第10話 白の男
福岡で女子高生の連続殺人が、まだ“法則”としてはっきり見えきっていなかった頃。
東京では、別の静けさの中で、1人の男が動いていた。
JR山手線・田町駅西口を出て数分。
「慶応仲通り商店街」の一角に、創業50年を優に超える喫茶店がある。
店の名は、ル・ブラン。
フランス語で、“白”を意味する。
雑居ビルの1階に入っているだけの店だが、外観は白を基調とした大胆なデザインで、通りの中でもひときわ目を引いた。
白い壁。
白い庇。
白い縁取り。
主張しすぎないのに、視線を逃さない。
まるで、そこだけ別の時間が流れているようだった。
だが、一歩店内へ入ると印象は一変する。
内装は深みのある木で統一され、壁には漆が丁寧に塗られていた。
古い帆船の船室を思わせる、どこか閉ざされた温もりのある空間だ。
奥には仕切りで囲われた席が1卓だけあり、その席だけ黒革のソファが据えられている。
自然と、その場所が“特別席”なのだとわかる造りだった。
そこに、1人の男がゆったりと身を沈めていた。
脚を組み、両手で新聞を広げている。
テーブルの上には、冷たい水の入ったグラスが1つ。
表面に細かな水滴が浮いていたが、男はそれに一度も触れていない。
待たされているのでも、急いでいるのでもない。
ただ、そこにいること自体が自分に相応しいと知っているような落ち着きがあった。
痩せ型で、整えられたやや長めの髪には白髪が混じる。
短く揃えられた顎髭にも、白が目立つ。
若く見えなくもないのに、その白が年齢を曖昧にしていた。
白地にグレーのストライプシャツ。
ネクタイは締めていない。
だが、その上に羽織る黒いジャケットは上質で、どこから見ても紳士然としている。
やがて、ショートヘアの若い女性が店に入ってきた。
クリーム色のジャケットに白いジーンズ。
右肩には、少し大きめのバッグ。
彼女は最奥の席へ小走りで向かい、仕切り越しに男の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「もうお着きになっていたんですね! お待たせして申し訳ありません!」
深々と頭を下げる。
男は新聞を畳み、穏やかに微笑んだ。
左手首の腕時計をちらりと見て言う。
「いえいえ。約束の午後1時まで、まだ5分あります。私が少し早く来ただけですよ。どうぞ、お掛けください」
柔らかい声だった。
その声音だけで、相手の緊張を自然に解いてしまうような響きがある。
女性は思った。
写真で見るより、ずっと魅力的だ――と。
畏まってソファに腰を下ろし、バッグからノートとペンを取り出す。
そして内ポケットから名刺を差し出した。
「本日はお忙しい中、取材に応じていただきありがとうございます」
名刺には、こう記されている。
東都経済新聞
記者 鐘ヶ江円香
男は名刺を受け取り、やや照れたように言った。
「ありがとうございます。ただ、私は名刺を持たない主義でして。改めまして。不動産投資アドバイザーの白石翔流と申します」
「もちろん存じております! ご多忙で、なかなか取材に応じていただけないことも。本日は30分もお時間をいただき光栄です。さっそく始めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
白石は穏やかに応じた。
白石翔流――
昨年秋頃、彗星のように現れた不動産投資アドバイザー。
経歴はほとんど公開されていない。
取材にも滅多に応じない。
それだけで、十分に“商品価値”があった。
鐘ヶ江にとって、この取材は幸運そのものだった。
*
取材は予定通り、30分ほどで終わった。
白石は質問に対して簡潔に答え、必要以上の情報は与えない。
だが、拒絶しているわけでもない。
答えるべきことは答え、曖昧にすべきところは自然にかわす。
その加減が、鐘ヶ江にはますます魅力的に映った。
だが、途中から彼女は別のことにも気づき始めていた。
どの答えも短い。
なのに、会話の主導権は最初から最後まで白石の側にあった。
こちらが質問しているはずなのに、いつのまにか白石の作る温度の中で話している。
曖昧にかわされたはずの箇所さえ、こちらが勝手に納得してしまう。
隙がない。
あまりにも整いすぎている。
それでも鐘ヶ江は、ノートを取る手を止めなかった。
「本日は誠にありがとうございました。読者が満足する記事を書けると思います。最後に、お写真を数枚――」
彼女はバッグから一眼レフカメラを取り出す。
「写真写りはあまり自信がないのですが……」
「とんでもありません」
鐘ヶ江は夢中でシャッターを切った。
カメラ越しの白石は、どの角度から見ても隙がない。
横顔は静かで、視線には余裕があり、口元にはどこか人を安心させる微笑がある。
“成功者”という言葉が、これほど自然に似合う人物を、鐘ヶ江はあまり見たことがなかった。
だが、ファインダー越しに見つめていると、時折、生身の人間というより、完成された像を撮っているような気がした。
整いすぎていて、逆に呼吸の感じが薄い。
それがほんのわずかに、気になった。
「では、そろそろ――」
白石が立ち上がろうとした瞬間、鐘ヶ江が慌てて声を上げた。
「あの、最後にひとつだけ。ずっと気になっていたんです。“翔流”というお名前、今風ですよね。本名ですか? 失礼ですが、昭和のお生まれでは……?」
やや早口になっていた。
記者の質問というより、興味を抑えきれなかったのだろう。
白石は一瞬だけ目を細め、穏やかに微笑んだ。
「意外でしょうが、本名です。母が名付けました。時代を先取りする感性があったのかもしれませんね」
そう言って、伝票を手に立ち上がる。
「あっ、お勘定は私が――」
鐘ヶ江が制止するより早く、白石は右手を軽く上げ、会計を済ませた。
動作に無駄がない。
自然で、滑らかで、相手に遠慮させる隙さえ与えない。
その所作はあまりにも洗練されていて、かえって人間味を感じさせなかった。
そのまま店を出ていく。
鐘ヶ江はしばらく、席を立てなかった。
何て素敵な人なのだろう。
礼儀正しく、落ち着いていて、しかもどこか近寄りがたい。
記事のために会ったはずなのに、気づけば、自分が相手に魅了されている。
彼女は自嘲気味に小さく笑った。
記者失格かもしれない。
だが、それでも思ってしまう。
白石翔流という男は、ただ感じがいいだけではない。
何か、底の見えないものを持っている。
そう思った瞬間、なぜか背筋が薄く冷えた。
*
白石は田町駅へ向かい、構内を抜けて東口へ出た。
そこから「なぎさ通り」沿いのビルへ入る。
1階の一区画は、まだテナント募集中で、ガラス越しには空の店舗が見えた。
白石は周囲を一度だけ静かに見回し、ポケットから鍵を取り出す。
カチャリ。
誰も入っていないはずの空き店舗の扉が、あっさりと開いた。
白石は中へ入る。
薄暗い室内には、什器も家具もない。
床も壁もまだ新しく、生活の匂いがまるでしなかった。
彼は扉を閉めると、胸元のスマホを取り出す。
画面には、いくつかの未読通知が並んでいた。
その1つに、福岡という文字が小さく浮かんでいる。
白石はそれを数秒だけ見つめた。
そして、口元に微かな笑みを浮かべる。
それは、取材中に見せていた人を安心させる笑みとは、まるで違っていた。
まだ誰も知らない。
福岡で起きている連続殺人と、この男の間に、どんな線が引かれようとしているのかを。
まだ誰も気づいていないだけで、その線の先には、城戸谷留美たちが息をしている福岡の時間が、すでに静かに繋がっていた。
ただひとつ確かなのは、
その線が偶然では終わらないということだけだった。




