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第92話 綻びの朝

――約2週間前。


10月22日、木曜日。

午前8時30分――


大塚隼人は、F大学の1限目の授業に出るため、最寄りの地下鉄駅を出たところだった。


地上へ出ると、朝の空気はひんやりしていた。

大学までは歩いて5分もかからない。


講義棟へ向かう学生たちの流れに紛れながら、隼人もいつものように校内へ足を向ける。


それは、いつもと変わらない朝だった。


少なくとも、背後から声をかけられるまでは。


「大塚隼人くんだね?」


不意に呼び止められ、隼人は振り返った。


高級そうな紺のスーツ。

控えめなチェック柄のネクタイ。

縁なし眼鏡をかけた、細身の男が立っていた。


年齢は40代半ばだろうか。

姿勢が妙に整っている。


それだけで、どこか近寄りがたい印象を与える。


男は無駄な前置きもなく、不意に警察手帳を開いた。


隼人の目に飛び込んできたのは、


福岡県警

宇都宮


という文字だった。


それだけで、隼人は相手を本物の警察官だと信じて疑わなかった。


男――宇都宮は、眼鏡越しに鋭い視線を向けてくる。


隼人の肩が無意識に竦んだ。


そして次の一言で、全身の緊張はさらに強まる。


「“原口和人”という人物のことで、少し話がしたい」


その名前を聞いた瞬間、隼人の喉が乾いた。


8年近く会っていない。

それでも、その名だけは今も胸の奥の柔らかい場所に触れた。


宇都宮は、首だけをわずかに動かして先を示す。


「この先に公園がある。そこで話そうじゃないか」


1限目の授業のことなど、その時点で隼人の頭からきれいに消えていた。



午前中の公園は静かだった。


中央の砂場で、小さな子どもが母親と遊んでいる。

それ以外に人影はほとんどない。


奥まったベンチに、2人は並んで腰を下ろした。


座って間もなく、宇都宮が口を開く。


「原口和人という人物は、君の腹違いのお兄さん――それで間違いないね?」


隼人は息を呑んだ。


「な、何でそのことを……」


「質問しているのは、私だ」


宇都宮は隼人を見ない。

正面を向いたまま、声だけが冷たく落ちてくる。


「どうなんだ?」


圧迫感のある沈黙が続いた。


「……はい。間違いありません」


隼人は、気圧されるようにそう答えた。


その言葉を聞いた瞬間、宇都宮の口元がわずかに緩んだ。

隼人には、その動きがはっきりわかった。


宇都宮は一度だけ隼人を横目で見て、また前へ視線を戻す。


「そうか」


淡々と言う。


「では、彼が今、福岡で騒ぎになっている女子高生連続殺人の実行犯だということも知っているか?」


隼人の心臓が大きく跳ねた。


同時に、全身に嫌な汗が滲んでいく。


兄が、殺人犯。


言葉が頭の中でうまく形にならない。


「そして、運の悪いことに」


宇都宮は続ける。


「昨夜、事故に遭って意識不明の重体らしい」


「えっ……!」


隼人は思わず宇都宮の方へ向き直った。

体も少し前へ出る。


「ほ、本当なんですか?」


宇都宮はすぐには答えなかった。


その反応を確かめるように、ほんのわずか隼人を見た。

それから、静かに口を開く。


「お兄さんを助けたくはないかね?」


その言葉は静かだった。

だが、その静けさがかえって不気味だった。


隼人には意味が理解できない。


警察が、殺人犯を助ける?

何を言っているのか。

どう受け取ればいいのか。


けれど――

もし本当に助けられるのなら。


あの優しかった兄を。

自分を見捨てなかった兄を。


そんな思いが、混乱の中でも確かに芽生えてしまう。


沈黙が落ちた。


その沈黙ごと計算していたかのように、宇都宮は背広の内ポケットから1枚の名刺を取り出した。


「君に、お兄さんを助けたい気持ちがあるなら」


名刺を差し出す。


「今週の土曜日、午後9時にこの人物を訪ねるといい。私も同席しよう」


隼人は名刺を受け取る。


そこには、こう記されていた。


ラウンジ『アスール』

リリス


住所は、中洲のビル4階。


隼人が名刺を見つめていると、宇都宮は目を細めた。


「わかっているとは思うが」


声音がさらに低くなる。


「今日ここで私と会ったことも、話したことも、くれぐれも内密に」


隼人は顔を上げた。


「もし、うっかりでも口を滑らせたら――」


宇都宮は静かに続ける。


「君の両親も、恋人も、友達も……周りの人間が不幸に遭うかもしれない」


その言葉は脅しだった。

婉曲ですらない、はっきりとした脅迫だった。


隼人の背中を、冷たいものが這い上がる。


宇都宮はそれ以上何も言わなかった。


ゆっくりと立ち上がり、隼人の方を一度も振り返らず、公園の出口へ歩いていく。


遠くの砂場からは、親子の楽しそうな声が聞こえていた。


笑い声。

砂を掘る音。

小さな靴が地面を蹴る音。


それらすべてが、今の隼人には別世界の出来事のように思えた。


名刺だけが、やけに重い。


薄い紙のはずなのに、指先にだけ重さが残る。



宇都宮の姿が公園の外へ消えた後も、隼人はしばらく立ち上がれなかった。


手の中の名刺を見下ろす。


ラウンジ『アスール』。

土曜日、午後9時。


そこへ行けば、何かが決定的に変わってしまう気がした。


その時、留美のことが頭に浮かんだ。


今週の土日は、もう会えない。

会う資格があるのかどうかさえ、わからなかった。


それでも、せめて今日だけは。

まだ何も壊れていないふりをして、自然な顔で会っておきたかった。


隼人はスマホを取り出し、予定を変更したい旨の短いメールを打った。

送信の表示を見つめる目は、ひどく乾いていた。


隼人の運命は、その朝、静かに綻び始めていた。


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