第87話 青と灰色の交わり
11月3日、火曜日、祝日――
羽田発福岡行きの機内で、灰谷零央は窓の外を見下ろしていた。
サングラス越しに、福岡市街の輪郭がゆっくりと近づいてくる。
やがて機体は大きく傾き、着陸態勢に入った。
轟音と微かな振動を伴って、飛行機が滑走路へ降り立つ。
午前9時30分。
福岡市内は、雲ひとつない快晴だった。
空港のタクシー乗り場で車を拾うと、灰谷は後部座席に身を沈め、短く告げた。
「浄水通の●●教会まで」
運転手は、若い女性だった。
車が走り出してしばらくした後、彼女は何度かバックミラー越しに灰谷の顔を盗み見た。
そして、思い切ったように口を開く。
「あの……もしかして、灰谷零央さんですか?」
灰谷は、わずかに口元を緩めた。
「いえ。他人の空似です」
声は柔らかい。
「よく間違えられるんですよ」
その否定は、あまりにも自然だった。
だが、そこには明確な意思があった。
自分が福岡にいることを、知られたくない。
それ以上、この土地に自分の輪郭を残したくなかった。
*
約30分後――
タクシーは、浄水通の教会前で止まった。
灰谷は料金を支払い、静かに車を降りる。
運転手の女性は、最後まで彼が“本物”ではないかと気にしている様子だった。
タクシーが走り去った後も、背中に視線の残り香が消えない。
だが灰谷は、まるで意に介さない。
そのまま、教会の入口へ続く石畳の道へ足を踏み入れた。
敷地に入ってすぐ、一陣の風が吹く。
長いジャケットの裾がはためいた。
左手には、大きな銀杏の木。
その下に、青山功貴の姿があった。
周囲には数人の子どもたちが座り込み、彼の話に耳を傾けている。
「神父さま、神さまって本当にいるの?」
幼い声が響く。
青山は穏やかな微笑を浮かべたまま答えた。
「いますよ。あなたたちのすぐそばで、いつも見守ってくださっています」
声は静かで、よく通る。
「だから、悪いことをしてはいけません。したことは、いつか必ず自分に返ってきます」
子どもたちは、それぞれ頷きながら聞き入っていた。
その時、1人の子が灰谷に気づいた。
「あ、誰か来た」
その一言で、他の子どもたちも青山も、一斉に灰谷の方を向く。
青山は灰谷の姿を認めると、表情を崩さぬまま子どもたちへ言った。
「……お客さまです。今日のお話はここまでにしましょう。気をつけて帰るのですよ」
子どもたちは名残惜しそうに顔を見合わせたが、やがて「またね」と言いながら散っていく。
青山はその背中が見えなくなるまで、穏やかに手を振り続けた。
そして、灰谷が近づいてくる。
「お久しぶりですね、ケセド――」
灰谷は、青山をその名で呼んだ。
青山――ケセドは、微かに笑う。
「前回の会議を欠席した件、失礼しました。私が下手に動けば、“殻”に察知される恐れがありましたので」
一呼吸置く。
「内容を伝えていただき、助かりました。コクマ――」
今度は、青山が灰谷を“コクマ”と呼んだ。
「ここでは話せません。どうぞ、中へ」
*
教会内部――
正面の礼拝堂。
最前列の長椅子に、2人は中央通路を挟んで腰を下ろした。
高い天井。
静まり返った空気。
マリア像と十字架が、正面から彼らを見下ろしている。
ケセドは、右目の偽装を外した。
左が深い青、右がダークブラウンの異なる瞳。
対してコクマはサングラスを外し、左の灰色の瞳を露わにする。
2人とも、お互いに顔は向けない。
視線は正面の聖像へ向けたまま、会話だけが交わされる。
「“殻”の居場所は掴めたのですか?」
コクマの問いは、短かった。
「……はい」
ケセドが答える。
「このまま放置すれば、確実に成熟するでしょう。そして、さらに大きな“災厄”を呼ぶ可能性があります」
そこで一拍置く。
「そうなれば、もう今の形では止められません」
礼拝堂の空気は静かなままだったが、その言葉だけが異様に重く残った。
「実行は、いつ?」
「明日の午後10時以降――速やかに」
その返答を聞いた瞬間、コクマは静かに立ち上がった。
ケセドの正面へ回り込み、ジャケットの内ポケットに手を差し入れる。
取り出したのは、2枚の封筒だった。
「私の“知恵の護符”と、ネツァクから預かった“勝利の護符”です」
封筒を差し出す。
「あなたの持つ“慈悲の護符”と合わせれば――」
一瞬だけ間を置く。
「成功を祈ります」
ケセドは無言で封筒を受け取った。
コクマはそれを確認すると、再びサングラスをかける。
そして何も言わず、中央通路を出口へ向かって歩き始めた。
スニーカーの靴音が、石床に乾いた音を残す。
ケセドは振り向かない。
やがて、扉が開き、閉じる音がした。
コクマの気配は、教会の外へ消えていった。
*
ひとり残された後、ケセドはゆっくり立ち上がった。
礼拝堂の左奥、小さな私室へ移動する。
そこには、薄く香木の香りが漂っていた。
ケセドは受け取った封筒を開き、中身を取り出す。
1つは、灰色の地に金糸の複雑な刺繍が施された長方形の護符。
もう1つは、緑の地に同じ意匠を持つ護符。
ケセドはクローゼットを開いた。
奥から、青い地に金糸の刺繍が縫い込まれた護符を取り出す。
それを、灰と緑の護符の隣に並べた。
青。
灰。
緑。
3つの護符が、中央のテーブルの上に静かに揃う。
香木の煙が、細く立ちのぼる。
その揺らめきの向こうで、左の青い虹彩が微かに揺れていた。




