表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/105

第8話 留美の非日常

10月15日、木曜日。

午後――


「大変! 留美! ニュース! ニュース!」


3限目の終わりの休み時間。

昼食前の気だるさでぼんやりしていた留美の机に、梓沙が駆け寄ってきた。


「さっき職員室にプリントを取りに来いって言われて、行ったんだ。そしたら警察が来てて、先生たちがざわついてるのが聞こえてきて――」


梓沙は、いつになく興奮していた。


急いで戻ってきたのだろう。

肩が大きく上下し、息遣いも荒い。


いつもなら少し芝居がかった調子で話しそうな場面なのに、そんな余裕もなさそうだった。


「何? 何なの? ちょっと落ち着きなさいよ!」


「これで落ち着いていられるわけないでしょ! 三田村安奈さんって、あなたの部の先輩だったよね? その人、殺されちゃったらしいの! しかもね、どうも1週間前の殺人事件と同じ犯人の可能性があるって――!」


「えっ?」


それだけだった。


留美の口から出た言葉は、それで止まった。


安奈さんが。

殺された。


意味はわかるはずなのに、頭の中でうまく形にならない。


顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。

耳の奥が急に遠くなる。

教室のざわめきが、一瞬だけ薄い膜の向こうへ押しやられた。


心臓の音だけが、やけに大きい。


つい昨日まで、同じ部室で着替え、同じ体育館で汗を流していた。

あの明るくて、強くて、少し気が強いけれど頼れる先輩が。


梓沙は留美の横で中腰になると、声のトーンを落として耳元で囁いた。


「まだ先生たちも詳しく知らないみたい。でも、警察が来てるのは本当。たぶん……今日、部の子たちとかも呼ばれるんじゃないかな」


「そんな……」


留美は机の端を指で掴んだ。


爪の先が白くなる。

手の平には、もう薄く汗が滲んでいた。



昼休みが始まっても、教室の空気は落ち着かなかった。


昨日まで“他人の事件”として口にされていた話が、今日は急に形を持って目の前に置かれている。


チアダンス部の子が死んだ。

しかも同じ学校の生徒で、前の事件と同じ犯人かもしれない。


その事実が、教室の輪郭まで少し変えてしまったように思えた。


誰かがスマホでニュースを開く。

誰かが声を潜めて「やばくない?」と言う。

誰かが留美の方をちらっと見て、すぐに逸らす。


視線を向けられている。


それは、はっきりわかった。


同情なのか。

好奇心なのか。

ただ気まずいだけなのか。


留美には判別できない。


けれど、その曖昧さがいちばん嫌だった。


向かいの列の女子が、何か言いかけてやめた。

その隣の子は、ニュース画面を慌てて伏せる。


見ていないふりをしているのに、空気だけがずっとこっちを向いていた。


留美はスマホを取り出した。


何か確かめたかった。

でも、何を確かめればいいのか、自分でもわからない。


ニュースアプリを開いても、文字が頭に入ってこない。

見出しを追っているはずなのに、意味が途中で途切れる。


スマホの角が、汗ばんだ手の中で少し滑った。


――落ち着いて。

――まだ決まったわけじゃない。

――でも、梓沙があんな顔をするなんて普通じゃない。


否定と確信が、胸の奥で何度もぶつかる。


昼食のパンを開ける気にもなれず、留美は机の中に押し込んだまま、ただ画面を見つめた。


時間だけが、意地悪みたいに鈍かった。



午後の授業も、ほとんど頭に入らなかった。


黒板に書かれる文字。

教師の声。

ノートをめくる音。


その全部が、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。


たまに我に返ってノートを見ても、自分がさっき何を書いたのかすぐにわからなくなる。


英単語も数式も、意味を持たない記号の並びにしか見えない。


その間にも、留美の頭の中では先週の部室の光景が何度も再生されていた。


苛立った声。

蹴飛ばされた小さな椅子。

そして、あの青い写真。


立体駐車場。

古びた一戸建て。

深い青。


胸の奥が、ひやりと冷える。


――あれを、言った方がいいのかな。

――でも、ただのいたずらかもしれない。

――でも、もしあれが関係していたら。


そこまで考えるたび、喉の奥が苦くなった。


ただ警察に話すのが怖いんじゃない。


あの写真のことを口にした瞬間、それが“気味の悪いメール”ではなく、安奈の死に直結したものになってしまう気がした。


言葉にした途端、自分も本当に事件の中へ引きずり込まれる。


そんな気がして、喉が詰まる。



放課後――


担任が教室の前に立ち、数人の名前を読み上げた。


その中に、留美の名前もあった。


「城戸谷留美さん。午後5時に1階の応接室へ来てください」


教室の空気が、少しだけ動いた。


クラスメイトたちの視線が、音もなく留美へ集まる。


その瞬間、呼吸が浅くなった。


肺の上の方でしか息ができない。

吸っているつもりなのに足りない。

喉元だけがひどく乾いていた。


前の席の子が振り返りかけてやめた。

後ろの方では、椅子を引く音が妙に大きく響く。


誰も何も言わない。

なのに、何か言われるよりずっと居心地が悪かった。


梓沙が心配そうに顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「……うん」


そう答えたが、自分の声が少し掠れているのがわかった。



約束の時間より少し早く、留美は応接室の近くまで来ていた。


だが中へ入る勇気が出ず、廊下の壁際に立ったまま、スマホを握る。


廊下の蛍光灯は白く、冷たい。

磨かれた床に、その光が薄ら映り込んでいる。


遠くから聞こえてくるのは、部活へ向かう生徒たちの足音と、運動部の掛け声だけだ。


こんなに学校は普通に動いているのに、自分だけ別の場所へ取り残されたような気分になる。


応接室の扉は、他の教室の扉と変わらないはずだった。

なのに、白い塗装だけが妙に硬く見える。


ただの入口じゃない。

自分とは別の現実へ繋がる境目みたいに見えてしまう。


スマホを握る手に、また汗が滲んだ。

掌でケースの縁を何度もなぞる。


落ち着こうとしているのに、指先だけが忙しなく動く。


扉の向こうで、誰かの声がした。


低い女性の声。

それから、聞き取れない別の声。

紙をめくるような、微かな音までした気がした。


心臓が一段、強く脈打つ。


――大丈夫。

――ただ話を聞かれるだけ。

――でも、何を?

――どこまで知ってるんだろう?


そう考えた瞬間、またあの青い写真が脳裏に浮かんだ。


立体駐車場。

古びた一戸建て。

深い青。


留美は思わずスマホを強く握りしめた。


指の腹が白くなる。

喉の奥が、きゅっと締まる。


もし、あのことを聞かれたら。

もし、自分のスマホも見せろと言われたら。

もし、自分が話したことのせいで、安奈さんの死がもっとはっきりした形で目の前に出てきたら。


まだ何も起きていないのに、その想像だけで息がうまく入ってこなくなる。


「城戸谷さん、どうぞ」


扉が開き、中から教師が顔を出した。


留美は一瞬だけ、足が前に出なかった。


その場で立ち竦みそうになりながら、何とか頷く。


浅い呼吸のまま、応接室へ足を踏み入れた。


そこで待っているものが、ただの事情聴取ではなく、

自分の日常をもう一段壊すものかもしれない。


そんな予感だけが、どうしても消えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ