ、こちらへ」


男は隼人を店の外へ案内した。


そして同じフロアの廊下を少し進み、続き部屋のようになっている別室の前で立ち止まる。


「こちらでお待ちです。ごゆっくり」


最後にもう一度頭を下げると、そのまま去っていった。


隼人は目の前の扉を見つめた。


引き返すなら、今だった。

だが、もう手遅れだという感覚の方が強かった。


息をひとつ吐いて、扉を開ける。



部屋の中央には、ガラス製の大きなテーブル。

その奥のベージュのソファに、宇都宮と1人の女が腰を沈めていた。


この部屋の照明もまた、青い。

テーブルの上のグラスも、ワインボトルも、氷の輪郭まで、淡い青に包まれている。


「来たか」


宇都宮が言う。


「そこへ座りたまえ」


向かって右手のソファを示した。


「あら、ずいぶん若いお客さまね」


女がゆっくりと立ち上がる。


隼人の方へ歩み寄るたび、甘い香水の匂いも一緒に近づいてくる。


妖艶な女だった。


水色のドレスはスパンコールを散らし、青い照明の中で揺れるたび、鱗のような光を返している。

細い腰、長い脚、視線を逸らしづらい顔立ち。


彼女は、名刺を差し出した。


2日前、宇都宮から渡されたものと同じだった。


ラウンジ「アスール」

リリス


隼人は女の顔を見た。


整っている。

それだけではない。

男を迷わせ、溺れさせることに慣れている顔だった。


彼女は隼人の目をまっすぐ見た。


逃がす気のない目だった。


この女が――

リリス。



隼人がソファへ腰を下ろすと、宇都宮はグラスを右手に持ったまま口を開いた。


氷が小さく鳴る。


「まずは、君のお兄さんが今回の殺人に関わるに至った経緯を説明しよう」


宇都宮の声は、不思議なほど穏やかだった。


原口和人は、リリスと関係を持っていた男の1人。

宇都宮もまた、その1人。

そしてリリスの背後には、今回の事件を依頼した“別の存在”がいる。


リリスは、その依頼を現実の犯行へと落とし込む“調整役”だった。


和人も、宇都宮も、自分の意思でリリスに協力していた。


ひとつひとつの説明が、隼人には信じがたいものばかりだった。


優しくて、真面目だと思っていた兄。

長く会っていなくても、記憶の中ではずっと“いい兄”のままだった人間。

その兄が、たった1人の女に引き込まれ、恐ろしい事件に関わっていたという。


呼吸が浅くなる。

脈打つ心臓の音が、自分の耳にまで響いてくる。


リリスが、宇都宮のグラスに白ワインを継ぎ足した。

その手つきはあまりに自然で、ここに来るまでに何人の男が同じ仕草を見てきたのかと思わせた。


「――つまり」


宇都宮は白ワインを一口飲み、細く目を眇めた。


「私と君のお兄さんは、“同志”というわけだ」


「そこでだ」


宇都宮は続けた。


「君には、お兄さんの代わりにその意思を継いでもらいたい。まだ2人、残っているのでね」


その瞬間、隼人は反射的に顔を上げた。


「人殺しなんて……できません!」


声が思ったより強く出た。


だが、宇都宮は表情を変えなかった。


再びグラスを手に取り、静かな笑みを浮かべる。


「前にも言ったはずだ」


一拍置く。


「君に、選択の権利はないと思った方がいい」


その声は怒鳴り声ではない。

だが、隼人の胸には鋭く刺さった。


「ここまで聞いておいて、これまで通りの日常へ戻れると思わない方が賢明だよ」


言葉が棘のように沈んでいく。


その時だった。


「宇都宮さん」


リリスが、初めて会話に割って入る。


「彼は、あなたや和人さんと違って“実績”があるわけではありません」


穏やかな声だった。


「それに、和人さんほど“金銭的な動機”も薄い」


金銭的な動機。


隼人は、その言葉に反応した。


「兄は……金が必要だったんですか?」


リリスはしばらく隼人を見つめた。

表情は変わらない。


やがて、静かに言う。


「私と付き合うには、それなりに維持費がかかるでしょう?」


それから、少しだけ視線をずらした。


「それに……弟さんの学費のこともあったみたいね」


隼人の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


兄は、自分の学費のことまで考えていたのか。


会っていなかった。

何も知らなかった。

それでも、自分のために何かを背負っていたのかもしれない。


「まあ、よく考えたまえ」


宇都宮が言う。


そして鞄から、1台のスマホを取り出してテーブルの上に置いた。


「具体的な指示は、追って出す」


そのスマホを隼人の方へ差し出す。


「当面の連絡はこれで取る。持っておきたまえ」


隼人は、渡されたスマホを見つめた。


黒い光沢の表面に、部屋の青い光が鈍く映り込んでいる。


それは、ただの端末には見えなかった。


何か別の世界へ手を引くための、冷たい入口みたいに思えた。


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