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第11話 9色の席

白石が空き店舗の奥へ進むと、そこは表通りから完全な死角になっていた。


内部はおよそ30畳。


中央付近は半分壁で仕切られ、外から見れば、ただ使われていない雑然とした空間にしか見えない。


だが、その奥だけは、不自然なほど整えられていた。


そこに、エレベーターがある。


古びた店舗の最奥にあるには場違いなほど無機質で、金属の光沢だけが周囲から浮いていた。


白石は迷いなくその前に立ち、右手の平を壁のセンサーへかざす。


扉は、ほとんど音を立てずに開いた。


中へ乗り込む。


通常あるはずの階数ボタンはどこにもない。

扉のすぐ横に、長方形の小さなセンサーが1つあるだけだった。


白石は再びそこへ手をかざした。


次の瞬間、エレベーターは滑るように動き始める。


揺れはほとんどない。

微かな振動だけが、足裏から身体へ伝わってきた。


やがて停止し、扉が開く。


正面には、薄暗い奥へまっすぐ伸びる狭い通路が続いていた。


白石が一歩踏み出す。


すると足元の床が淡く発光し、その光が前方へ走ったかと思うと、床そのものが動き出した。


低い機械音を響かせながら、彼を乗せて前へ進んでいく。


身体は揺れない。

なのに、景色だけが流れていく。


通路は一切曲がらない。


わずかなカーブすらない、完全な直線だった。


やがて前方に、通路幅よりはるかに広い空間が見えてくる。


行き止まりの壁のように見えるその前に、1人の女性が直立不動で立っていた。


片腕にはノートパソコンらしきものが抱えられている。


床の移動が止まり、白石が到着すると同時に、女性は恭しく一礼した。


「お待ちしておりました、ケテルさま」


“ケテル”。


それが、この男のもうひとつの名だった。


「お疲れさまです、葛木さん。午後2時の5分前。会議には十分間に合いましたね」


白石――いや、ケテルは静かに言った。


葛木は水色のスーツを端正に着こなし、いかにも有能な秘書といった風貌だった。


長い髪を後頭部で束ね、小顔に銀縁眼鏡がよく似合う。

スカートは膝上15センチほどの丈だが、その佇まいは色気よりも冷静さが勝っていた。


「はい。各席の調整も終わっております」


葛木の返答は簡潔だった。


この空間の異様さに気圧された様子はない。

ここが日常の延長であるかのように自然だった。


ケテルが壁の中央付近へ進むと、空間にタッチパネルが浮かび上がる。


彼が迷いなく操作すると、壁が音もなく左右へ割れた。


その向こうには、正方形の会議室が広がっていた。


中央には巨大な丸卓。


その上には、日本列島を模した精巧なミニチュアが置かれている。


そして、9席の椅子が、均等な間隔でそれを囲んでいた。


椅子の背もたれは高く、その最上部には長方形の表示パネルが埋め込まれている。


色は――


最奥が白。


そこから時計回りに、

灰、黒、青、赤、黄、緑、橙、紫。


9色が、ゆっくりと明滅していた。


ケテルは一歩、会議室へ踏み入れた。


その視線が、丸卓の日本列島へ一瞬だけ落ちる。


北部九州の辺りに、ごく小さな青い光点が浮かんでいた。


ほんの一瞬の明滅。


知らなければ見落とす程度の小ささだったが、ケテルはそこから目を逸らさなかった。


「……順調ですね」


独り言のような小さな声だった。


だが、その一言には、これまで積み上げてきたものが崩れていないという確信が滲んでいた。


葛木が静かに答える。


「はい。予定通りです」


ケテルはわずかに口元を緩めた。


白石翔流として喫茶店で見せていた穏やかな笑みよりも、こちらの方がずっと静かで、ずっと冷たかった。


1年近く。


表の顔を保ちながら、この地下で準備を重ねてきた。

ようやく、その盤面が揃いつつある。


その手応えが、彼の視線の奥にだけ微かに宿っていた。


ケテルは最奥の白く点滅する椅子へ向かい、ゆっくりと腰を下ろした。


葛木はその左後方に立つ。


部屋には、彼ら以外の人影はない。


だが、空席のまま点滅している椅子たちは、まるで“不在の誰か”を待っているように見えた。


「少し早いですが、会議を始めてもよろしいでしょうか?」


葛木が問いかける。


「ちょっと待ってください」


ケテルは右手を左目へ伸ばした。


親指と人差し指でコンタクトレンズの縁を摘み、静かに外す。


テーブルの上に置かれたレンズは、ダークブラウン。


外された左目の虹彩は――真っ白だった。


中央の瞳孔だけが、漆黒に浮かび上がる。


左右異なる瞳の色。

ヘテロクロミア。


「ふう……やはり長時間のコンタクトは疲れますね」


ケテルは小さく笑う。


「このままでは、多くの人が私を気味悪がるでしょう。仕方ありません」


「最初は驚きましたが、今はまったく気になりません。むしろ、そちらの方が素敵です」


葛木は静かな声で言った。


お世辞を言っているようには聞こえない。

本気でそう思っている者の声音だった。


「ふっ……ありがとう。あなたには、この1年近く本当に世話になりました」


白い左目が、わずかに細められる。


その瞬間だけ、ケテルの表情には冷たさとは別の色が差した。


信頼というほど温かくはない。

だが、自分の計画を最後まで見届けられる相手として、葛木を認めていることは伝わった。


葛木は小さく頭を下げる。


「光栄です」


会議室には、何も始まっていないはずの静けさがあった。


だが、その静けさは空白ではない。


始まるものの重みで、むしろ張り詰めている。


白。

灰。

黒。

青。

赤。

黄。

緑。

橙。

紫。


9つの席が、呼吸するようにゆっくりと明滅する。


誰も座っていないはずなのに、そこにはすでに役割だけが存在していた。


「もう準備は万端です」


葛木が言う。


ケテルはゆっくりと丸卓を見渡した。


9つの色。

列島の上に置かれた小さな光点。

まだ誰も座っていない椅子たち。


そして、北部九州に灯る、あの小さな青。


白い左目に、わずかな高揚が宿る。


「では――始めましょう」


この地下深くの空間では、色が人の名より先に意味を持っている。


そのことだけで、十分に異様だった。


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