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第89話 それぞれの思惑

11月4日、水曜日――


晴明女子高での時間は、その日も淡々と流れていた。


1限目、2限目、3限目、4限目、昼休み、5限目、6限目……。


教室の中だけ見ていれば、まるで連続殺人など最初から存在しなかったかのようだった。


教師は授業を進め、生徒たちはノートを取り、休み時間には小さな笑い声も聞こえる。


だが、城戸谷留美の頭の中だけは、ずっと別の場所にあった。


今日の午後6時。

福岡タワーで、大塚隼人と会う。


その一点が、朝からずっと胸の中に居座っていた。


授業中も、黒板の文字は目に入るのに意味として頭へ落ちてこない。

ノートには一応ペンを走らせる。

けれど気づけば、同じ単語を2度書いていた。


昨日の夕方、母・晴美が帰宅した後、再び刑事たちが家を訪ねてきた。


小早川陽介と清水楓だった。


リビングで、隼人からのメールを見せた後――

話は、明日の待ち合わせに応じるかどうかへ移った。


「留美を、そんな危険な目に遭わせるなんて、納得できません」


晴美は、はっきりと声を荒げた。


ソファの端に座ったまま、留美は母の横顔を見ていた。

怒っているのに、どこか泣きそうにも見える顔だった。


「でも、ママ……」


留美は絞り出すように言った。


「ここで会いに行かなかったら、私、たぶんずっと後悔する気がする」


自分でも、それが正しい言葉かはわからなかった。

ただ、そう言うしかなかった。


隼人が何を考えているのか知りたい。

どうして急に消えたのか知りたい。

梓沙のことと関係があるのか知りたい。


そして何より――

会わずに終わったら、二度と確かめられない気がした。


小早川が静かに口を開く。


「私たちが、命に代えても娘さんを守ります」


その言葉は大袈裟なはずなのに、不思議と軽くは聞こえなかった。


晴美はしばらく黙っていた。


やがて、観念したように小さく息を吐くと、留美をそっと抱き寄せた。


「……娘のこと、くれぐれもよろしくお願いします」


震えた声だった。


留美はその瞬間、たまらず涙が溢れた。

母の腕の中は、思っていたよりずっと温かかった。



午後5時――


留美は帰り支度を整え、校舎を出た。


このまま電車と徒歩で、福岡タワーへ向かう。

刑事たちは、離れた位置から同行する予定になっていた。


見えないように守る。

その約束を、小早川たちは守ろうとしていた。


留美は玄関へ向かう。


靴箱の前に差しかかった時だった。


「城戸谷さん」


聞き覚えのある声に、留美は振り返った。


チアダンス部の関谷コーチだった。


相変わらず、表情の読みにくい顔をしている。


「今日は水曜日よ」


関谷は淡々と言った。


「先週、中林さんが殺されたばっかりでしょ。1人で帰るの?」


「……はい」


留美は短く答えた。

自分でも、少し不自然な声だと思った。


関谷は数秒だけ留美を見つめた。


「寄り道しないで、まっすぐ帰りなさい」


言い方は静かだったが、妙に強かった。


「まだ犯人は捕まってないんだから。気をつけてね」


それだけ言うと、関谷は踵を返し、校舎の奥へ消えていった。


留美は、その背中をしばらく目で追った。


“まっすぐ帰りなさい”――


ただの注意のはずなのに、その言葉だけが妙に胸に残った。


だが、今さら引き返すことはできなかった。



同じ頃――


生徒会室。


午後5時の時報代わりのように、置時計の中の人形が回り、“アイネ・クライネ・ナハトムジーク”の旋律が鳴り響いていた。


その音楽が止んでしばらくすると、生徒会長・甲斐瑠璃子は柔らかな声で言った。


「皆さん、今日もお疲れさま」


役員たちは顔を上げる。


「今日はもう終わりにしましょう。みんな、早めに帰って」


1年の安部美樹が、きょとんとした顔で口を開いた。


「えっ、今日は少し早くないですか? まだ定時まで1時間近くありますけど……」


瑠璃子は、少しだけ眉を下げて見せた。


「今日は水曜日でしょう?」


声は、いかにも気遣っているふうだった。


「大事な仲間に何かあったら、私……耐えられないかもしれないもの」


取って付けたような台詞だった。

けれど、表面だけ聞けば優しさにも聞こえる。


役員たちは顔を見合わせた後、渋々と帰り支度を始めた。



全員が去った後――


生徒会室は急に静まり返った。


瑠璃子は椅子に座ったまま、細く目を閉じた。

呼吸が、少しずつ荒くなる。


今日は水曜日。


今度は――

城戸谷留美のスカート。


最初の時は、心から驚いた。

“本当に届いた”ことにも、持ち主が死んだことにも。


だが、その驚きはもう遠い。


瑠璃子は机の引き出しを開ける。


そこに入っていたのは、緑の布地に金色の複雑な刺繍が施されたお守り。

リリスから「抜き取れ」と指示されていたものだった。


瑠璃子はそれを指先で摘み上げ、しばらく見つめる。


意味はわからない。

けれど、意味がわからないことさえ、もうどうでもよかった。


留美が今日、死ぬ。


その想像だけで、瑠璃子の肩が小刻みに震えた。


快感だった。


八重歯が覗く。

気づかないうちに、口元に笑みが滲んでいた。



外では、快晴の空がゆっくりと夕方へ沈み始めていた。


青は、少しずつ濃くなる。

昼の明るさを失い、別の色へ変わっていく。


黄昏時。


その変わっていく青の中へ、少女たちはそれぞれ別の思惑を抱えたまま歩き出していた。


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