第9話 言えなかったこと
事情聴取の部屋となる応接室は、思ったより静かだった。
校舎のざわめきは遠く、窓の外の光だけが白く机の端を照らしている。
そこに座っているだけで、留美は自分の呼吸が少しずつ浅くなっていくのを感じていた。
テーブルの向こうには、福岡県警の女性刑事が2人座っていた。
真田瑞希と、部下の清水楓。
真田は丁寧な印象だが、どこか鋭い目をしている。
優しそうに見えて、隙がない。
清水は無表情で、とっつきにくい印象だった。
声を荒げるわけでもないのに、余計なことをひとつも見逃さなさそうな硬さがある。
「ごめんなさいね。ずいぶん待たせてしまったわね。さあ、そこの椅子にかけて」
真田が穏やかな口調で言う。
けれど、その目は優しさの奥で何かを探っていた。
「し、失礼します……」
留美はぎこちなく椅子を引き、音を立てないように腰を下ろす。
手の平にじんわりと汗が滲んでいた。
制服のスカートの上で両手を重ねても、その湿り気は消えない。
テーブルの上には、メモ帳とボールペン、名刺入れ、紙コップの湯気の消えたお茶。
どれも特別なものではない。
それなのに、それが並んでいるだけで、自分が“調べられる側”にいるのだと突きつけられる。
「じゃあ、始めるわね。あなたは三田村安奈さんと同じ部活だったそうね?」
真田の声は柔らかい。
だが、質問はまっすぐだった。
「は、はい……。チアダンス部で、安奈さんは副部長でした」
「どんな先輩だった?」
留美は一瞬だけ、言葉に詰まった。
どんな先輩。
昨日までなら、いくらでも答えられた気がする。
明るいとか。
気が強いとか。
面倒見がいいとか。
でも、死んだ人のことを警察相手に説明しようとすると、急に全部が薄っぺらく感じられた。
「……明るくて、後輩にも優しくて……。ちょっと口は悪いですけど、頼りになる先輩でした」
真田は小さく頷いた。
「最近、変わった様子はあった?」
「い、いえ……特には」
「最後に会ったのは?」
今度は清水が口を開いた。
声は真田より少し硬い。
仕事として聞いていることが、はっきり伝わってくる。
「昨日の部活の後です。部室で、少し話して……それで」
「その時、何か気になることは?」
「……特に、ありません」
答えながら、留美は自分の声が少しずつ薄くなっていく気がした。
質問は決して乱暴ではない。
むしろ、落ち着いていて淡々としている。
だからこそ逃げ場がない。
曖昧に笑って誤魔化す余地もなく、答えるたびに、自分の中身だけが少しずつ削られていくようだった。
「安奈さん、誰かと揉めていたとか、そういう話は聞いてない?」
真田が尋ねる。
「聞いてないです……」
「交友関係のことで、何か」
「そこまでは……」
清水は手帳にメモを続けていた。
カリ、カリ、という小さな筆記音だけが、妙に耳に残る。
その音が、不意に止まった。
「最後に」
清水が顔を上げる。
その視線だけが、さっきまでより少し鋭くなっていた。
「何でもいいから、最近三田村さんの身におかしなことはありませんでしたか?」
留美の心臓が、どくん、と強く脈打った。
その瞬間、頭の中にあの光景が甦る。
部室。
苛立った安奈の声。
蹴飛ばされた椅子。
そして、スマホの画面に浮かんでいた、あの青。
立体駐車場。
古びた一戸建て。
深い青。
――はじめましてエアリアルと申します。
喉の奥が、ひゅっと細くなる。
言うべきだ。
あれを見た。
安奈さんのところに変なメールが来ていた。
そう言えばいいだけだ。
でも、もしそれを口にしたら、
「じゃあ、どうしてすぐに誰かに言わなかったの?」
と聞かれる気がした。
その問いに、留美はきっと答えられない。
怖かったから。
面倒なことになりたくなかったから。
気のせいであってほしかったから。
自分の方を守ってしまったから。
そんなふうに、自分の中のいちばん見たくない部分まで、この机の上に並べられてしまう気がした。
それが、たまらなく嫌だった。
数秒の沈黙。
「……いえ、ありません」
真田から視線を外し、短く答える。
真田は一瞬だけ目を細めた。
ほんのわずかな変化だった。
だが、留美はそれを見逃さなかった。
気づかれたかもしれない。
そう思った瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
清水は何も言わない。
ただ、止まっていたペンがゆっくり動き出す。
その仕草が、かえって重かった。
「……そう。協力ありがとう。もし何か思い出したら、私の携帯に連絡してくれる?」
真田は名刺の裏に連絡先を書き、差し出した。
留美はそれを受け取りながら、心の中で思う。
――連絡なんて、しない。
*
事情聴取が終わったのは、午後6時を過ぎた頃だった。
外に出ると、校庭脇の駐車場に母親の白いミニバンが停まっていた。
非日常が続きすぎて、自分から連絡する余裕もなかった。
学校側が知らせたのだろう。
「お疲れさま。大変だったね……」
母親が窓を開けて言う。
「うん……」
それだけが精一杯だった。
助手席に座り、シートベルトを締める。
車がゆっくり動き出す。
校門を出て、見慣れた道へ出ても、留美の胸のざわめきは少しも収まらなかった。
しばらくして、母親が前を見たまま小さく言う。
「晩ご飯、少しは食べられそう?」
ごく普通の声だった。
事件とも、警察とも関係ない、いつもの家の声。
その何でもなさに、留美は逆に息が詰まりそうになった。
「……たぶん」
短く答える。
ポケットの中で、真田の名刺の角が指先に触れる。
小さくて、固い感触。
それがまるで、まだ間に合う、と言っているみたいで余計に苦しかった。
でも、もう言えない。
今さら言ったら、自分が何を怖がって黙っていたのかまで、全部あからさまになる気がした。
母親はそれ以上、何も聞かなかった。
車内にはエアコンの低い音だけが流れ、赤信号のたびに街の灯りがフロントガラスに滲んだ。
安全なはずの車の中でさえ、留美は何も言えなかった。
*
しばらくして、真田たちも公用車へ向かった。
校長と教頭が深く頭を下げる。
「何か収穫は? 警視……あっ、また間違えた、真田さん!」
運転席の小早川がバックミラー越しに言った。
「もう慣れてください……いえ、もういいです」
真田は小さく息を吐く。
「結論から言うと、収穫らしい収穫はありません。ただ――」
「ほう?」
「今日聴取した子の1人……何かを隠している気がします」
清水が手帳を開いた。
「城戸谷留美ですね」
「ええ。質問への答え方は自然だった。でも、最後の沈黙だけが少し長かった」
小早川がエンジンをかける。
低い振動が車内に伝わった。
「何を隠してると思います?」
「まだわからない。でも、あの子は“知らない”んじゃない。“言わない”だけかもしれない」
真田は窓の外を見た。
薄暗くなり始めた校舎が、静かに後方へ流れていく。
*
その夜、留美は自室のベッドに腰を下ろしたまま、スマホを手にしていた。
画面を開いては閉じる。
メッセージアプリを開き、真田の名刺に書かれた番号を打ち込む。
文字をひとつずつ入れていく。
けれど、送信画面まで進むと指が止まる。
送ればいい。
話せばいい。
そう思うたびに、胸の奥で別の声がする。
――今さら?
――どうしてその場で言わなかったの?
――本当に、ただのいたずらだと思ってたの?
留美は唇を噛んだ。
震える指で、短い文を打ち込む。
《安奈さんのことで――》
そこまで入れて、止まる。
画面の向こうに、あの青が蘇る気がした。
立体駐車場。
古びた一戸建て。
深い青。
送信ボタンのすぐ上で、人差し指が固まる。
数秒。
それから留美は、打った文字をひとつずつ消した。
《安奈さんのことで――》
消える。
何もなかったみたいに、白い入力欄だけが残る。
結局、留美は何も送らなかった。
部屋の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
何もしていないのに、何かを決定的に間違えたような気がしてならない。
それでも彼女は、スマホを伏せた。
見なかったことにも、言わなかったことにも、まだ戻れると思いたかった。
けれど、その沈黙はもう、
“知らなかった”では済まされないところまで来ていた。




