第8話 留美の非日常
10月15日、木曜日。
午後――
「大変! 留美! ニュース! ニュース!」
3限目の終わりの休み時間。
昼食前の気だるさでぼんやりしていた留美の机に、梓沙が駆け寄ってきた。
「さっき職員室にプリントを取りに来いって言われて、行ったんだ。そしたら警察が来てて、先生たちがざわついてるのが聞こえてきて――」
梓沙は、いつになく興奮していた。
急いで戻ってきたのだろう。
肩が大きく上下し、息遣いも荒い。
いつもなら少し芝居がかった調子で話しそうな場面なのに、そんな余裕もなさそうだった。
「何? 何なの? ちょっと落ち着きなさいよ!」
「これで落ち着いていられるわけないでしょ! 三田村安奈さんって、あなたの部の先輩だったよね? その人、殺されちゃったらしいの! しかもね、どうも1週間前の殺人事件と同じ犯人の可能性があるって――!」
「えっ?」
それだけだった。
留美の口から出た言葉は、それで止まった。
安奈さんが。
殺された。
意味はわかるはずなのに、頭の中でうまく形にならない。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
耳の奥が急に遠くなる。
教室のざわめきが、一瞬だけ薄い膜の向こうへ押しやられた。
心臓の音だけが、やけに大きい。
つい昨日まで、同じ部室で着替え、同じ体育館で汗を流していた。
あの明るくて、強くて、少し気が強いけれど頼れる先輩が。
梓沙は留美の横で中腰になると、声のトーンを落として耳元で囁いた。
「まだ先生たちも詳しく知らないみたい。でも、警察が来てるのは本当。たぶん……今日、部の子たちとかも呼ばれるんじゃないかな」
「そんな……」
留美は机の端を指で掴んだ。
爪の先が白くなる。
手の平には、もう薄く汗が滲んでいた。
*
昼休みが始まっても、教室の空気は落ち着かなかった。
昨日まで“他人の事件”として口にされていた話が、今日は急に形を持って目の前に置かれている。
チアダンス部の子が死んだ。
しかも同じ学校の生徒で、前の事件と同じ犯人かもしれない。
その事実が、教室の輪郭まで少し変えてしまったように思えた。
誰かがスマホでニュースを開く。
誰かが声を潜めて「やばくない?」と言う。
誰かが留美の方をちらっと見て、すぐに逸らす。
視線を向けられている。
それは、はっきりわかった。
同情なのか。
好奇心なのか。
ただ気まずいだけなのか。
留美には判別できない。
けれど、その曖昧さがいちばん嫌だった。
向かいの列の女子が、何か言いかけてやめた。
その隣の子は、ニュース画面を慌てて伏せる。
見ていないふりをしているのに、空気だけがずっとこっちを向いていた。
留美はスマホを取り出した。
何か確かめたかった。
でも、何を確かめればいいのか、自分でもわからない。
ニュースアプリを開いても、文字が頭に入ってこない。
見出しを追っているはずなのに、意味が途中で途切れる。
スマホの角が、汗ばんだ手の中で少し滑った。
――落ち着いて。
――まだ決まったわけじゃない。
――でも、梓沙があんな顔をするなんて普通じゃない。
否定と確信が、胸の奥で何度もぶつかる。
昼食のパンを開ける気にもなれず、留美は机の中に押し込んだまま、ただ画面を見つめた。
時間だけが、意地悪みたいに鈍かった。
*
午後の授業も、ほとんど頭に入らなかった。
黒板に書かれる文字。
教師の声。
ノートをめくる音。
その全部が、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。
たまに我に返ってノートを見ても、自分がさっき何を書いたのかすぐにわからなくなる。
英単語も数式も、意味を持たない記号の並びにしか見えない。
その間にも、留美の頭の中では先週の部室の光景が何度も再生されていた。
苛立った声。
蹴飛ばされた小さな椅子。
そして、あの青い写真。
立体駐車場。
古びた一戸建て。
深い青。
胸の奥が、ひやりと冷える。
――あれを、言った方がいいのかな。
――でも、ただのいたずらかもしれない。
――でも、もしあれが関係していたら。
そこまで考えるたび、喉の奥が苦くなった。
ただ警察に話すのが怖いんじゃない。
あの写真のことを口にした瞬間、それが“気味の悪いメール”ではなく、安奈の死に直結したものになってしまう気がした。
言葉にした途端、自分も本当に事件の中へ引きずり込まれる。
そんな気がして、喉が詰まる。
*
放課後――
担任が教室の前に立ち、数人の名前を読み上げた。
その中に、留美の名前もあった。
「城戸谷留美さん。午後5時に1階の応接室へ来てください」
教室の空気が、少しだけ動いた。
クラスメイトたちの視線が、音もなく留美へ集まる。
その瞬間、呼吸が浅くなった。
肺の上の方でしか息ができない。
吸っているつもりなのに足りない。
喉元だけがひどく乾いていた。
前の席の子が振り返りかけてやめた。
後ろの方では、椅子を引く音が妙に大きく響く。
誰も何も言わない。
なのに、何か言われるよりずっと居心地が悪かった。
梓沙が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……うん」
そう答えたが、自分の声が少し掠れているのがわかった。
*
約束の時間より少し早く、留美は応接室の近くまで来ていた。
だが中へ入る勇気が出ず、廊下の壁際に立ったまま、スマホを握る。
廊下の蛍光灯は白く、冷たい。
磨かれた床に、その光が薄ら映り込んでいる。
遠くから聞こえてくるのは、部活へ向かう生徒たちの足音と、運動部の掛け声だけだ。
こんなに学校は普通に動いているのに、自分だけ別の場所へ取り残されたような気分になる。
応接室の扉は、他の教室の扉と変わらないはずだった。
なのに、白い塗装だけが妙に硬く見える。
ただの入口じゃない。
自分とは別の現実へ繋がる境目みたいに見えてしまう。
スマホを握る手に、また汗が滲んだ。
掌でケースの縁を何度もなぞる。
落ち着こうとしているのに、指先だけが忙しなく動く。
扉の向こうで、誰かの声がした。
低い女性の声。
それから、聞き取れない別の声。
紙をめくるような、微かな音までした気がした。
心臓が一段、強く脈打つ。
――大丈夫。
――ただ話を聞かれるだけ。
――でも、何を?
――どこまで知ってるんだろう?
そう考えた瞬間、またあの青い写真が脳裏に浮かんだ。
立体駐車場。
古びた一戸建て。
深い青。
留美は思わずスマホを強く握りしめた。
指の腹が白くなる。
喉の奥が、きゅっと締まる。
もし、あのことを聞かれたら。
もし、自分のスマホも見せろと言われたら。
もし、自分が話したことのせいで、安奈さんの死がもっとはっきりした形で目の前に出てきたら。
まだ何も起きていないのに、その想像だけで息がうまく入ってこなくなる。
「城戸谷さん、どうぞ」
扉が開き、中から教師が顔を出した。
留美は一瞬だけ、足が前に出なかった。
その場で立ち竦みそうになりながら、何とか頷く。
浅い呼吸のまま、応接室へ足を踏み入れた。
そこで待っているものが、ただの事情聴取ではなく、
自分の日常をもう一段壊すものかもしれない。
そんな予感だけが、どうしても消えなかった。




