第91話 闇を纏った男
男は留美の背中に拳銃を押し当てたまま、ゆっくりと歩を進めた。
「少しでも妙な真似をしたら……撃つ」
低い声だった。
その言葉と同時に、背中に当たる硬い感触がいっそう強くなる。
留美は息を詰めた。
隼人もまた、留美の歩幅に合わせるように、すぐ隣を歩いていた。
顔は強張り、視線は前に固定されたままだ。
少し離れた場所では、小早川たちも無線越しに状況を把握していた。
「迂闊に手を出すな……」
低く抑えた小早川の声。
「了解」
清水が短く返す。
須賀、矢野、清水、小早川。
4人はそれぞれ距離を取り、人の流れや車の陰に紛れながら、留美たちの動きを追っていた。
*
およそ5分後――
建物から少し離れた駐車場に着いた。
出入口の奥のスペースは薄暗く、停まっている車も疎らだ。
人の気配は、ほとんどない。
その一角に、黒のミニバンが停まっていた。
男はようやく立ち止まり、拳銃を留美へ向けたまま、2人の正面へ回り込む。
黒いキャップ。
黒のジャンパー。
黒いパンツ。
全身を黒で固めた姿は、駐車場の薄闇にほとんど溶け込んでいた。
キャップのつばの下から覗く顔には、縁なし眼鏡。
レンズが、離れた街灯の光を鈍く反射している。
隼人の喉がひくりと動いた。
「……宇都宮さん」
その一言で、空気が変わった。
宇都宮浩太郎警視正。
一連の事件の捜査本部責任者。
留美の胸ポケットに仕込まれたマイク越しに、その名前を聞いた小早川たちも息を呑んだ。
宇都宮は表情を動かさない。
ただ、その目には、追い詰められた人間の焦りより、邪魔された人間の苛立ちの方が濃く見えた。
「乗れ」
黒いミニバンを顎で示す。
「最後の仕上げだ」
留美の脚が、がたがたと震えた。
立っているだけで精一杯だった。
この男が。
梓沙を殺したのか。
そう思った瞬間、心臓がさらに速く打ち始める。
その時だった。
バンッ!
乾いた破裂音が、駐車場の空気を切り裂いた。
「……っ!」
宇都宮の顔がわずかに歪む。
短い呻きが漏れた。
次の瞬間、宇都宮の手から拳銃が落ち、アスファルトの上を短く滑った。
右手の甲から血が滲んでいる。
小早川の一発だった。
離れた位置から、宇都宮の手元だけを正確に撃ち抜いたのだ。
留美は考えるより先に反応していた。
ほとんど無意識だった。
転がった拳銃を、後ろへ思い切り蹴り飛ばす。
カラカラ、と乾いた音を立てながら、拳銃は10メートル近く先まで滑っていく。
それを見逃さなかったのは、いちばん近くの車両の陰で待機していた矢野だった。
矢野は一気に飛び出し、拳銃を拾い上げる。
そのまま宇都宮へ銃口を向けた。
だが、宇都宮の反応は速かった。
傷ついた右手を押さえながら、咄嗟にミニバンのドアを開ける。
運転席へ滑り込み、エンジンをかけた。
「まずい!」
清水が叫ぶ。
ミニバンは急発進し、その場で乱暴に切り返す。
タイヤがアスファルトを噛み、甲高い音が響いた。
そして次の瞬間――
車体が、留美と隼人のいる方へ真っすぐ突っ込んできた。
エンジンの轟音。
タイヤの軋み。
薄闇の静寂が、一気に破られる。
「危ない!」
清水が飛び込んだ。
留美と隼人の体を、まとめて横へ突き飛ばす。
3人はもつれ合うようにアスファルトへ転がった。
息が詰まる。
肩に激痛が走る。
だが、立ち上がるより先に、ミニバンは目の前を掠めるように通り過ぎていった。
「大丈夫か!」
小早川が駆け寄る。
須賀と矢野は逃走するミニバンを追おうとしたが、車の加速が速すぎた。
黒い車体は駐車場を抜け、そのまま市街地の方へ走り去っていく。
小早川は、まず留美、隼人、清水の無事を目で確認した。
それから即座に無線を取る。
「女子高生連続殺人事件の被疑者が、福岡タワー駐車場から西新方面へ逃走中! 車種は黒のミニバン、ナンバーは福岡▲の■■■■――」
一呼吸置き、さらに続ける。
「被疑者は、宇都宮浩太郎警視正。至急、緊急配備を要請する!」
*
騒然とした空気の中、小早川はようやく留美の方へ向き直った。
「……よくやった」
低く言う。
「咄嗟の判断で、あそこまで動ける人間はそういない」
小早川は一度言葉を切り、それから小さく頭を下げた。
「だが、怖い思いをさせてしまった。本当にすまない」
留美は、すぐには何も言えなかった。
まだ呼吸が整わない。
足も、腕も、震えたままだった。
その一方で、小早川はすぐ隣に立つ隼人へ視線を移す。
「大塚隼人くん――だね?」
隼人は黙って頷いた。
「聞きたいことがある。署まで一緒に来てもらう」
小早川の声は静かだったが、拒否を許さない硬さがあった。
隼人はもう一度、小さく頷いた。
その顔には、先ほどまでの狼狽とは違うものが浮かんでいた。
逃げることをやめた人間の顔だった。
戻ってきた須賀と矢野が隼人を促す。
隼人は2人に挟まれるようにして、先へ歩き始めた。
「隼人!」
留美は一度だけ、大きく呼んだ。
隼人は振り返らない。
そのまま、駐車場の薄闇の向こうへ消えていった。
留美は立ち尽くしたまま、その背中が見えなくなるまで視線を送っていた。
さっきまで、たしかに目の前にいたはずなのに、もう届かない場所へ行ってしまった気がした。
見上げた夜空には、細い三日月の輪郭がかすかに沈んでいた。
そのどこかから、青い光だけが、ひっそりと地上を見下ろしているように思えた。




