第90話 留美と隼人
最寄りの地下鉄・西新駅から、福岡タワーまでは徒歩で約20分。
城戸谷留美は、海風の混じる夕方の道を歩きながら、ずっと隼人のことを考えていた。
なぜ今日、この時間帯に自分を呼び出したのか。
先週の水曜日、梓沙を呼び出したのは本当に隼人なのか。
そして、一連の連続殺人と何か関係があるのか。
同じ問いが、頭の中を何度も巡る。
少し離れた場所に、小早川たち刑事4人の気配があった。
人の流れに紛れ、距離を保ちながら、こちらを見ている。
最初は、警察に相談したことへの罪悪感もあった。
隼人を疑うようなことを、自分がしている。
その感覚は、たしかに苦かった。
だが、福岡タワーが近づくにつれて、その苦さは少しずつ別のものに押し出されていく。
不安。
苛立ち。
怒り。
なぜ、今さら。
なぜ、水曜日の夕方に。
なぜ、何も説明しないまま呼び出したのか。
留美の胸の中で、それらが静かに渦を巻いていた。
*
福岡タワーに着いたのは、午後6時を少し過ぎてからだった。
電車の待ち時間が長かったこともある。
そして、足取りが自然に遅くなっていたこともある。
会いたい。
でも、会いたくない。
そんな矛盾した気持ちが、知らないうちに歩幅を鈍らせていた。
空は、もうかなり暗くなりかけていた。
タワーの周囲ではイルミネーションが灯り始め、人工的な光が夕暮れを押し返している。
留美は1階のロビーへ入ると、周囲を見渡した。
その時だった。
背後に、人の気配が近づく。
「……留美」
聞き覚えのある、少し掠れた声。
留美は弾かれたように振り返った。
隼人だった。
「呼び出して悪かった」
隼人は低く言った。
「それに……ずっと連絡しなくて、ごめん」
顔色は悪く、頬も少しこけて見えた。
ここしばらく会わなかっただけなのに、別人みたいに疲れ切っている。
声を出すたび、喉のどこかが擦れるみたいだった。
一瞬、留美は言葉を失った。
会えた。
本当に来た。
無事だった。
そんな安堵が胸をよぎった次の瞬間――
「バカ!」
留美の口から、感情が先に飛び出していた。
「どうして今まで連絡くれなかったの? それに、水曜日のこんな時間に呼び出すなんて……!」
会えた嬉しさより、溜まっていた怒りの方が先に噴き出した。
本当は、もっと違うことを言うつもりだった。
心配した、とか。
何があったの、とか。
けれど、実際に隼人の顔を見た瞬間、先に出たのは責める言葉だった。
隼人は俯いたまま、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
周囲では観光客の声が響いている。
だが、留美にはその喧騒がひどく遠く感じられた。
「……どうしても、留美に話しておきたいことがある」
隼人は、ようやくそう言った。
声は低く、重かった。
「ここじゃ話しにくい」
隼人はガラス越しの外を見た。
「あそこのベンチで話さないか」
指差した先には、建物の外、入口近くのベンチが見えた。
小早川たちは、建物の内外に分かれて待機している。
留美の胸ポケットには小型マイクが仕込まれていて、会話は刑事たちにも聞こえるようになっていた。
留美は言葉を返さず、小さく頷いた。
隼人が先に歩き出す。
留美は少しだけ距離を空けて、その後を追った。
*
2人は、入口近くのベンチに並んで座った。
留美は無意識のうちに、隼人との間に少し距離を取った。
隼人も、その意味をわかっているようだった。
少し離れた別のベンチには、清水と矢野がカップルを装って座っている。
その姿が視界に入っただけで、留美はわずかに呼吸を整えることができた。
数秒の沈黙。
やがて隼人が、大きく息を吐いた。
「もう気づいてると思う」
視線は足元に落としたままだった。
「先週の水曜日、梓沙と電話していたのは……俺だ」
留美は何も言わなかった。
そうかもしれない、と薄々思っていた。
けれど、実際に隼人の口から聞かされると、胸の奥がぎゅっと縮む。
「あの日、梓沙に電話して、博多駅近くの立体駐車場まで呼び出した――」
その瞬間、留美は反射的に口を開いていた。
「じゃあ……あなたが梓沙を殺したの?」
自分でも驚くほど、声が強かった。
隼人が顔を上げる。
一瞬だけ留美を見る。
「俺じゃない!」
今度は隼人の方が、声を荒げた。
留美の肩がびくりと震える。
周囲の空気が、一気に張り詰めた。
少し離れた場所にいる清水たちの視線も、確実に鋭くなるのがわかった。
隼人はすぐに自分の声の大きさを悔いるように、再び視線を地面へ落とした。
肩で息をする。
「……たしかに俺は、梓沙を呼び出した」
苦しそうに言う。
「それに……梓沙の死体を、“指示された場所”に置きに行ったのも俺だ……」
留美の指先から、すっと血の気が引いた。
口の中が乾く。
喉がうまく動かない。
信じたくない。
でも、次の言葉を待ってしまう。
隼人は小さく息を吐いた。
「これだけは……留美にだけは言っておきたかった。だから、先週の木曜日にメールしたんだけど……もうそこからは、話す気力がだんだんなくなっていったんだ」
その言葉が、かえって留美を追い詰めた。
数秒の後、今度は留美が絞り出すように言う。
「じゃあ……梓沙を殺したのは、誰?」
隼人は目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
「殺したのは――」
そこまでだった。
「動くな」
低い男の声が、すぐ背後で響いた。
同時に、留美の背中に硬いものが押し当てられる。
冷たい。
金属だと、すぐにわかった。
隼人の目が、わずかに留美の背後へ動く。
その表情を見た瞬間、留美は理解した。
拳銃だ。
少し離れたベンチの清水と矢野が、立ち上がりかける。
だが、まだ飛び込めない。
空気が一気に変わった。
「ゆっくり立て」
背後の男が言う。
「そして、この先の駐車場まで歩くんだ」
背中から、冷たい感触が離れない。
夜気は冷えているはずなのに、留美の全身から汗が噴き出していた。




